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8杯目 温度と跳躍 ①

 莉央がアクセルを軽く踏むと、赤色の軽自動車が滑り出すように前進し始めた。車体は少し古びており、走り出すたびに低い唸り声をあげている。

「やっぱりこの子、年季入ってるなあ」

 莉央はハンドルを握りながら、まるで愛着のあるペットに話しかけるように声をかけた。

 大学に入学してすぐに購入した中古車は、もう5年目を迎えた。前の持ち主からカウントすると10年以上になるだろう。たまにエンジンから異音がするのが悩みの種で、莉央は大学を卒業したら買い換えるつもりだった。

 車内は莉央の趣味が反映されたグッズたちで、飾り付けられていた。

 シートやハンドルのカバー、クッションやアクセサリーはすべて猫のグッズで統一されている。初めて乗ったときに、ミアは全身の毛が逆立つほど、どん引きしていた。

 何処に目を向けても、猫と目が合ってしまう。

 しかし毎週買い出しのために乗っているうちに、すっかり慣れてしまった。

 今では助手席に置かれたケージの中で、大きくあくびをして寛いでいる。

「今日もいっぱい買ったね~」

 莉央は楽しげに声を弾ませながら、バックミラーをちらりと覗き込んだ。

 車の後部座席には大きないくつも紙袋が置かれ、中には大量の茶葉が入っている。

 時折、道路の凸凹が車体を揺らすと、紙袋がガサッと音を立てた。

「はい。いつもお付き合いいただき、ありがとうございます」

「もう一箇所、行くんだっけ?」

「はい。そこじゃないと、手に入らないものも多いですから」

 ミアが応える声には、微かな興奮が混じっているようだった。いつもとは違う、特別な目的があるのが窺えた。

「そっか~、さすがこだわりが違うね。ほんと、毎回感心しちゃうよ」


 やがて目的地が近づき、莉央は慎重に赤い軽自動車をコインパーキングに停めた。

 エンジンを切ると、車はくたびれて寝落ちしてしまったかのように静まり返る。

 午前の住宅街は閑散としていて、ほとんど人とすれ違わない。

 少し歩くと、その一角にひっそりと佇む一軒の店があった。その店の立て看板には勢いのある美しい筆文字で『匠海茶園』と書かれている。文字の周りには、控えめな装飾として描かれた茶葉の絵が添えられている。

 もしこの看板がなければ、お店の存在に気づかないほど、外見は何の変哲もない一軒家だ。この控えめな佇まいが、この店ならではの特別な雰囲気を作り出している。

「何回来ても、気付かなくて通り過ぎちゃいそう。普通の家にしか見えないし」

 莉央は思わず笑い、店の前で少し通り過ぎてから立ち止まった。


 店の入り口には鈴がぶら下がっており、扉を開くと、訪れる者を歓迎するかのような涼やかな音色が店内に響いた。

 店内に足を踏み入れると、棚にはずらりと並んだ大きなガラス製のキャニスターが目を引く。中には色とりどりの茶葉が詰められている。本来あるであろう壁面はまったく見えない。壁がすべてキャニスターで構成されているかと、思わせるほどだった。

「相変わらず凄いですね」

「ウチも似たようなものだけどね」

「いやいや、まだまだですよ」

 莉央とミアは慣れた様子で、店の奥へと進んでいく。

 木製の家具で統一されたインテリアは、北欧の住居のような雰囲気を演出している。

 店内は入り組んでいてかなり狭い。同時に滞在できるお客さんの数は限られているし、すれ違う時も一苦労で、お互いに譲り合わなければならない。

 キャニスターには、各種紅茶の名前と解説が書かれたラベルが貼られている。アッサム、ダージリン、アールグレイ、セイロンなど、世界各地から取り寄せた選りすぐりの茶葉が揃っている。その中には、簡単には手に入らないような茶種やブランドのものまである。

 有名な専門店や都会の大きなお店と比べても、『匠海茶園』の品揃えは圧巻だった。


 お店の最奥部には小さな木製のカウンターがあり、その上にはレジと作業台が置かれていた。作業台では一人の年配の男性が静かに茶葉のブレンドを行っている。

「こんにちは。佐藤さん」

 莉央が軽やかな声で挨拶すると、男性は顔を上げ、ほがらかな声で応えた。

「あぁ、いらっしゃい」

 佐藤さんと呼ばれた男性は、おおらかな声で莉央とミアを迎える。透き通った真っ白な頭髪と髭を携え、朗らかな表情を浮かべている。

 莉央は初めて会ったとき、もし仙人がいるならこんな人なのだろう、と思った。

「今日も仕入れかい」

「はい。いつもどおり、たっぷりお願いします」

 莉央はそう言ってメモ用紙を渡すと、佐藤さんはゆっくりと立ち上がり、手提げ用の紙袋を広げる。そしてメモ用紙に書かれた茶葉のキャニスターを探し運んできて、重さを量って梱包していく。その動作には無駄がなく、その作業はとても手慣れている。

