第30話 公衆浴場
『入る時に、これを渡してください』
『これは?』
月島ゆかりに手渡されたのは、小さな正方形の金属片だった。
読めはしないが、両面に文字が刻印されている。
『銅貨よりも小さいお金?』
『いえ、浴場専用の、何と言うんでしょう?入浴券?』
『ああ、トークン――代用貨幣ですね。わかりました』
『では、行きましょうか』
入口で番台にトークンを渡し、彼女と別れた。
脱衣場に入った瞬間、既に奥からは喧騒が聞こえてくる。
どうやら浴場は盛況のようだ。
公衆浴場とは、文化的には人々の交流の場である事が多いだろう。
風呂など本当に久しぶりで、つい心が踊る。
俺は鼻歌混じりに衣服を脱ぎ捨て、備え付けの手拭いを一本、手に取った。
手拭いを肩に掛け、小さな構えを通り抜ける。
さあ、風呂だ!――と。
『アキラさん……アキラさん!』
『??!』
そこには、月島ゆかりが立っていた。
手拭いで僅かに前を隠しただけの姿で。
どういう事だ? 混浴なのか?
日本でも江戸時代なんかは混浴が一般的だったとは聞くが。
『あの、湯船は別々になっていて、男性はあっちになりますから』
『あ……えっと、はい』
『マッサージや垢擦りも、やってくれる人がいるので』
『……』
『……そんなに、見ないでください』
彼女に顔を背けられてようやく気付く。
『あっ!いや!まさか中で繋がっているとは!』俺は慌てて取り繕う。
『あんまり異性を見るのは、失礼ですからね?』彼女は恥ずかしそうに、そう言った。
『久しぶりでしょうから、どうぞごゆっくり。私も少しのんびりしますから』
そう言うと、彼女は奥に歩いていってしまった。
後ろから、立ち去る彼女の弾むような尻を見る。
俺は、その時ようやく、自分が前を隠していなかった事に気が付いた。
なるほど確かに男女でエリア分けがされている様ではあった。
とは言え厳密なものでも無いらしく、視界の端に女性の裸体が映る事もしばしばだ。
正直言って気恥ずかしいし、居心地も悪い。
こんな中途半端に分けるよりは、しっかりと壁で区切ってもらいたいものだ。
俺は出来るだけ隅で身体を洗い、女性エリアが視界に入らない角度で湯船に浸かった。
『あぁ~』湯船に浸かりながら、俺は声を上げた。
こんなにもリラックスしたのは、いつ振りになるだろうか。
その時周囲の人々を見てようやく気付いたが、俺は、小さくなっているのでは?
ずっと誰も彼もが一回り大きいと感じていたが、そうではない。
俺が、一回り小さいのだ。
これは、控え目に言っても酷くショックだった。
顔が――幼い。背が――低い。
昨夜のパニックが、蘇る。
昨夜鏡に見た顔は、確かに若い人間のそれだった。
まさかとは思うが、これは若返っている、と表現して正しい事象だろうか?
いや、そもそも別の世界に居るだなんて理不尽が起きているのだ。
今更若返っている事くらいで、それがどうしたものだろう。
俺の隣の中年男性は、寛ぎの表情で湯に浸かっている。
時折子供の嬌声が聞こえる。
こうして見ると、別の世界、または別の星だなんてとても思えないのだけれど。
風呂にしろ市井の人々にしろ、あの市場にしろ――もしここが別の星だと仮定して、こうも地球に似通った文化になり得るものだろうか?
答えは、yesだ。
文化とは結局の所、地政学的要因と生物学的要因との相互作用により形作られるものだ。
ヒトがいて、似たような環境があるならば、似たような文化になる事自体に疑問はない。
では、地球同様にヒトの如き生き物が繁栄する事は、有り得るのだろうか?
これも、yesだ。
タイミングが何時になるか、どの種がそうなるかは別として、環境に適応した種が生物相の中で優位に立つ事はあるだろう。
適応が更なる適応を促し、文化を形成するにあたり、おそらくヒトガタは有利な条件を満たしているのだろう。
文化的な見た目にしろ、生物としてのヒトガタにしろ、結局は収斂進化の結果に過ぎないのかもしれない。
そも、遡って地球以外にも、生命は生まれるのか?
やはり、yesに、なるのだろうな。
分子間の相互作用には、触媒として化学反応を加速させるものがあり、十分な数の相互作用ネットワークがあれば、正のフィードバックループが自己触媒作用を起こすと、本で読んだ事がある。
つまり、生命の誕生は奇跡ではなく、必然なのだ。
そう思えば、この世界が存在する事に対して異議はない。
だが、今俺がここに居る事に関しては?
月島ゆかりとの邂逅により、俺独りが狂気に踊っているという線は、薄れたように思える。
では彼女も俺も残している、現代社会の記憶――30年のズレがあるにせよ――には、どう説明を付けたものだろう。
記憶とは、脳内に留められたニューロンの結線パターンであり、それこそが人格を保つ唯一のものでもある。
俺の記憶は――俺が見る限りでは――俺だけのものであり、それは単一性を保持しているように思える。
ただ、この『思える』というのが厄介で、結局はそう信じる事しかできず、なんらの客観性を持たないのだ。
俺は――俺だ。
だが何故、俺は俺なのか?
何度目になるのかも分からない、答えの出ない迷路を彷徨う。
俺は湯に沈み、口から泡を吹き出した。
――もう、上がるか。
立ち上がった所で、湯けむりの向こうに月島ゆかりの姿を見つけた。
やはり、手拭い一枚で前を隠しただけの格好で。
彼女は出口を指差す。
俺は頷いて、出口へと向かった。




