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1杯目 紅茶は血よりも濃い ②

 流れるように進む猫の作業に、鈴は感嘆の息を漏らした。

 思わず拍手したくなるほど、楽しい光景だ。可愛らしい童話の世界が、美しく写実的なCGで描き起こされたみたいだ。目の前で起きたできごとなのに、まだ信じられなかった。


 猫に釘付けだった鈴は心を落ち着かせてから、目の前に置かれた紅茶に目を移す。

 ティーカップの中に広がるダージリンは、深い琥珀色で、まるで夕焼けのような美しさを放っている。

 儚い湯気が微かに立ち上り、静かに空気に溶けていく。甘く芳醇な香りが鼻をくすぐり、心を穏やかに包み込んだ。

「いただきます」

 鈴はまるで雲を掴むかのように慎重な動きで、正面に置かれたティーカップを手に取る。

 熱が指先に伝わり、ほんのり温かい感覚が心地良かった。

 それからゆっくりと紅茶を口に含ませる。

 まるで自然そのものが凝縮されたかのようなダージリンの香りは、一瞬で心を朗らかにし、癒やしのひとときを与えてくれる。

 喉越しは繊細で滑らか。そして柔らかな香りの余韻が残った。

 自然と温かい吐息が溢れ出る。

「……お、美味しいです!」

「ありがとうございます」

 鈴の言葉に、猫は満足そうにニヤリと口角を上げる。自信に満ち足りた表情だ。背中の後ろで、嬉しそうにグレーの尻尾が揺れている。

 

