第1話 「ヒーロー誕生! 地球の悲鳴が 聞こえるか」
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英雄になりたければなればいい。
誰もそれを邪魔したりしない。
きみが誰かの邪魔者になるだけだ。
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その悲鳴が聞こえたのは、日本時間で言う二〇一二年十月二十五日、午前七時三十二分のことだったと記録されている。七時三十二分三十一秒から五十四秒までの、二十三秒間のことだった。
その悲鳴は形容しがたい。
その悲鳴は名状しがたい。
強いて今のところの統一見解を言うなら、深く、沈痛な悲しみをたたえた、振り絞るような超高音の悲鳴だったらしいが――この表現がきちんと事実に則しているかどうかは確かではないし、定かでもない。なんとなく正しそうな表現というだけだ。そもそもそれがどんな悲鳴だったかなんて感じようは、個々人おのおの、人それぞれだし――それに、悲鳴を聞いた全員の意見を聞くことは、どのような調査機関がどのようなアンケートを取ろうと、絶対に不可能だったのだから。
形容しがたい、名状しがたいその悲鳴を聞いた人間のうち、三分の一は絶命してしまったのだから。
鼓膜ではなく精神を破壊され――絶命してしまったのだから。
三分の一。
そう、とは言えたかだか三分の一――全員が死んだわけではないところをみれば、社会はその悲鳴のことを、そこまで重視すべきではないのかもしれない。大袈裟に言い募るべきではないのかもしれない。世の中にはもっと致死率の高い伝染病はたくさんあるし、人間、生きていれば、そんな悲鳴なんかよりも、交通事故で死ぬ可能性のほうがずっと高い。人類史を紐解いてみれば、数字の上では、隕石が当たって死ぬ確率のほうが高いくらいだ。
だからそんなに気にすべきではなく、だからそんなに気に病むべきではないのかもしれない。
地球上の人口が三分の二まで削られてしまったことくらい。
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「――そんな風にみんなが考えてるんじゃないかって思うんです。七十億人だかいた人類のうち、たった二十三億人だかそこらが死んだ程度のことだと考えてるんじゃないかって――半年前のあの『大いなる悲鳴』を、みんな、そんな風にしかとらえていないんじゃないかって」
十三歳の少年、空々《そらから》空は、正面に座る痩せぎすの医者に対して、慎重に言葉を選びながらそう言った。白い部屋。白い机。白い椅子。白い壁。白いベッドに白いカーテン――いかにも診療室という部屋の模様に、うっかりすると饒舌になってしまいそうな自分を抑えながら。
痩せぎすの医者は空々の話を興味深げに聞いている。もっとも、あくまでもそう見えるだけで、本当に興味深いと思っているのかどうかはわからない。興味深げに聞くことが、その姿勢自体が、言ってみれば彼の仕事なんだろうと思うから。
「むしろあの『大いなる悲鳴』が、倍々感覚で増大していく一方だった地球の人口問題を、わかりやすく、そしてあっけなく解決してくれたくらいにしかとらえてないんじゃあって――思うんです」
「地球の人口問題、ね」
医者は空々の言葉を繰り返した。繰り返した意図までは、空々には読み取れない。
「人口。それはしかし事実としてあるのかもしれないよ、空々くん。粛々《しゅくしゅく》と受け止めるべき事実として、ね。我々の住むこの日本でも、人口は増え過ぎていた。宇宙船地球号はとっくにキャパオーバーになっていた――船としては沈みかけていた。あの日、人口がまんべんなく、その上一気に、三分の一も間引かれた結果、解決したのはしかも人口問題だけじゃない。資源問題やエネルギー問題、食糧問題だって解決した。大局的な視点に立てばあの日、地球のすべてが『いい方向』に向かったと言える。違うかい?」
「いえ、そういうとらえかたがあるのはわかるんです。僕にもわかるんです。それ自体を不謹慎だって言うつもりはなくて……」
空々は更に慎重に言葉を選ぶ。ここまで来て、来ておいて、あまり慎重になり過ぎても仕方がないことは百も承知なのだが。そもそも空々は、こんな問診を受けるのは初めてのことだったので、なんとなくこういう診療所を『悩みを聞いてもらえる場所』だと思っていたのだが、しかしこうしてあっさり反論されてしまったところを見ると、決してそういうわけではないらしい。
だがそれは不快ではなかった。
こんな議論を、空々はずっとしたかったのだから。
半年前からずっと、したかったのだから――その相手が初対面の医者だというのは、なんだか不思議な気持ちもするけれど……。
「ただ、なんていうんでしょう……あんな大事件があったのに、大事件と言っても足りないくらいの極大事件があったのに、世の中がそんな風に、普通に回っているのが、僕にはとても不自然に見えるって言うんでしょうか……えっと、僕は野球部に入っているんですが」
「ほう。野球部。いいね」
