第25話 地図
月島 ゆかり。
昭和40年生まれ。出身は千葉県。
都内の大学でドイツ語を学ぶも、19歳のある朝、気付けばこの世界にいた。
右も左も分からぬ所を親切な老人に拾われる。
私塾を開いていたその老人に師事し、現地語を教わる。
持ち前の語学の才か、言語を習得し私塾の手伝いをして過ごす。
老人は昨年他界し、他数人の教師役と共にその私塾を守っている。
現在23歳――ただし、推定で。
これが彼女の話から得られた、彼女の来歴だ。
この世界――と、あえて言うとして――に来た時の境遇としては、俺とそう変わりないとの事だった。
俺とて、現にこうして街に辿り着き、人に助力を乞うている。
有り得る内容では、あるのだろう。
とかく、引っ掛かるのがここへ来た年代だ。
念のため当時の流行りや好みを聞き出したが、その内容が妥当なものなのかどうか俺には判断が付かなかった。
何せ、俺が生まれるよりも前の話だからだ。
――ちなみに、好きなアーティストはチェッカーズ。欲しかったものは携帯型のCDプレイヤーだそうだ。
彼女は彼女で自らの知らぬ三十数年間を知りたがったが、一体何を話したものか、俺は言葉に詰まった。
戦争はなかったかと問われたが、無論そんなものは無い――少なくとも日本が参加するような戦争は。
俺は世界的な対テロ戦争と昨今の米中貿易戦争について語ったが、いまいち要領を得た様子は無かった。
戦争を気にするだなんて、精神的に戦後レジームから脱却していないのだろうか?
いや、この言葉はTVニュースからの受け売りだが。
彼女は、2019年に対し指折り両親の年齢を数えた。
――俺も両親の顔はここ二年程見ていないが、元気だろうか。
その後もいくつか目新しそうな単語を投げ掛けたが、何一つの反応も引き出せなかった。
これもまた、埒が明かない。
『月島さんは――』
『――はい』
『何故、この世界が我々のものとは、異なると?』
『地図が、違うんです』
『地図が?』
『見てもらったほうが――ちょっと待っていて下さい』
彼女はそう言うと、部屋から出て行ってしまった。
俺は彼女との会話を反芻した。
有り得ない。違う年代から来たなんて。
有り得ない。違う世界だなんて。
巧妙な作り話で一杯食わされているというのが、妥当な所だろう。
地図を取りに行った様だが、そんなものいくらでも偽造可能だ。
まだ様子を伺い、粗を見つけて問い詰めるべきか?
それとも機会を見つけて脱出を図るべきか?
俺を騙して何の得になるのかは分からぬが――助けを、得られたとばかり思っていたのに。
三分程して彼女は戻った。
一冊の本を手にしている。
『これを――見て下さい』
いかにも年代物な分厚い表紙。
擦り切れてぼろぼろになったページ。
――手が、込んでいるな。
開かれたページには、確かに世界地図の様なものが描かれていた。
随分と精度が低い様だが、一瞥してもう地図が異なる。
端々に書かれている文字も、全く見たことのない物だった。
『これだけ――ですか?』
『他の本でも、地図はみなこれなんです』
『それだけでは何とも――ですよね?』
『他にも!……あの……』
『失礼を承知で言いますが。例えば、貴女が周囲の人々に騙されている可能性は?』
『言いたい事は、分かります』
彼女の表情は、変わらない。
『そうだ!月を、月を見て下さい!』
『月……と言うと、空の月?』俺は天井を指差す。
『模様が、違うんです。うさぎが、いません』
意味が分からず、俺は呆けた。
月の……模様だと?
俺は彼女を強く見詰めた。
彼女は小さく、頷いた。
……そんな!まさか!
俺は弾かれた様に立ち上がり、窓から身を乗り出す。
暗い空に浮かぶ、明るい月を見つけた。
俺は、目を凝らす。
果たして月は、俺の知らない、月だった。