 莉央はカウンター横の椅子に座り、ミアのケージをもう一つの椅子に置いて、その様子を眺める。手伝おうとすると、かえって邪魔になってしまう。


 その間、莉央は壁に貼られている紅茶の生産地を示す地図や、茶畑の風景写真を鑑賞する。写真の中には、壮大な自然の中で広がる茶畑や茶摘みをする人々の姿が収められている。どの写真も緑豊かで、目を奪われるほど美しい。

「なんか凄い綺麗なところだね」

 莉央が1つの写真を指差す。

 それは河川を中心に深い谷のような地形になっていて、段々畑のように青々しい茶畑が広がっている。まるで大自然が織りなす緑の絨毯のようだった。茶摘みをする女性が3人写っているのも印象的だった。

「中国の雲南省ですね」

 ケージの中からミアが顔を覗かせながら答えた。

「プーアール茶が有名ですが、雲南紅茶も美味しいんですよ。飾られている茶園の写真は、すべて佐藤さんが実際に訪れた場所で、本当に美味しいと思ったものを店頭に置いているんです」

「へぇ、いいなぁ」

 莉央は目に焼き付けるかのように、その写真たちに釘付けになった。

 お店で紅茶を選んでいると、佐藤さんから、その地でのエピソードがよく語られる。その経験を聞きながら茶葉を選ぶ時間は、多くの常連客にとって至福のひとときなのだ。


 しばらくすると、茶葉を計量する手を休めた佐藤さんが、穏やかな口調で尋ねた。

「ミアくん、お店は順調ですか?」

「ええ。おかげさまで、多くのお客さまに来ていただいています」

「それは良かった」

 ミアの言葉に、佐藤さんは目を細め、穏やかに頷いた。短い言葉だったが、その中には深い安堵と喜びが感じられた。

「佐藤さんに教えていただいたことが活かせていると思います」

 ミアは感謝の念を込めてそう言うと、ふと遠い目をした。

 茶葉の知識において佐藤さんの右に出るものはいない、と言ってもいい。良い茶葉を仕入れるために覚える知識は膨大だった。佐藤さんは懇切丁寧に、ミアに茶葉のことについて教授してくれた。ミアの脳裏に、昔の苦労や奮闘の日々が思い浮かぶ。

「品種の違いだけじゃないんだ?」

「ええ、もちろん。フルリーフとブロークン、製法や大きさ、もちろん時期によって、紅茶の味わいがまったく違います。それを見極められるようになるのは大変でした」

「ミアくんは、物覚えが良かったから、教え甲斐があったよ」

 佐藤さんは満足げに微笑み、思い出を噛みしめるかのように何度も頷いた。


 その時、店の扉がゆっくりと開き、それに合わせて鈴の音も小さく鳴った。

 そして店内に、杖をついたご婦人が入ってくる。

「いらっしゃいませ」と佐藤さんが声をかけると、ご婦人はお店に到着したことに安心したのか、ホッと小さく息をついた。

 ミアはすぐにそのご婦人に気づき、耳をピクリと動かす。彼女の顔には見覚えがあった

「お久しぶりです。まさか、ここでお会いするとは思いませんでした」

 ミアがそう声をかけると、大塚和美は驚きの表情を浮かべ、次いでにこやかに微笑む。

「あら、猫ちゃん。こんなところで会うなんてねぇ」

「お店のお客さん?」

 莉央が興味津々で尋ねると、ミアは大きく頷いた。

「はい。一度来ていただきました」

 ミアは軽く左右に尻尾を揺らす。

 そして和美は懐かしそうに、話し始める。

「猫ちゃんのカフェでいただいた紅茶が本当に美味しくて、家でもまた紅茶を飲んでみたくなったのよ」

 和美の言葉を聞くと、ミアはさらに尻尾を振って、紅茶を淹れ終えたときのような満足げな笑みを浮かべる。

「私の紅茶をそんなに気に入っていただけて良かったです」

「もちろん気に入ったわよ。でも家にある茶葉は古くなっていたせいか、あまり美味しくなかったの。それで友人に聞いて、このお茶屋さんに来たの」

 すると佐藤さんが茶葉を梱包擦る手を止めて、話に加わる。

「なるほど。茶葉は古くなると香りが飛んでしまいますからね。できれば早めに使い切るのが理想的です」

「ええ、そうなんです」

 和美は顔に皺を作って、後悔したようにうなじを垂れる。

「どんな味がお好みですか?」

「やっぱりダージリンかしら。香りが良くて飲みやすいから好きなんです」

 すると佐藤さんは熱意のこもった声で提案をする。

「それでは、新鮮で美味しい茶葉をお薦めしましょう。丁度良いものがありますよ」

「ええ、ぜひお願いします」

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