プロローグ
小雨の振る春の日──僕と姉は家の近くにある商業施設のフードコートで蕎麦を啜っていた。
「なんだこの蕎麦、全然コシがない。」僕は不満げな顔をした。
「文句言わないのーっ。海老天トッピングさせてあげたでしょ。あとこれもあげる。」麻希は掛け蕎麦に浮いた刻み葱を蓮華で弟の丼に移しながら言った。
別に僕も葱はそこまで好きでもないのに、と思ったがそれは引っ込めた。余計なことを言って機嫌を損ねられても困る。
「みっちゃんはさ、好きな女の子とかいないの?」何の脈絡もなく麻希は言った。
「いない。ていうか居ても姉ちゃんには言わないけどね。」僕は突き返すように言った。
「えーっ。なんでそんな事言うのさ。素材はいいんだし、ちゃんとお洒落してればもっとモテると思うんだけどなあ。」麻希は鼻でため息をついた。
「はいはい。」僕は拗ねたように蕎麦を啜った。
僕の姉は世間一般的に言えばそれなりに見てくれはいい方である。性格の方も特別キツイというわけではなく、ステレオタイプなお姉ちゃん的気質を持っている。こんな風に日曜日に弟を買い物に付き合わせるあたりもその域を出ていない。
「でもさ、そろそろ洋服くらい自分で選べるようにならなきゃね。」と、麻希は僕の痛いところを突いてきた。
何を隠そう、洋服を自分で選んでいた頃の僕は、真夜中なら闇に紛れることもできるのでは無いかと言うくらいに全身黒に染まっていた。それを見かねてなのか、姉はたまに僕を買い物に付き合わせて服を選んで買ってくれている。
そんな黒に染まろうとする僕とは対照的に、少し明るい色のワンレングスボブの髪、春らしい薄黄色のノーカラージャケットを羽織り、プリーツスカートを履いて今日もコツコツとドレスシューズの踵を鳴らしながら歩く姉は数段上のお洒落強者らしく僕の目には映っていた。
「まあ、それについては感謝はしてる……よ。」僕は決まりが悪そうな顔をした。
「分かればよろしい。よし、ご馳走様。」そう言って麻希は立ち上がり、返却口にお盆と丼を返しに行った。
「まだ買い物するのか?」彼女に追いつき、眉を八の字にして僕は訊ねた。
「うん。まだ見てないお店あるし。それと最後に一階の生鮮食品売場で晩御飯の材料買って帰らないとねっ!」麻希はお盆を返却口に置きながら僕に答えた。
僕は買い物袋で塞がった自分の両手に目をやりながら、やれやれと思った。
僕の家庭は両親がいない。別に死別したとか捨てられたというわけではなく単純に揃って海外に赴任しているのだ。姉は大学、僕は高校へ上がる時だったので、二人きりでも生活出来ると判断してのことだ。だからここ一年は有難いことに姉が食事を作ってくれている。
今日も僕のリクエストに応えて親子丼を作ってくれるようだ。彼女が作る親子丼は、玉ねぎと鶏肉の他に椎茸やカマボコも入っていて、具だくさんなところが僕は気に入っている。
商業施設で買い物を済ませた頃にはとっぷりと日が暮れていて、片道十五分ほどかかる自宅までの道のりを街灯の明かりを頼りに傘をさしながら歩いて帰っていた。
二人で四方山話に花を咲かせながら歩いていると、不意に姉が前方に倒れ込んだ。
「姉ちゃん……?」僕はまだ事態が理解できていなかった。
ほどなくして雨に濡れて真っ黒なアスファルト上をじわじわと染み出した紅が彩った。
街灯の白い光を受け、その深紅の液体は溶けだしたビターチョコレートのようにてらてらと光っていた。
姉の華奢な背中に目をやると、大きく赤黒い染みが出来ている。
「姉ちゃん、おい!大丈夫かよ!!」僕は両手に持った買い物袋を放り出して姉のもとへしゃがみ込んだ。
麻希はパクパクと口を動かしはするが、弟の問いかけには応えられなかった。
そして僕が慌てて後ろを振り返ると下卑た表情で笑う男がそこに立っていた。目は虚ろで、口からはダラダラと涎を垂らしていて、どう見ても正気ではないことが一目でわかった。
その男の右手に握られた包丁を見てやっと状況に頭が追いついてきた。僕の親愛なる姉はこの通り魔に刺されたのだと。
その男は包丁を逆手に握り、僕の方へ信じられない程の速さで真っ直ぐに向かってきた。
その時、知らない女の声を聞いた。
「この落伍者め。」空から降り注ぐような声だ。
突如として飛び込んできた蒼白い光に阻まれ、僕は何も見えなくなった。
そして、残念ながら僕の記憶はそこで途切れてしまった。