天魔のプロポーズ 其ノ三
波旬からの熱烈なプロポーズを受けて、僕は少しばかり自問自答することにした。
待てよ?そもそもこいつは僕の姉じゃないか。でも見てくれはまあまあ可愛いし、僕のことを愛してくれているのも日々感じている。いや、違うか。本当の姉は今、僕のベッドに横たわって寝息を立てている女なのだった。
それから、プロポーズっていうのは普通は男から女にするものじゃなかったか?いやいや、それも違うな。ジェンダーレスな今の時勢、そんな風に男女で役割を決めつけるのも正着とは言えない。この時代なら女からプロポーズをしたって、男が専業主夫になったっていいはずだ。
というかこいつは男なのか女なのかすら、わからないじゃないか。まずはそこだ。それをはっきりさせなければ始まらないだろう。ふう、あぶないあぶない。僕の脳ミソが冷静でよかった。
この時の僕は突然の『お前を幸せにする』発言を受け、完全に思考力を失ってしまっていたらしい。
その結果「なあ、波旬。お前はその、性別で言えばどっちなんだ?」というピントが合っていない質問を彼女に投げかけることになった。
「性別?今しがたの話に対してそんな異なことを訊かれるとは思わなんだが、わしは女じゃよ。」波旬は首をかしげながら僕の問いに答えた。
僕はこれまでの全ての話の筋を完全に無視して『よし』と心の中で喜び勇んだ。女からプロポーズをされた、それだけで僕の人生における自尊心ゲージはこの時、満タンになったのである。
「それで、僕がお前の要求に応じた場合、どんなことをして僕を幸せな気分にしてくれるんだ?」興奮気味に僕は訊ねた。
「それはまだわからん。わからんが、ひとまず先ほどの約束は守ってやろうかとは思っているぞ。」と波旬はさばさばした感じで言った。
先ほどの約束?なんだそれは。約束というか、契りはまだ結んでいないぞ。僕たちは『これから』結ばれるんじゃないか。
「約束?なんのことかな…」僕は恐る恐る言った。
「なんじゃ。乳は揉まんでいいのか?」と波旬は訊ねてきた。
「いや、それはどう考えても揉むだろ。」と僕は食い気味に返した。
健全な男子高校生が『乳は揉まんでいいのか』と問われて、揉まんでいいと答えるわけがないだろう。そんなものはコーラを飲んだらゲップが出るということと同じくらい自明だ。
こいつは今、姉の姿をしているが別にそんなことすらも関係ない。差し出してくれるのなら、最初が姉の乳房だったとしても別に構わない。なぜなら人は何度だってやり直せるのだから。
「なにやら邪なことを考えている顔じゃが、まあよいわ。それも愉悦には違いないからの。さて、どうする?わしの申し出を受けてくれるか?」波旬は一層あらたまった様子で僕に言った。
乳を揉むか揉まないかだったな。いや待て、そんな旨い話があるか。確かこいつはその前に何か長々と語っていたような気がする。
そうだ、そうだよ、思いだした。僕の姉の命はこいつが握っているんだった。乳を揉んだら姉ちゃんは助からない、乳を揉まなければ姉ちゃんは助かる、天秤が釣り合うとすれば恐らくそんな話だろう。
「僕がお前の乳を揉むと姉ちゃんはどうなるんだ?」僕は極めて深刻な顔つきで、姉の顔をした波旬に訊ねた。
「物分かりがいいかと思えば、変なところで分かりきらんやつじゃのう。要するにお主が乳を揉む決断をすれば、この娘も助かるという話じゃ。」波旬はゆっくりと瞬きをしながら言った。
「嫌なこったね!!乳を揉めるくらいで姉の命を差し出すわけがないだろ!!」僕はあらかじめ用意していた言葉を引き絞った弓から放たれる矢のように発したが、それは誤射かもしれなかった。
あれ。今こいつなんて言ったんだ?僕が乳を揉めば姉ちゃんが助かるだって?今そう言ったよな。
だとするとその逆はなんだ。僕は乳も揉めずに姉ちゃんも命を落とすということか。いやいやいやいや、それだけは絶対に看過できることじゃないだろう。
