天魔のプロポーズ 其ノ一
僕は自分の部屋の窓から降り注ぐ陽光を、開いたままの瞳孔に受けて眩しそうに薄目を開きながら自分の身体に被さっている羽毛布団をどかした。
そして「嫌な夢だな。」と独りごちた。
否、どうやら独り言ではないようだった。
「夢などではないぞ、痴れ者。」と、栗色のロングヘアを揺らしながら、その女は古めかしい話し方で言った。
おかしい。たった今僕は目覚めたはずだけれど、むしろこの光景こそ夢でなければ説明がつかないと思った。
僕の部屋に姉以外の女がいるなんて。しかもその女がマイクロビキニを着て胡座をかいていることなどは特に。
しかしながら、よくよく見てみるとそのマイクロビキニと女の顔には見覚えがある。
「はじゅ?はじゅなのか?」彼女に対して興奮気味に訊ねた。
「ほう。わしの名を知っておるのか?」マイクロビキニの女は立ち上がりながら言った。
間違いない、僕は二つの意味で確信した。
このけしからん乳房をふたつもぶら下げた女は『村上葉月』というグラビアアイドルだ。色白でタレ目で、少し肉付きがいいところなどは最高だ。僕は週刊少年誌の巻頭グラビアでこの子を見た時からずっと気に入っていた。ファンからは下の名前の葉月をもじって『はじゅ』と呼ばれている。もちろん僕も人前でなければそう呼んでいる。
そして信じたくはないが、それらを踏まえた上でこの状況はどう考えても夢の中だろうということだ。
「はい!あ、あのずっとファンでした! 」彼女の膨らんだ胸を見ながら、期待に胸を膨らませて僕は言った。
「それは嬉しいことじゃ。というか、お主さっきからわしの胸ばかり見すぎじゃないかの。そんなにじっと見つめられると少しだけ面映ゆいのう。触ってみたいか?」彼女は片手の平を胸の上にひたりと乗せて、上目遣いで言った。
そらきた。嗚呼、なんて素晴らしいんだ。僕の脳ミソは天才に違いない。夢とわかった途端にこんな絶好のシチュエーションを想像、もとい創造できるのだから。
その割には喋り方が何かおかしいような気もするが、この際それはどうだっていい。とにかく今すべきことのみを考えるんだ。
「い、いいんですか?」鼻息の荒い男は言った。
「ほれ。」彼女はそう言って胸の下で腕を組んでFカップを僕の眼前に突き出した。
どこかの誰かが『夢は見るものじゃない、叶えるものだ』なんて嘯いていたことを唐突に思い出した。たった今まさにその通りだと信じたし、僕も夢は自分の手で掴みたいとも思う。それも、両手で一気呵成にだ。
僕が意を決して大人の階段の一段目を踏みしめようとしたその時「みっちゃーん! いつまで寝てるのー! 」と、それに割り込むように一階から聞き慣れた女の声が響いた。
「起きてるよー!」と慌てて返事をしたが、姉が階段を登ってくる音が聞こえてきてしまった。こんな馬鹿げたことがあってたまるか、階段を登るのは僕のはずだろ。夢の中でまでそんなお預けを望んじゃいない。
「ふむ。ちょうどいいかもしれんのう。」と村上葉月は呟いた。
ガチャリとドアが開き、エプロン姿の姉が僕の部屋へ入ってきた瞬間、あしばらいでも掛けられたかのように姉は気を失って前方へ倒れ込んだ。
驚いたことに村上葉月はそれを受止め、軽々と片手で姉を持ち上げ、僕のベッドに優しく横たわらせた。
「お、お、おい…なあ、どうなってるんだよ?」僕はその様子が、つい先程まで見ていた映像と重なり、驚きと困惑と畏怖が入り交じった声を上げた。
「小僧、胸を揉むのはわしの話を聞いてからじゃ。まずお主は夢などみとらんし、現在進行形でみとるわけでもない。お主の姉は死んだんじゃ、背中から刺されての。」と落ち着け払った様子で村上葉月は言った。
僕は「ちょっと待ってくれ」と答え、昨日あったことを思い出そうと努めた。
昨日は日曜日で、小雨が降っていた。それから確か昼前から姉ちゃんの買い物に付き合わされて、昼飯は商業施設で一緒に蕎麦を食べたはずだ。それで晩飯は……晩飯は親子丼をリクエストしたんだった。帰りに一階のスーパーに寄って……それから……あれ……帰り道に……おかしいな、これはさっきまで見ていた夢のはずだ。
突飛なことが起こりすぎて最早どこまでが夢なのか分からなくなってしまっていた。
「思い出したかの。お主の姉もお主自身も男に刃物で刺されたんじゃ。お主はまだ急所を外しとったから綺麗に治し遂せたが、この娘は別じゃ。運悪く心臓を一突きにされておった。」村上葉月は横たわる姉の方へ一瞥くれてそう言った。
「え?はじゅが治した?どうやってそんなこと……」と訊ねながら、枕元に置いてあるデジタル時計に表示された時刻の横に、はっきりと(火)と表示されているのが目に入った時、僕は急に夢から覚めてしまった気がしていた。
マイクロビキニの女は「まずは自己紹介からせねばならんかのう。」と切り出し「先ほどから何度も馴れ馴れしく呼んでくれているくらいじゃからわかると思うが、わしは六欲天を統べる者、他化自在天の第六天魔王波旬じゃ。」 と続けた。
その時の僕はぽかんと口をあけて水着美女を眺めるだけの男だった。何を言っているのか全く理解できなかったし、この娘は布面積だけじゃなくて脳ミソの皺まで少ないのかとぼんやり思うだけだった。
「待てよ、あれが夢じゃないって言うなら姉ちゃんは……」僕は真っ先に確認すべきことを思い出した。
「安心せい。お主の姉は健康体じゃ。ただ今はお主と一対一で話をするために少し眠ってもらっているだけじゃ。」と女は目を伏せた。
僕がホッと胸をなで下ろしたのを見計らって彼女は話を続けた。
「先に言うておくが、わしは自由に身体をつくりかえることが出来る。この姿もお主の蔵書から拝借した姿じゃ。」そう言って彼女は僕が持っている村上葉月の写真集を指で摘んでプラプラさせた。
村上葉月自身が、僕が買った写真集を手にしているのを見て、一瞬だけ『サインしてほしい』という雑念が頭をよぎったがそれはなんとか飲み下した。
「ほれ、この通りじゃ。」と彼女が発した瞬間、先ほどまで村上葉月の姿をしていた女は、すぐそこで横たわる姉と瓜二つの姿になった。
「はじゅが……姉ちゃんになった……」僕は横たわる姉とその女の顔を何度も交互に見るしかなかった。
自由に姿形を変えられるならば性別があるのかも定かではないが、どうやらこの女にはそんな魔法みたいなことが可能なのだという事実を目の当たりにさせられてしまった。
僕はもうどこまでが夢だとか考えることをやめた。なんということだろう。夜道で姉が通り魔に刺されたことも、目覚めたら自分の部屋にマイクロビキニの村上葉月がいたことも、全て現実のことだったなんて。
「それにしてもこちらの世界にも波旬という名は轟いているらしいのう。お主のような有象無象にも知られていようとはな。」その女は姉の声と姉の顔でクスリと笑った。
はじゅん………?
自称天才であるはずの僕の脳は、この時になってやっと彼女の勘違いを看破した。僕が言っているグラビアアイドル村上葉月の愛称であるところの『はじゅ』と、この女が自称する『波旬』は全く別のものだということを。