9杯目 もてなしの心 ①
「最近、紅茶を飲むようになったんだよ」
『rheology』に入ってきた木村修人は、カウンターに手を着いて座ると、開口一番にそう言った。明るく弾んだその声は、少し誇らしげだった。
修人の言葉に、カウンターの向こうにいるミアが楽しげに尻尾を揺らす。
「おお、そうなんですね」
「ここで飲んだ紅茶が美味しくてね」
修人の表情は初めて『rheology』に訪れた時とはずいぶんと異なり、晴れやかな表情だった。
「あの日の紅茶、忘れられないんだよ」
真夏の熱気にぐったりと疲れ、偶然出会った紅茶は衝撃的だった。たった一杯で身体が軽くなり、心も救われたような気分になった。
それから修人は自動販売機やカフェで紅茶を見かけるたびに購入するようになった。
しかし残念ながら、あの味に並ぶものには出会えなかった。それどころかまた紅茶を避けるようになってしまった。
「特にペットボトルの紅茶は駄目だったな」
修人が嘆息混じりに愚痴っぽくそう言うと、カウンターの向こうにいるミアが首を傾げて、ヒゲをわずかに震わせた。
「市販のものは品質が同じになるようにブレンドされていますからね。それに紅茶が好きな方に向けて、平均的な紅茶らしく作られていますし、何より茶種が違うかもしれません」
「ふうん、やはりそうなのか」
「決して美味しくないわけではないんです。ただ、紅茶に慣れていない方や、特別な一杯を求めている方には物足りなさを感じるかもしれませんね」
「なるほどなぁ……」
修人は感心しつつ、不満げに呟く。
すると、ミアは柔らかな仕草で頬の付近を前足で拭い、そのまま自身の頭上に目を向ける。
今にも喉を鳴らしそうな姿勢は、どこか思案する様子が見て取れる。
「前回お楽しみいただいたのはキャンディでしたね。もしよろしければ似た系統の紅茶を少量ずつ試してみますか?」
「い、いいんですか?」
「ええ、もちろん。もっと紅茶を好きになっていただきたいので」
ミアは鼻の先をふんわりと上向け、目を細めながら優しく微笑む。
その仕草にほっとしたような修人は、少しだけ考えた末に、笑みを浮かべながら頷く。
「それなら、ぜひお任せします」
「かしこまりました」
ミアは一言、ぴんと張りのある声で応じる。
まずはじめにミアは、電気ポットに水を注ぐ。キッチンに水が金属を叩きつける音が響く。
そしてスイッチを入れると徐々に熱を帯び始め、かすかな唸り音が聞こえてくる。その間に、ミアは陶器製のティーポットと茶葉が入ったキャニスターを取り出す。
「この茶葉はニルギリと言います。南インド最大の紅茶の産地で、紅茶の中でも最もクセがなく飲みやすい味わいです」
キャニスターの中には、墨で染めたかのような黒色の茶葉が入っていた。その香りはどこか懐かしく、同時に新鮮だった。漂ってくる微かな香りが、修人の鼻腔をくすぐる。
ミアはティースプーンを手に取り、慎重に茶葉をすくってティーポットに入れる。黒い粒が静かにティーポットへと落ちる。ちょうどその時、ポットの湯が沸点に達し、勢いよく立ち上る蒸気が白い筋となって広がった。ミアは手際よくその熱湯をティーポットへと注ぎ入れる。
湯気が立ち上がり、茶葉が水に浸かるとゆっくりと開き始めるのが分かった。まるで桜の開花の定点観測のようだった。
ティーポットの蓋を閉じ、そこにティーコージーをしっかりと被せると、手元にある砂時計をひっくり返した。
ミアはその間に、ティーカップを温めるためにお湯を注ぎ入れ、しばらくしてからお湯を捨てる。カップの内側がほんのりと暖かくなり、これから注がれる紅茶の温度を保つ準備が整った。
「うおぉ……」
修人の口から思わず小さな感嘆が漏れた。
前に来店したときは、ミアの作業がただの待ち時間で、カウンターの向こうにあるものだった。しかし、こうして目の前で一つひとつの動きを目の当たりにすると、圧倒されるほどの手際だった。
修人は息を呑んだまま、知らず口を半開きにしていた。瞬きをするのさえ惜しく、ミアの動作の一つひとつに見入ってしまう。
砂時計の砂がすべて落ちきり、蒸らし時間を知らせる。
ミアは慎重にティーポットの蓋を開け、茶こしを使ってカップに紅茶を注ぐ。トポトポと柔らかな音を立て、黒色の茶葉から抽出されたとは到底思えない、透明感のある橙色が陶器のカップへと満ちていく。
ニルギリという茶葉からは、マイルドで心地良い香りがいっそう広がっていた。胸いっぱいにその香りを吸い込むと、修人の瞳がかすかに揺れた。
「あっ」
その香りだけで、修人は自分が欲していた紅茶だと、すぐに直感した。
「お待たせいたしました」
ミアは湯気をたなびかせるカップを、丁寧に修人の前へと置く。
少量ずつ試すということもあって、紅茶はティーカップの半分ほどの量だった。顔を近づけると、鼻腔をくすぐる芳醇な香りが広がる。白磁のティーカップに映える橙色の液体は、まるで朝日に照らされた湖面のようだ。
修人は静かにカップを手に取り、味わうように紅茶を口に含んだ。
滑らかな液体が舌の上をすべると、途端に広がるのは柔らかい風のような爽やかさ。味わいはしっかりとしたコクがある。渋みはごく僅か。紅茶らしいクセもなく、後味にはしっかりとした甘みが残る。
「……すごい」
思わず吐息といっしょに声が漏れ出る。まさしくここ数週間、探し求めていた紅茶の味だった。
「美味しいです」
修人が顔を上げて素直に言うと、ミアは小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
あの時飲んだキャンディに似ている、優しく、紅茶らしいクセのないすっきりとした味わい。
「やっぱり、こういうのがいいな」
紅茶に対する経験が浅い修人にとっても、気取らず、素直に美味しいと感じられる一杯だった。カップの半分ほどの量だったこともあり、最後の一滴まで味わい尽くすように飲み干した。