第2話 獣道
棒切れを構え、そろそろと小屋を出る。
我ながら腰が引けている。
これが休暇であれば、実に良いリフレッシュになるであろう、穏やかな森林の匂い。
木々は閑散としており、木漏れ日は優しく柔らかい。
しかし俺の心を占めるのは、誘拐という犯罪行為に巻き込まれた事による恐怖と不安ばかりだ。
それでも、ここから逃げ出さなければ。
誰が何を目的にした誘拐なのかはさておき、犯人達には司法の裁きが下ることを期待する。
獣道を進む。風が木々や茂みを揺らす度、びくりと身動ぎして辺りを見回す。
どこに誘拐犯達が居るとも知れないが、茂みを分け入り獣道を外れるのもまた、不安を伴う。
いっそ行ける所まで、この獣道を行くしかないだろう。
未だ日は昇りきってはおらず、空気は冷たい。
まだ、午前中だろう。
昨夜は確か読書の止め時を失い、床に就いたのは深夜2時過ぎだ。
なら、都内からそう離れては…いや、車で数時間なら、どこまで連れてこられたか知れたものではない。
とにかく、人に。
人に会って助けを求めねば。
人に会えれば、そして電話さえ、借りられれば。
と、獣道は丁字路に差し掛かった。
とは言っても、結局左右どちらも僅かに広い程度の獣道だ。
車が通れる広さでも無し、轍の跡も見られない。
古い林道か、森林公園の散策路か、はたまた私有地内の通路なのか。
俺は少しばかり逡巡し、右への道を選んだ。
どちらも見晴らしは悪いものの、左の道は僅かながら、茂みが濃くなっていた気がしたからだ。
結局の所、都内から車で数時間といった範囲でしかない。
どこに向かっているにせよ、歩いてさえいれば、いずれ人里に当たるだろう。
きっと、日のある内には。
――そう、自分に言い聞かせる他、ないだろう。
俺は歩いた。
いずれ人里に当たる。
きっと建物が見える。
すぐに助力を求めるに足りる人に会える。
山菜採りの老人でいい。
キャンプを楽しむ若者グループでいい。
余暇を惜しんで竿を振る釣り人でいい。
誰でも、いいから!
俺は、歩いた。ただ、ひたすらに。
――頭上に広がる森の隙間から月を見上げ、堪えきれず一筋の涙を流した。
疲労が酷い。空腹が酷い。喉の渇きが酷い。
何故、何故俺がこんな目に。
最早足元も見えずに、木の根元にうずくまる。
昨日までは、そう、昨日までは、職場と自室の往復ばかりの毎日だったのに。
積んだ本とDVDを少しずつ消化するばかりの毎日。
それが意味も解らず何処とも知れない山奥で遭難とは。
いっそ日が落ちれば人里の灯りが見えるものと期待をしていたが、森は暗く深い闇に包まれた。
小さな物音、遠くの鳴き声、木々の騒めきにさえ慄く。
シャワーを浴びたい。暖かいメシを食いたい。ひと缶のビールが欲しい。
あの部屋に、戻りたい。
何故、何故俺がこんな目に。
両膝を抱え自己憐憫に浸りながら、俺は眠りに落ちた。
翌朝目覚めた俺は、置かれた状況を思い出し、絶望する。
あぁ、そうか、歩かなければ。いよいよ身動きが取れなくなる前に。
既に体力は限界に近いが、それでも、前へ進まなければ。
日中は暖かかったが、朝晩と肌寒い空気に晒されてしまった。
体を温めるためにも、歩き出した方が幾分マシだろう。
俺は空腹と疲労に叫ぶ体を無視し、ふらふらと立ち上がり自らを抱きしめるようにして歩き出した。
歩き出してどれだけ経ったものか、太陽は未だ天頂を指してはいない。
気温は日中の暖かさを取り戻していたものの、俺はまだ自分自身を抱きしめていた。
朦朧としかけた意識の中、自身の異変に気付いた。
俺の腕は、こんなに細かっただろうか?いや、何かがおかしい。
確かに元々細身ではあったものの、これは細すぎる気がする。
はたと立ち止まり、太ももをさする。
……足も、細くなっている? 余分な脂が無くなっていると表現すべきか。
長年のデスクワークにより蓄えてしまったはずの、うっすらとした脂肪を感じない。
まさか、いやまさかだが、『昨夜眠っている間に誘拐された』との前提は、間違っているのでは。
腕や足がこんなに細くなるなんて。
これは、誘拐から一晩どころではない時間が経過しているのでは?数日か?数週間か?あるいは、もっと?なら俺のこの昨夜の記憶は。
――例えば何らかの事故で頭部を強打、または頭を殴られるかして記憶が飛ぶ、等といったことが有り得るだろうか?判らない。
俺は小さな交通事故にしか遭った事はないし、その時は足に軽い怪我を負うだけで済んだ。
スポーツ中に衝突して意識が飛んだ経験なんかも無い。
人の記憶とは、そんな簡単に飛ぶ事があるのだろうか?
しかしそうとでも考えなければ、このやせ細った腕と足の説明がつかない。
それに俺のこの格好。時代じみた囚人に見えなくもない。
監禁されてでもいたのだろうか? どこかから、何かからの逃亡中であったのだろうか?
俺は酷く狼狽した。
もし誘拐から数日かそれ以上経過しているというならば、『都内から車で数時間』という仮定も崩れるからだ。
周囲を見回す。見慣れぬ森の様相に、改めて恐怖を覚える。
あんなにも夜の闇が深い、ここは一体何処なのだろう?
九州の山奥か、それとも北海道の最果てか。
どこであっても不思議はない気がしてきた。
であれば、偶然にも俺と出会い、親切にも電話を貸してくれるような人々には、どれだけ期待ができるだろう。
これは、想像以上に深刻な事態なのかも知れない。
もし数週間の不在となれば、流石に捜索願は出されているものと思いたい。
が、年間8万人の行方不明者の内のたった一人だ。
そこにも、どれだけ期待ができるだろう。
なんだか、出来の悪いデスゲームかサバイバル映画にでも放り込まれた気分だ。
回らない頭で答えの無い答えを探しながら、俺は歩いていた。
そして、果せるかな、道の先には、人の気配が。