天使と堕天使と
麗しき白翼。美しき白翼。躊躇うものは何もない。心の中で言葉に出来ないままくすぶっっていた、様々な感情が全て、この翼を愛でたいと言う衝動に収束していった。リリィは蕩然とした表情で、少女の背中に手を伸ばした。
「そいつから手を離せ!」
エルが制止の声を上げたが、リリィの耳には入ってこなかった。夢にまで見た存在を前に、彼女の世界は白への愛で埋め尽くされていた。
天使との接触。それが引き起こすのは生死を賭けた闘争だ。このままでは不味い、とエルは急いでリリィを引き剥がそうとしたが、想定していたような事態にはならなかった。
少女の翼の片方は白色だが、もう片方は黒色。真っ当な天使では無いようで、心配は杞憂ですんだ。
しかし、ホッと安堵の息を吐いたのもつかの間、リリィは翼に続いて少女の未成熟な肢体も弄り始めた。このままでは不味い、と先ほどとは違う危機感をエルは感じ、今度こそリリィを引きはがした。
「あぁぁん。もっと、もっと触らせてぇー!」
「正気に戻れ。」
ゴツン。
あイタ!
リリィの頭に拳骨が落ちた。その悲鳴のせいか、正体不明の眠れる少女が身じろぎをして、ゆっくりとまぶたを開けた。
「ここは…あっ!あなた達は誰ですか!?」
目の前の珍入者を見て、少女は毛布を引き寄せて体を縮こませて震えた。起きたら目の前に見知らぬ人がいたら、誰だって怖いだろう。
しかしリリィにはそんな気持ちをくみ取る余裕は無い。鼻息を荒くして、早口で自分の愛を伝えた。
「ハアハア、こんにちは!私はリリィ、よろしくね!ところであなたの翼、とっても素敵ね!白いところがとってもキュートだし、黒い方もとってもクールで…ああ、美しい!」
「おい、落ち着け。暴れるな。」
エルはリリィの首根っこを掴んで、少女の元へ駆けよろうとするのを止めていた。
「あなたの名前も教えてくれないかしら?スリーサイズも一緒に!あ、そうだ、どんなパンツ履いてモゴモゴモゴ…」
こいつに喋らせていては収集が付かなくなる。エルはそう悟って、口を手でふさいだ。幾度の攻防を経て、そして矛先が自分に向いてないと言う幸運も重なり、エルはとうとうリリィを制御?する事に成功した。
なんとか静けさを取り戻したところで、気になっていた事を質問した。
「お前は天使か?それとも堕天使か?」
堕天使はなんらかの理由で、天使が魔族の魔力を持つようになってしまった存在だ。そうなるとその翼は純白から漆黒に堕ち、天界から追放される事になる。そうした堕天使は、地上や魔界に住み着き、小さなコミュニティを作って暮らすのが一般的だ。
しかし、目の前の少女は、堕天使の黒翼と同時に天使の白翼を持ってる、前例のない存在だった。
「それは…その…」
リリィの痴態に、恐怖を忘れポカンとしていた少女だったが、その質問で再び表情を硬くしてしまった。答えあぐねている様子を見て、隠し事をしようとしていると判断したエルは、魔力を高ぶらせ殺気を飛ばした。
「ふん。はっきりしないな。天使ならば生かしておくだけ危険だ。」
「ひっ…!」
子供とは言え貴族の魔力を受けた少女は、座ったまま後ずさりするが、すぐ後ろが壁である事に気が付いた。逃げ場がない事実に絶望したか諦めたか、目尻に涙を浮かべ、うつむいてしまった。
室内の空気が悪くなった事を感じとったリリィは、なんとか場を和ませようと思い、自分が弁当を持ってきた事を思い出した。リリィは自分の口を塞いでいる手をタップして、解放を求めた。
エルはそれを黙殺して、このまま強硬手段を取ろうとしたが、ふと自分が任務を受けた時に言われた事を思い出した。
そもそもリリィを連れてきたのは、お父さまに一緒に行くように言われたからだ。こいつが一緒に行った方が都合が良いと。
そもそも天使の魔力を感じたならば、誰かが直ぐに確認に向かったはずだ。それなのに私にこの仕事を任せられたと言うことは、つまり、試されているのか?
