熊野さんと自由な日比野くん
彼女は、オレが移動した時、プリントに細かい文字を書き込んでいた。
あんまり細かいから何て書いてあるのか分からないけど、全員の欄にびっしりと文字が書き込まれていた。
ずっと話し続けて緊張していたから疲れていたし、彼女も切りが悪そうだったので、しばらく待ってから、切りの良さそうなところで自然に言葉が出た。
「すごいね、そんなに書くことがあるなんて」
オレは、緊張の直後の脱力状態だったのと、彼女を勝手に同類の仲間だと思い込んでいたせいで、すっかりくつろいだ状態で話しかけていた。
彼女はハッとして顔を上げてオレを見た。
「あ、あの、か、会話以外にも、気になったこととか、か、書いていたから……」
蚊の鳴くようなか細い声で、彼女が答えた。
その瞬間、初めてオレは、初対面のくせに自分がすごい馴れ馴れしく話しかけていたことに気がついて、急に恥ずかしくなった。
「そ、そうなの? あ、そうだ、えーと、ふ、古井戸未知流です」
「く、熊野深月です……」
「ああ、『みつき』って読むのか。何て読むのかなって思っていたんだ」
「く、熊がいる野原の深い月なんて、ただのホラーだよね……」
彼女が本当に嫌そうな顔をして言った。
「ブフッ」
すっかり脱力していたオレは、その状況のホラーな映像の中に佇む彼女を想像して、つい吹き出してしまった。
「ご、ごめん、熊野さんってそんな面白い人だと思わなかったから、驚いて……」
〈熊野 深月〉の動きが止まった。そして、オレの隣を見ている。
またかと思って隣を見ると、また前の席のイケメンと目が合った。
「いや、楽しそうだから、何を話しているのかなーと思って」
と、目が合った彼が言った。このイケメンは何を考えているのだろう?
「今、話しているのは私でしょー?」
と、〈城所 由姫〉がイケメンを引っ張る。
〈日比野 史也〉はそのまま、〈城所 由姫〉に引っ張られて話しの続きを聞かされていた。
「あの、ふ、古井戸君は、日比野君と仲が良いの……?」
〈熊野 深月〉から、またびっくり発言が飛び出した。
「はあ?」
オレは驚きのあまり、大きい声が出てしまった。
また、〈熊野 深月〉がオレの隣を見ている。また、イケメンと目が合う。
「いや、気になるでしょ? 楽しそうで」
イケメンは真顔で言った。
イケメンが、また引っ張られて行くのを確認してから、オレは、〈熊野 深月〉に言った。
「えーと、いや、その、日比野君とはクラスが一緒になったのも初めてだし、話したことも無いし……」
〈熊野 深月〉は不思議そうな顔をして言った。
「今、話してなかった?」
「え? あれ? そうだった……?」
もう、何が何だか分からなくなったところで、アラームが鳴った。
「ああっ、まだ何も話していないのに……」
1番、短く感じた3分だった。
「えーと、じゃあ……日比野君のこと、かな?」
「そうだね。あ、あとホラーも」
「ホラーはいいよ……」
〈熊野 深月〉は嫌そうだったけど、二人ともプリントに、『ホラーと日比野君のこと』と、書いた。
イケメンが〈熊野 深月〉のプリントを覗き込んで、「何? オレのことを話していたの?」と、〈熊野 深月〉に聞いていた。
彼はあまり積極的に話すタイプではなかったけど、〈熊野 深月〉に対してはその後も、「あの時何を話していた」とか、ものスゴイ積極的だった。
そして残り人数もあと少しになり、同じ列の人と話すことになった。オレの次の相手は謎なイケメン、〈日比野 史也〉だ。
初めて一緒のクラスになって、初めて話す相手のはずなのに、そんな感じがぜんぜんしないのは何故だろう。
「えーと、 日比野史也ッス。しくよろー」
「はあ、古井戸未知流です、よろしくお願いします」
「……」
「……?」
あれ?
やけに絡んでくるから、いろいろ聞かれるものだと思っていたのに、〈日比野 史也〉は、腕を組んだ状態で眉間にしわを寄せ、目をつぶって、黙ってしまった。
何だ、このイケメンは? さっきまであんなに人のことをジロジロと見てきて積極的だったのに……? 一体、何を考えているんだ?
ふと、彼の手元のプリントが目に入った。半分くらいの欄に同じ事が書かれていた。
『なんか、おこられた』
オレは聞かずにはいられなかった。
「何をそんなに怒られたの?」
プリントを指差して聞いてみた。イケメンが、ぱちりと目を開けた。
「女子って、すぐ怒るじゃん」
「そ、そうかな?」
プリントを見ると、確かに『なんか、おこられた』と書かれているのは、皆、女子だった。
「そうだよ」
と、彼は言った。
プリントの他の欄を見ると、『あんまりキョーミない』とか『めんどくさい』とか会話の内容じゃなくて、感想が書かれていた。
『となりがたのしそうではらがたつ』というのもあった。
これは、〈城所 由姫〉だった。
〈熊野 深月〉は『やくにたたない』と書かれていた。訳が分からない。
「えーと、日比野くんさ、これって何を話したのかを書くんじゃなかったっけ?」
「ん? そうだよ」
「これは感想だよ」
〈日比野 史也〉は、自分のプリントをチラッと見て言った。
「まあ、いいじゃん。そんなに変わらないよ」
オレは、こういう人が心の底からうらやましかった。周囲に縛られない自由な思考が。
「じゃあ、今のこの会話は何て書くのさ?」
と、〈日比野 史也〉がプリントを指先でコンコン叩いて言った。
「え? えーと……そうだなあ、『日比野くんは自由でいいなあ』かな?」
〈日比野 史也〉は首を傾げて、少し考えてから言った。
「それは、感想じゃないの?」
「あ……」
二人で爆笑した。学校でこんなに大きな声で笑ったのは初めてだった。
「あーあ、朝から親とケンカして気分が悪かったのが、どっか行っちゃったよ。学校改革なんて、面倒臭いと思っていたけど、案外いいかな」
〈日比野 史也〉が笑いながら言った。
「たぶん、これが無かったら古井戸と話したいとか思わなかったし」
ぶっちゃけたことを言われて、返事に困った。
「とりあえず、熊野よりウケたからオレの勝ちね」
何の勝ち負けなのかは分からないけど、もしかしてオレは、彼に気に入られたんだろうか?
でも、何をそんなに気に入られたというのか? それが分からないのが、とても困る。だって彼は、何か勘違いしているのかも知れないから。それに気づいた時に、がっかりされるのがとても怖い……
とりあえず、プリントには2人で『日比野くんは自由でいいなあ』と書いた。