 今まで生きてきた中で、1番の紅茶だ。

 鈴は疑う余地もなく、そう確信した。

 細部まで拘っているのが、一杯の紅茶から伝わってくる。いままでティーバッグの紅茶しか飲んだことがなかったから当然といえば当然だ。

「猫さんは1人(?)でお店を切り盛りしているんですか?」

 鈴はふと疑問を口にする。

 すると猫はヒゲを揺らして、苦笑しながら話す。

「ええ、基本的には。ですが仕込みに時間がかかるので、お店が開いている時間は短いんです」

 たしかにいくら今みたいに無駄のない所作で動いたとしても、人間が紅茶を淹れる方がよっぽど早く出来上がるだろう。

 そう言っている間も、猫は片付ける手を止めない。

「お客さんが立て込んだら大変そうですね」

「こういう場所なので、混むことは滅多にないですよ。よく見つけましたね」

「は、はい。偶然通りがかっったので……」

 学校の帰りに通学路を外れて、寄り道をしている後ろめたさもあって、何となく曖昧な返事になってしまった。


 それから鈴は紅茶が冷める隙を与えずに、香りを体の中に閉じ込めるように、あっという間に飲み干した。

 ちょうどそのとき、お店にあった掛け時計から鐘の音が鳴った。

 16時を知らせるものだ。

 紅茶を楽しんでいた鈴の表情がたちまち曇る。

 血の気が引いて、紅茶で温まっていたはずの体温が少しずつ下がっていくのを感じた。

 鈴は小さく震えた声で訊ねる。

「……あの、もう少しここに居ても大丈夫ですか?」

「はい。構いませんよ」

 猫は考える素振りを見せずに、こくりと頷いて、快く引き受けてくれた。

 それから耳をピクリとさせて、小首を傾げながら訊ねてくる。

「しかし親御さんが心配しませんか?」

 心臓が針で刺されたみたいにチクリとする。

 そこからドロっとした嫌悪感が溢れ出て、全身にじんわりと広がっていく感覚だった。

 そして鈴は顔にぎゅっとしわを寄せると、苦渋を帯びた声を絞り出した。

「……母には会いたく、ありません」

 店内にしんとした空気が張り詰める。


 鈴はもう一度、時計に目を向けた。

 母が仕事のために出掛けるのは、18時を過ぎてからだ。あと2時間。それまでは家に帰るわけにはいかなかった。

 鉢合わせてしまったら最後、ゴミを見るような視線と粗野な暴力を受ける。その度に、小さな体をさらに縮めて、ジッと耐えることしかできなかった。

 母が直接、鈴に危害を加えるようになったのは、父親が亡くなってからだった。

 理由はわからない。もともと理由なんて無いのかもしれない。

 鈴がどれだけ大人しくしていても、母は恨めしそうに拳を振り上げるのだ。

 鈴はそんな環境から逃れるために、学校終わりにさまざまな場所で時間を潰し、母と顔を合わせないようにすることが日常になっていた。

 それでも他に頼れるところも、逃げる場所もない。耐え続けるしかないのだ。

 鈴の頭に、母の顔が過ぎって身震いがする。

 想像しただけで、全身が強張り、俯くことしかできなかった。


 猫はそんな鈴の様子をじっと見つめて、それから何も言わずにお湯を沸かし始めた。

 しんとした空気をかき消して、電気ケトルから聞こえてくるグツグツと沸騰する音がお店を満たす。

 それからさっきと同じようにティーポットにお湯を注ぎ、少し待ってから空になった鈴のティーカップに紅茶を注いだ。

「こちらは出涸らしですので、お代は頂きません」

「え、あ、ありがとうございます」

 鈴は少し呆気に取られながらも、お礼を言う。

 目の前で湯気を漂わせる紅茶は、1杯目よりも少しだけ色彩が淡いけれど、漂ってくる芳醇な香りはまったく同じだった。それだけで気持ちが少し和らぐ。


 すると猫は少し目を細めて、鋭い眼差しを鈴に向ける。

 まるですべてを見通すかのような、力強い瞳だった。

「それなら落ち着くまで、ここにいて下さい。紅茶は血よりも濃い、ですから」

「……え?」

 ことわざ、だろうか?

