第27話 同郷人
俺は今、狂気と正気の狭間にいる。
いや、既に狂気に片足を突っ込んでいるのかも知れない。
もう何十分もの間、ただ押し黙って椅子に体を預けている。
月島ゆかりは、触らぬ神に祟りなしと決め込んだのか、特に何も言ってはこない。
会社では、トラブル時の柔軟な対応と切り替えの早さを評価されたりもしたものだ。
しかしこれはトラブルなどという範疇を超えている。
ある朝起きたら、別な世界に居て、体も若い現地人のものでした。
漫画やアニメなら、別にどうという事の無い話だろう。
モチーフ自体は古いものだ。
ではこれは漫画やアニメなのか? 馬鹿な。
SFめいた説明や漫画アニメの設定ならば、どうとでもでっち上げられるだろう。
やはり可能性として有力なのは夢か、狂気か?
狂気の証明など、一体どうしたら良いものだろう。
もしこれが悪夢ならば、ただ目覚めるのを、待つしかないのか?
夢か狂気か――この問題は、解決不可だ。
だからといって、そのまま受け入れるには問題が大きい。
せめて、せめて冷静になれ――。
『俺は――狂っていると、思いますか』我ながら馬鹿らしい問い掛けだ。
『……わかりません。ただ、気持ちはわかります』
逆に、この体、この世界こそが本物で、俺の記憶が偽物なのだろうか?
――パラノイアが、頭をもたげ手招きしている。
『胡蝶の夢を――ご存知ですか』
『荘子ですよね。私も、それを考えました』
その後、彼女の提案で俺たちはそれぞれの知る歴史を語り合った。
『文系なので』という彼女は日本史にも世界史にも明るく、中国の歴代王朝なども諳んじることができた。
俺は歴史が苦手なのだが、それでもどうにか話にはついて行き、互いの話にそれらしい齟齬は見当たらなかった。
壮大なフェイクに彼女が加担しているのでない限り、どうやら我々は同じ歴史認識を持つ日本人のように思える。
『……例えばこれが全て、大掛かりな偽物という可能性は?』
『それは、明日にでも街を案内できます。……偽物というには、その、余りにも』
あの小屋から漁村を経てこの街まで。移動距離だけでも相当だ。
聞けば矢張り他にも街と言える規模の都市があるらしい。
二人揃って何事か大仕掛けに騙されているという線は、なさそうだ。
無論、彼女本人に対する疑いは晴れないが。
『ただ、私はこの街から出たことはありませんが……なんだか、怖くて』
互いを共通の来歴を持つ同郷人と認識してからは、むしろ安堵しているのは彼女の方に思える。
同じ教師の職に就いている仲間が居て、地域の人々とも上手くやっているようだが、内心ずっと一人孤独に過ごしていたのだろう。
『ごめんなさい。アキラさんはまだ気持ちの整理が付かないのは分かっているんですが』
『一人じゃなくて……良かった』彼女の頬を涙が伝う。演技には――見えない。
俺は咄嗟に彼女の手を取る。彼女はびくりと身動ぎした。
女癖の悪さが出た。
泣いている女を前にしては、他の事は全てどうでも良いように思える。
これが原因で恋人に嫌な思いをさせた事もあるのだが、だからと言って治るものではない。
女癖の悪さの所為で失敗らしい失敗をしたことがないのも、治らない原因ではある。
『あの……』彼女は顔を上げ、俺を見た。
『失礼』俺はそう言いながらも、手は離さなかった。
何か、慰めの言葉くらいは掛けたいものだ。
無論、心の片隅ではあわよくば、と考えている自分もいる。
『来た道がある以上、戻る道もあるのが道理でしょう』
『それは、確かに』
『少なくとも、俺と貴女は協力し合えますよ』
『はい』
数秒間、互いに見つめあったが、手を引き離されてしまった。
『私、日本に恋人が居たんですが、今頃どうしているでしょう』
彼女は立ち上がり、窓の傍に寄った。
牽制、されたな。
俺もここに来る前には、ちょっと良いムードになっていた女の子が居た。
それとは別に未だ未練がましく想っている相手も居る。
しかし基本は目の前の相手に全力投球が俺のスタンスだ。
そもそも――そんな場合ではないのだけれど。
『済みません。すっかり遅くなってしまいました』
『それは、別に――』
今夜はお暇して、都合が良ければ明日の再訪を許して欲しいと申し出たが、今夜はここに泊まって構わないと言う。
『行くところも、ないでしょう?』
これは、あわよくば、か?
『私、すぐ近くに教室の仲間が居るので今夜はそこへ行きます』
まあ、そんなもんだ。
『いや、流石にそこまでご迷惑をお掛けするのも』
『四年もここに居るんです。確かにアキラさんは大人のようですけど、先輩の言う事は聞いても良いんじゃないですか?』彼女はそう言うと、俺に微笑みを向けた。
結局その夜は、彼女の部屋を借りる事にした。
俺は枕に残る女の匂いを嗅ぎながら、この計り難い現実を噛み締めて眠りに落ちた。