「受けてはくれんのじゃな……?」波旬は切ない表情で僕の顔を覗き込んだ。
その顔と声でそれを言うのは些か卑怯ではないかと思う。別人だとわかってはいても僕にはどうしても姉が命乞いしているようにしか見えないからだ。
今日初めて会った女の胸を揉むなんて本当は弥栄……おっと、違う違う。『本当は嫌だが』と言いたかったのに、うっかり感情が前面に出てしまった。
とにかく姉の命がかかっているならば論を俟つ必要はどこにもない。万難を排して臨むべき事柄だ。
そんな強固な信念のもとに僕はこう返した。
「僕に乳を、おっぱいを揉ませてください……っ!」
そこには深々と首を垂れる男子高校生の姿があった。
かくして僕は今日、学校を休んだのだった。
翌日の朝、僕の部屋にはマイクロビキニの代わりに制服姿の少女がいた。
「おい、光秀。お主の言う通りにしてやったというのに、何をそのように俯くことがあるのじゃ。」制服姿の美少女は僕に言った。
「だめだ。眩しくて目が潰れそうだよ、弥生。」僕は目線を外しながら答えた。
昨日一日を使って第六天魔王波旬と僕は、彼女が人間界で生きていくための基盤を整えることを考え、手始めに波旬の姿形から定めていくことになった。彼女はこれから僕と共に暮らしていくわけだから、姉や村上葉月の姿で僕の周りをちょろちょろされては敵わない。色々と試行錯誤を繰り返し、目的となるフォルムは完成した。
まあ結局のところ単純に、村上葉月を何年か若返らせた姿、それが今の波旬がとっている形態である。この女の性格が表出しているのか、メイクをしていないせいなのか、どことなく本物よりも目元が吊り上がっている気がした。
名前は『波旬』にしても『はじゅ』にしても人前では呼びづらいので、葉月の過去の姿ということで、旧暦に倣って『弥生』という仮名をつけて僕は呼ぶことにしていた。
不意にドアがコンと音を立てた。それが連続で数回行われたのちに、僕の部屋のドアは外側からガチャリと開けられた。
僕はずっと思っていたことがある。年頃の男の子としては、ドアをノックをしてくれること自体は大変有難い。
しかし、ノックの後にノータイムでドアを開けてしまうのではノックの意味がない。ノックは室外の人間が入室する意思を、室内の人間が入室の可否を相互に伝えるためのものだからだ。その証拠に面接でノックをした時は面接官が『どうぞ』と返すのを待ってから入室するはずだ。
こんな当たり前のことが、母とか姉とか妹という人種は自宅にいる時に限り、出来ていないことが多いのである。この現象のせいで一体どれだけの男子中高生が気まずい思いしたか考えると、頭が痛くなってくる。
「あら~!弥生ちゃん、制服似合ってるじゃない。」ドアを開けた僕の姉は頬に手を当てながら言った。
「かたじけないのう。」弥生は気恥ずかしそうに言った。
「かまわんよっ!」と姉はにっこり笑った。
それは『忍びねえな』に対する台詞だろう、と僕は心の中で突っ込んだ。
彼女たちがこんなふうに、自然に言葉を交わしているのにはがカラクリがあった。
弥生は僕と同じ高校に通っている幼なじみで、実家が遠方なので昨日から僕の家に居候している、ということになっている。
もちろん実際に学校へついてこさせるつもりはなく、僕と揃って自宅を出て、同じ場所へ帰ってくるというだけのことだ。
こんなめちゃくちゃな後付け設定を姉が許しているのは、弥生のチカラが作用しているからだった。
弥生の身体の一部が姉の脳に働きかけ、記憶を改ざんして印象操作をおこなっている、つまり平たく言えば洗脳である。
この話を聞いた時、僕は怖くて怖くて仕方がなかったが、僕と仲良くしてくれている幼馴染の存在を記憶に足すだけだと弥生から説明を受けてしぶしぶ承諾したのだった。