最初からずっと叶わんといてほしい
「いや、あいつの顔は上の上やろ」
佐藤がベッドの下に転がってたペットボトルの麦茶を拾い上げ、ガブガブ飲みながらはっきりと返事をした。
容器についた水滴がしたたり落ちて、麦茶色の床を濡らす。
「え、まあ…せやな」
千早は彼の布団の海の中から、くしゃくしゃになったキャミソールを引っ張り出し、辛うじてそう返して、辛うじてそれを着た。
“せやな”って便利だ。声のトーンさえ上げておけば、いつもそこそこの“賛成感”が出る。
でも千早は内心穏やかではない。え、ガチ?あの子の顔が上の上?あれを上の上やと感じるような女選びのスタンスで、高1から4年の非リア期間を破ってとうとう選んだ相手が、じゃあなんであたし?
千早と佐藤は、友達の紹介で知り合った。最初はグループで遊んで、次に2人で飲んで、その次に2人で少し遠くに出かけて、いわゆる3回目のデートでどちらからともなく告白、ほぼ暗黙の了解のような形で交際に至る。大学生のお決まりルートだ。
「まあでも、お前も上の上やけどな」
「いや私はちゃうやろ。コンディション良い時で、頑張って中の上じゃない?」
「そうかな」
“そうかな”ちゃうねん。
そこは彼女なんやから“そうやで”やろが!と千早は思った。
「まあ…いずれにせよええ子やんな」
2人が話しているのは、同じ学部の一個下の後輩のこと。選択授業の席が近く、2人揃って喋る機会が多いその子は、名前を天原と言った。
色白で、韓国アイドルのような明るい茶髪のセミロング。服装はなんというか、売れっ子AV女優の私服みたいな甘めブランド。
顔まで可愛いならいいのだが、いや確かに可愛いはずなのだが、千早の中の何かがそれを認める自分を許せなかった。ただ乳だけは本当にデカい。
「俺の周りでもあいつのことタイプって言うやつ多いで」
「へえ…」
え、この話まだ続く?
ベッドから立ち上がり、タバコを掴んだ佐藤。彼がベランダのドアを開けると、物凄い熱気と大音量のクマゼミの声が一気に部屋に流れ込んでくる。
千早はそれに紛れさせるように、早口で「確かに男受け良さそう」と呟いた。
「えっ、何。嫉妬?」
網戸を閉め、タバコに火をつけた佐藤がベランダ越しにニヤリと笑う。
うわ、聞かれた。めちゃくちゃ女っぽくて陰湿な皮肉、聞かれとった。
そもそもこの質問、ずるい。「嫉妬じゃない」と返しても嘘くさいし、「うん、嫉妬」と開き直ってもダサい。どちらを答えてもロクな返事は返ってこないだろうし。どうせこのアホからは。
「別に」
千早は辛うじてその答えを選び、佐藤のしゃがみ込んでいる狭いベランダの網戸を開けた。
裸足のまま佐藤の向かいに座り、彼と同じタバコに火をつけ、目の前の相手を見る。
…ヒゲ生やして気怠げな感じでタバコ吸ってるけど、別にお前は成田凌ちゃうからな。ちょっとムキになって煙を吐く。
汚い灰色の地面には、昨日やった線香花火の残骸が散らばっていた。
「腹減らん?ラーメン食いにいかん?」
「暑いから嫌や。今日36℃やで?ウーバーイーツでパスタがいい」
「昨日の昼食ったやんけ…」
「いやや」
千早のわがままに呆れたように笑い、佐藤は「まあ夏やしな、パスタでいいか」と適当な相槌を打った。
このアホは、数十秒前に千早のいけ好かない後輩の容姿をそこそこ褒めたくだりを、もうあんまり覚えていない。千早には直感で分かった。
そういう遊び盛りの仔犬みたいな、単細胞っぷりが好きだった。
「嘘。やっぱええで、ラーメンでも」
「ガチ?ほな行こ、今。ちゃんと服着ろ」
「うん」
8月5日、熱中症注意レベルの快晴。
この空も、7月末まで未練がましく梅雨を引きずったくだりを、もうあんまり覚えていないようだった。