もしかしたら、私がこの天使モドキを始末しようとする事を見越して、それを止める為にリリィも一緒に連れて行けと?お父さまはこうなると事を見越していた…?
エルはしばらく考え込んで、リリィの要求を認める事にした。殺すのはいつでも出来るが、生かして置く事に何か意味があるのだとしたら、リリィに任せた方が良い気がしたからだ。
リリィは早速、食料による懐柔を始めた。
「そうだわ!あなたお腹空いてない?難しい話は後ですれば良いじゃない。ね、お昼にしましょう。そこに転がってる箱、それお弁当なのよ!」
少女を弄る時にほっぽりだした荷物を指差して言った。リリィの突拍子のない言動を理解出来ないのか、彼女は顔をこわばらせたままだった。
エル掴んでいた手を離すと、リリィは少女の元へと駆け寄った。
その姿を見たエルは、自分がしようとした事と、正反対の行動をリリィは取っていると思った。そして自分に課された仕事の意味を、もう少し考えなければならないと感じた。
「ちっ、近寄らないでください…!」
つい先ほど殺気を浴びせられた為か、エルの横にいたリリィも恐怖の対象になっていた。少女は涙が浮かんだ目を精一杯鋭くして睨んだ。拒絶の言葉を受けたリリィは、今度はいきなり抱きつくようなマネはせず、ゆっくりと少女のそばに腰を下ろした。
「ああ、怖がらないで。大丈夫、私はあなたの味方だから。何も怖くないわ。ほら、武器なんて持ってない、あなたと同じ子供よ。あなたを傷つけたりしないわ。」
リリィは性欲を表に出さないように、落ち着いた声で話しかけた。ゆったりとした動作で、なるべく刺激しないように、私は無害ですよ、と相手に示す。
これは酷いセクハラをした翌日のエルを宥める為に習得した技術で、心の機微に敏感なサキュバスとしての生来の資質が合わさり、リリィは怒ったり怖がっている人を落ち着かせる事が得意になった。エルが何度も被害にあう原因の能力とも言える。
そのかいあってか、少女は警戒こそすれど、拒絶するようなトゲトゲしい雰囲気は無くなった。
それを好機と見たリリィは弁当を拾い上げて、その中身を見せた。肉や魚と野菜のサンドイッチで、見た目にも食欲をそそる鮮やかな逸品だ。横でツバを飲む音が聞こえて、これは行ける、とリリィは確信した。
「えっと、その…」
「あらあら、お腹すいてるのね。はい、これハンカチ。ね、美味しそうでしょう?こっちは燻製した魚で、これは朝収穫したばかりのトマトを使ってるの。あっ、お茶もあるわよ。」
リリィは手早くカップと水筒を取り出して、お茶を注いだ。さあ召し上がれ、とリリィが促すと、少女はおずおずとサンドイッチを手に取った。
「これ…食べても良いんですか?」
「どうぞどうぞ、遠慮しないで。あなたの為に作ってきたの。さあ、一緒に食べましょう。」
本当はエルとのデート用の昼飯なのだが、非常事態なのでそんな事も言ってられない。
少女はこの風車小屋に来てから何も食べていなかったのだろう。一度食べ物を口に入れると、あとは無心で頬張った。
少女が食事に夢中になっている隙に、リリィはムスッとした顔つきのエルに手招きした。
「なんだ。」
「なんだ、じゃ無いわよ。ほら、座った座った。私達も一緒に食べましょう。」
このままでは少女はエルが近づいただけで怖がるようになってしまう。ご飯を食べている間にいつのまにか一緒にいる事で、距離を近づけようと言うリリィの気遣いだった。
リリィは他の二人が黙々と口を動かすなか、二つしかないコップにお茶を注いだり、料理の説明をしたりした。かいがいしい努力によって、殺伐とした空気をなんとか変えようとしたのだ。
