天魔のプロポーズ 其ノ四
僕と弥生は揃って自宅を出発した。土日を挟んでいたため、実に四日ぶりの登校だった。僕と姉が通り魔に襲われたのは日曜日。そして今日は水曜日だ。
弥生は僕たちの通り魔にやられた傷を癒すために丸一日費やしたらしく、その間僕と姉は眠り続けていたようだ。つまり僕と姉が目覚めたのは月曜を飛ばして火曜ということだった。
真相を知ることができた僕はいいとしても、何も知らなかった姉は昨日、月曜日のつもりで大学に行って大騒ぎしたらしい。その不思議な現象の理由を姉に告げられないのが少々心苦しかった。
「なあ。」並進する少女に僕は話しかけた。
「なんじゃ?」少女は歩みを止めずに、見上げるようにして僕の顔を見た。
「お前まさか学校にまではついてこないよな?」僕は射すくめるように言った。
「ほほ。ついてこられては都合が悪いとでも言いたげじゃな。確かにわしから見てもこの女の造形は優れておると思うし、有り体に言ってお主の通う学校でもモテモテじゃろうな。」弥生は不敵な笑みを浮かべた。
今の弥生は村上葉月の若かりし姿。髪も染めていないし、少しあどけなさが残っているが、もうすでに完成された可愛さがあった。確かにこんな美少女が学校にいたとしたら間違いなく男子が殺到するだろう。
「別にそういうことを言ってるんじゃない。いくら制服を着用しているとは言っても、登録されてない生徒が校内を彷徨いていたら噂になるだろうが。」僕は少しだけムキになった。
今のところ洗脳により弥生を普通の善良な女子高生と認知しているのは僕の姉だけであり、弥生はその他の人間とはなんの繋がりもないのだからそれも当然だった。
「そう向きにならずともよかろう。乳を揉む権利を得たくらいで彼氏面されても困るのう。」そう言って弥生は豊かな胸の上で掌を重ねた。
そして僕の場合、姉のように物理的プロセスではなく、精神的なプロセスで洗脳を受けてしまう危険性があった。
それは簡潔に言ってしまえば、彼女に僕が籠絡されることを意味する。
「天下の往来で乳を揉むとか言うな。でもそこなんだよ、僕が納得いっていないのは。なぜなら僕はまだお前の乳を揉んでない、揉ませてもらえてない。サインはしたのに履行はされていない。こんなのっておかしいだろ!」と、僕はがなり立てた。
近くにいた幾人かが、こちらに顔を向けた。
「ほほほ。光秀、人が見ておるぞ?わしがお主に乳を揉ませる道理を忘れたか?お主自身の享楽・愉悦・幸福のためであり、ひいてはわし自身のためじゃった。しかしそれも、もしかすると必要無くなったかもしれんのじゃ。」弥生は言った。
「はっ!?なんでだよ。そんなのおかしいだろ。」僕は不満を顕にした。
話が違う。契約内容と違う。クーリングオフを要求する。
「何故って、気恥しいことを言わせるのう。昨日からわしは殆ど腹が減らぬのじゃ。どうやらお主はわしと一緒におるだけで幸せみたいじゃぞ。」弥生は頬を赤らめながら言った。
僕はしまったと思った。盲点だった。こんな自分好みの見た目をした美少女と、ひょんなことからひとつ屋根の下で暮らすことになって幸せに思わない男などいるわけがない。あまつさえ姉の命まで救ってもらえるなんて。
「わしにとって、乳を揉ませるなど方法論としては下の下。お主が日ごろ悶々と想像しておる、その延長線上にある行為もまた児戯に等しいことじゃ。重ねて言うなら、わしとて女じゃ。本来ならば昨日今日会ったばかりの男に身体を許すわけが無いのう。お主に乳を揉ませてやろうと誘ったのは、言うなれば食欲とプライドを天秤にかけてのことじゃ。プライドを守ったところで腹は膨れぬしの。」弥生は淡々と続けた。
てっきり、この女の倫理観は壊れてしまっているのかと思っていたが案外そうでもなかった。