 初めて聞く言葉だ。鈴はポカンと口を開けて、猫を見つめる。

 すると猫は前足で顔の辺りを擦ると、ゆっくりと話始めた。

「血縁関係というのは、人間が思っているほど大切ではないということです」

 先ほどまでの丁寧な口調は残っているものの、吐き捨てたような物言いだ。

 鼻を鳴らし、耳が微かにピンと反っている。上品な言葉遣いが、いっそう不遜な感じをより引き立たせていた。

「血が繋がっているからといって、分かり合えるとは限りません。特別な関係だと思い込んでいるだけで、実際には親子でも他人ですから」

 猫は話しているだけでは落ち着かないのか、低い位置で尻尾を左右に動かしている。背中の毛がピリッと逆立ち、もともとつり目だった目元をさらに鋭くした。

「しかし血が繋がっているというだけで、多くの人は心も体も引き離せない。傷付いても隠そうとして、周りの人たちも見ないふりをする」

 目線を下に逸らしたその様子からは、どことなく嘆きを感じさせるものがあった。

「人と人との関係が成り立たないような事情があるのであれば、そんな関係は無い方がいい。特に子にとっては、親というのは選択の余地はないですからね」

 ニュース番組に出てくるコメンテーターみたいに、スラスラと溢れでてくる主張は、目の前にいるのが猫であるということを忘れさせた。

 鈴は波に飲み込まれるみたいに、圧倒された。

 何か言おうとしたが、あれじゃないこれじゃないと思い悩んでいるうちに、考えがまとまらなくなってしまって、上手く言葉にならなかった。

 反論も共感も同意もできない。ぷかぷかと浮かんで遠くからこの話を聞いている気分だった。

 反対に猫の方は、言いたいことを終えてスッキリしたのか、再び落ち着いた表情をする。

「もし今の状況があなたを苦しめているのであれば、逃げることも一つの選択肢ですよ」

 そう言われた途端、全身の力が抜け落ちて、背もたれに深く沈み込んだ。


 逃げる。

 その言葉を聞いただけで、まるで悪夢から目が覚めたときのような、身軽さを感じた。今までずっと暗闇だと思っていたところが照らされて、道を発見した気分だった。

 人間のことを鋭い角度で俯瞰した不思議な視点。それでいて同時に深い真理を突いているように感じられた。


「いや、でも……」

 気づかないうちに、否定の言葉が唇を突き破った。

 それと同時に心の中から、真っ黒の墨汁みたいなドス黒い何かが滲み出る。感情や気持ちを否定するみたいに、何も見ないように塗りつぶしていく。

 心の奥底では「逃げたい…」と小さな声が囁いている。

 でもその声すら、次第に墨に塗り潰され掠れていく。次々と見えなくなっていく。

 今日みたいに、家で帰らないようにするのも簡単じゃない。母親と鉢合わせたら、溜まっていた鬱憤を全てぶつけられる。これからもずっと変わることはない。

 他に頼れる場所なんて無い。どうやっても逃げられないのだ。

 そんな考えがよぎった途端、堪えていた涙が頬を伝った。

 鈴がカウンターに手をついて前屈みになると、決壊したダムみたいに弱々しい言葉が溢れ出た。

「どうやって逃げればいいのかわからないんです。私にはどうすればいいのか……」

 鈴の言葉を聞くと、猫はまるで全てを受け入れるかのように、ゆっくりと瞬きをして、それから静かに微笑んだ。

 そしてふんわりと湯気が浮かぶような温かい声で、言葉を紡いだ。

「それならまたお店にいらしてください。紅茶を共に楽しめるような心のつながりのほうがよっぽど大切です。ティータイムというのは、もともと社交の場として広まりました。誰と楽しんでもいいのですよ」

 それから猫は真っ直ぐに鈴を見つめて、背筋を伸ばす。

「紅茶は血よりも濃いとは、そういう意味です」


 鈴の心臓の奥底に火が灯ったみたいに、心地良い熱がグッと込み上げてくる。それから遅れて涙が溢れ出した。紅潮した頬を伝う涙をそっと拭い、熱くなった目頭を押さえる。

 それでも涙は止めどなく溢れ出た。それはさっきまでの悲痛な涙ではなく、喜びに満ちて胸を打ち震わせた末のものだった。

 そして鈴は腫れた目で、カウンターの向こうにいる猫を見つめながら訊ねる。

「ほんとうに、またここに来てもいいんですか?」

「ええ、勿論です」

 店主の猫が口角を緩めて微笑むと、針金みたいなヒゲがそれに合わせて揺れた。

「ありがとうございます」

 鈴は椅子に座ったまま、うずくまるように俯く。そして震える手で服の裾を握り、その言葉を噛み締める。

 猫の言葉が、どれほどの希望をもたらしたのか、言葉では言い表せなかった。

 深く息を吸い込んで、その言葉を胸に刻んだ。


 それから鈴と猫との交流は、とても楽しいひと時となった。

 ミアは紅茶について博識で、さまざまな話を聞くことができた。笑い声が店内に響き、会話が途切れることなく続く。

 鈴も猫も会話の中で打ち解け、まるで長い間の友人のように感じ始めていた。

 そして気がついたときには、18時はあっという間に過ぎていた。

 帰り際に、鈴がハッとして猫に訊ねる。

「そういえば、猫さんのお名前は何ですか?」

 猫は何度か瞬きした後、「ミアといいます」と応えた。

 猫の鳴き声みたいな可愛らしい名前だ。ミアさんは1度も鳴かなかったけれど。

「ミアさん、素敵な名前ですね」と鈴が微笑むと、ミアもにこりと笑顔を返した。

「ありがとうございました」

 鈴が名残惜しそうに鈴はお店の入口に向かい礼を言って出て行くと、ミアも深々と頭を垂れて鈴を見送った。

「またのご来店をお待ちしております」

 扉がパタンと閉まると『rheology(レオロジー)』は、再び温かい静寂に包まれた。

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