弁当箱の中が空になった時、しばらくの沈黙の後、少女が口を開いた。
「ありがとう、ございました。ここ最近何も食べて無くて…」
少女の声からは恐怖の感情は無くなっていた。話を聞くことに支障が無くなっただろうと判断して、リリィは再び名乗る事にした。
「そうだったのね、良かったわお役に立てて。さて、私はリリィ、こっちのはエル。よろしくね!」
こっち…エルは雑な扱いに釈然としない気がしたが、とりあえずこの場はリリィに任せる事にした。
「えっと、私の名前はミーシャです。よろしくお願いします。」
「ミーシャね。うんうん、良い名前だわ。それでね、ミーシャ、聞きたいことがあるんだけど、スリーサ…イタイ!」
やっぱり任せられない、期待した自分が馬鹿だった。エルはリリィの頭に再び拳を落として、話を遮った。
しかしエルは先ほどのように、殺気を飛ばすのでは無く、リリィのようになるべく穏やかに接する事にした。少なくとも話を聞くならそうした方が良いと思ったのだ。
「私たちは調査に来た。お前の身柄について詳しく聞かねばならない。」
リリィはエルが態度を変えた事に気がついて、余計な口を挟まない事にした。また頭にタンコブを作るのはごめんだった。
「私の…私の何をお話しすれば良いのでしょうか。」
「そうだな、先ずはその翼について話してもらおうか。何故に魔界にいて片方は白い翼を持っている?堕天使ならば両方とも黒くなるはずだ。片方が白いまま堕天するなど、聞いた事もない。」
もっともな疑問だったが、ミーシャは前と同じように話しにくそうな表情をした。エルが根気強く待っていると、なんとか絞りだしたような声で説明をした。
「ある日、お父さんが堕天して…魔力で繋がってた私の羽も黒くなったんです。それで、天界には居られなくなって…みんな穢れた翼は出て行けって…お母さんとも離れ離れになって…」
話しながら、先ほどの涙とは違う涙がミーシャの頰を濡らした。その姿に、リリィは寄り添わずには居られなかった。親が堕天しただけで子の翼も黒くなるのかなど、分からないことはあったが、とにかく泣いている少女を放っておく事など出来なかった。
「そうだったのね。寂しかったのよね、分かるわその気持ち。私も孤児だから、良く分かるの。」
思いがけない告白に、ミーシャはリリィの顔を見た。
「えっ…そうなんですか?」
「うん、私が小さかった頃に、パパもママも天…不幸な事故で、死んじゃったの。家族に会えないのは、寂しいわ。私もそうだったの。でもね、もう大丈夫。私達が側にいるわ。」
リリィはミーシャの肩に手を回して抱きついた。耳元で大丈夫、大丈夫、とささやいて頭を撫でる姿は、本当に10歳なのかと思うほど、母性を感じさせた。本人の心の中は母性よりも淫秘さが多いのだが。
しかし表面上の安心感に包まれたミーシャは涙を拭いて、ありがとうございますと言って落ち着きを取り戻した。
エルはなかなか話が進まない事にやきもきしつつも、リリィの手練手管に感心していた。
自分一人でここに来ていたら、今のような結果は得られなかっただろう。何故このミーシャという不思議な堕天使がいるのか、質問の答えを聞く前に殺してしまったかもしれない。
リリィを連れて行けと言った父親の言葉を思い出して、こいつがここに居て良かったと思った。
ミーシャにセクハラをしない限りは、リリィにも取り調べの半分くらいは任せてみようと決めた。
これでメインキャラクターが出揃いました。
ミーシャを出せてよかった