「児戯って……じゃあお前の世界ではどうやって子供ができるんだよ。」僕は少し意地悪な質問をしてみた。
「子など念じれば具現するわ。」弥生は冷たく言い放った。
「レベルが違う……」斜め上の回答に、僕は間抜けな顔をするしかなかった。
「別にわざわざお主に触られたくもない場所を触らせんでも、こんな方法もあるのじゃぞ。」弥生はそう言いながら僕の左手を握った。
僕の左手の指と指の間に、彼女の指がするりと入ってきた瞬間、電流でもはしったのかと思うくらいに背筋がぞくぞくするのを感じた。これは噂に聞く『恋人繋ぎ』というやつではないのか。
「アッ、アノ。弥生さん?」どぎまぎしながら弥生を見た。
「見てみい。先刻までお主のことをそこらの羽虫でも見るような目で見下していた者達からの羨望の眼差しを。」弥生は僕の耳元で囁いた。
彼女が言う通り、先程まで僕に対して好奇の目を向けていた幾人かの表情は少しばかり険しく変化していた。
そんなことよりも左手が熱い。掌内にはじっとりと汗が滲む気がしてくるし、心臓が物凄い速さで身体中に血液を循環させ始める。頭がボーッとして、身体もふわふわと浮遊感を覚える。なんて心地よいんだろう。
「ほっほ。覿面じゃな。しかし朝飯にしてはちと重すぎたかの。」そう言って弥生は、道端に唾でも吐き捨てるように僕の左手を乱暴に離した。
「おい。なんてことするんだよ。」夢見心地から現実に戻った僕が言った。
「ご馳走様、じゃ。これでまた暫くは安泰じゃの。」弥生は目を細めてにやりと笑った。
「ていうかお前今、僕のことを朝飯と言ったか?」憤りを込めて僕は訊ねた。
「じゃからちゃんと行儀良く『ご馳走様』と言ったじゃろうに。手を繋いだ程度でそのようにみっともなく動揺して、わしに山盛りの飯を提供するようでは乳を揉むなど夢のまた夢じゃな。」弥生は、ふんと鼻を鳴らした。
「く、くそぉ……っ。」僕は先程まで弥生の右手とひとつであった方の拳を握りしめた。
弥生に今の姿になるように指示したのは僕自身だ。それは少しでもこの女と一緒に暮らすことに苦痛を覚えにくいようにと、自分自身に対してした配慮だったが、それが裏目に出た。
ひょっとすると僕は、限りなくおっぱいに近づくことはできても、それに触れることはできないのかもしれない。そう考えると少し哲学的な気分になった。
「愚考を妨げるようで申し訳ないがの、朝飯も平らげたし、わしはこのあたりで失礼させてもらうぞ。」弥生はそう言って路地の方へ歩いて行こうとした。
「どうしたんだよ?」と僕は訊ねた。
「お主と違って忙しくての。安心せい、日が没するまでには戻る。」そう言って弥生は僕の前から姿を消した。
弥生には大義名分があることを僕は思い出した。それは第六天魔王として浮世を正すという、僕などが口にするのも憚られるほどに高尚な行いを成すことだ。
昨日一日で弥生に色々と予備知識を授けてもらっている僕としても、彼女の仕事に協力するのは吝かでもない。なぜなら僕たちの暮らしは緩やかに瓦解への道を辿っているらしいのだ。彼女がこの世全てに喩えた『果てしなく巨大な塔』は今足元の部分から徐々に蝕まれ、その秩序が完全に失われた時、『塔』は崩れ落ちるのだと言う。
世界が崩れ落ちるというのは一体どんな状態を指すのか僕には想像もつかない。しかし僕個人にフォーカスした場合の問題はもっとシンプルだ。どの道、弥生が仕事に失敗して命を落とすようなことがあれば僕の姉は死ぬ。ならば僕が弥生に手を貸すことは、姉を助けることと同義なのだ。些か乱暴な論理ではあったかもしれないが、これで気持ちよく弥生に手を貸してやれるというものだ。やはり物分かりがいいところは、弥生が言うように僕の美点かもしれない。