ここらでそろそろ具体的なエピソードを公開したほうがいいかと思って言ってみると、痩せぎすの医者は身を乗り出してきた。野球部という単語に反応したらしいが――学生時代に野球をやっていたという口だろうか? あるいは、今でも草野球でならしているのかもしれない。というのは空々の、いわば期待を込めた見方であり、その痩せぎすの体格からすると、医者はあまり運動神経がよさそうには見えないのだが……。
「ポジションはどこだい? 空々くん」
「いえ、僕はまだ入部したての一年生ですから、はっきりとしたポジションとかはないです……小学生のときは、ショートを務めていましたけれど。それで、こないだのゴールデンウィーク、野球部の合宿があったんです」
空々は逸れそうになった話を軌道修正する。
「先輩達が話しているのを、合宿所で聞いてしまって。聞いてしまったというか、それはミーティングの席でのことでしたから、聞こえて当たり前だったんですけれど……、練習のキツさに、あまりのハードさに、愚痴っていた先輩がいたんですよ」
「愚痴っていた? どんな風に?」
部活動の先輩の悪口を、大人に対して密告しているようで、空々の口調はともすればどうにも奥歯にものが挟まったかのような物言いになりかねなかったが、そう合いの手を入れてもらえると言いやすい。さすがはプロだと空々は思った。
「『あーあ、今この瞬間、またあんな悲鳴が響いてくれれば、練習も中止になるのになあ』って――その先輩はそう言ったんです」
「…………」
「フォローするわけではありませんけれど、別にその先輩は、特に皮肉屋だとか、取り立てて斜に構えた人だとか、飛び抜けて性格が悪いとか、そういうわけではないんです……、むしろ僕達新入部員からしてみれば、とても面倒見のいい、頼りがいのある先輩って感じで……、一年生はみんな、親切にしてもらっていて。だから僕は結構、その人のことが好きで、尊敬しているところもあったんです。だからこそ、その人がそんなことを言ったのが、僕には信じられなくて」
いや。
信じられなかったのは、先輩のことそれ自体でもあるのだが、その直後にあった、他の部員達の反応だった――ミーティングに参加していた野球部員は全員、その発言を受けて笑ったのだ。
大爆笑したのだ。
先輩の発言は――どっと、受けたのである。
「たった半年なんですよ、あれから、まだ」
「正確には、今日は二〇一三年の五月二十七日月曜日だから、半年と三十二日だね」
医者は卓上カレンダーを見ながらそう言った。
「ええ……そうですね。正確にはそうです。半年と三十二日しか経っていないのに、もうそれが、冗談のネタみたいになって、しかも受けている。受け入れられている。それって、ただ事件が風化するより、忘れられるよりも、もっと重大なことなんじゃないかって、僕には思えて――」
空々は言う。段々と言葉を選んでいる余裕がなくなってきた。
「――だって、部員の中には、身内が死んだ人だっているはずなんですよ。と言うより、確率の問題からして、知り合いが死んでいない人間なんて、地球上にひとりもいないはずなのに。なのに」
「だが空々くん。悲劇に対して、いつまでも悲嘆にくれているわけにはいかないだろう。確かに、その先輩の言葉は、あの悲鳴で死んだ人達のことを思えば褒められた発言ではないのだろうけれど、じゃあ、幸運にもあの日を生き残った人間は、その後はずっと、ろくに冗談も言えない人生を生きるべきだなんて、きみは言わないだろう?」
「……でも、たった――」
「半年。と三十二日。じゃあ一年経てばいいのかな。二年後ならいいのかな。十年後ならいいのかな。その先輩の冗談を、きみはいつなら許容できた?」
「…………」
わからない。いや、本当はわかっている。
たとえ十年後であろうと――許容できなかっただろう。自分は先輩を『許せなかった』だろう。
今から十年後、二十三歳になった自分なんて想像もつかないけれど、そのことだけはリアルに確信できた。
「大体、そのとき、きみはどうしたんだ? ミーティングをしていた部屋が笑いに包まれたとき、なごやかなムードに満たされたとき、きみは周囲に合わせて、笑ったりはしなかったのかな? 笑った振りを、したんじゃないのかな――」
「それは――えっと」
「そして空々くん。あんな大事件があったのに世の中が普通に回っているのが不思議に思えるときみは言ったけれど、そんな風に『世の中を普通に回す』ために、どれだけの大人が、いや大人に限らないな、どれだけの人々が、大変な思いをしてきたと考えている?」
「………? 大変な思い……ですか?」
「ああ。この国は幸いにも人口が大幅に減ろうと、なんとか以前と変わらぬ自治権を保っているが、しかし世界を見れば、滅んで隣国に併合されてしまった小国の数は数知れない。決して、世の中が普通に回っているわけじゃない。少なくともきみが言うほどにはね。あの『大いなる悲鳴』で、世界が引っ繰り返ってしまったことは間違いがないさ」
いや、と医者は言って、自分の言葉を修正した。
「引っ繰り返ったのは、世界じゃなくて、地球か。地球だな」
「……みんな、怖くないんでしょうか?」
空々は、更に踏み入ったことを言う。ここから先は、受けた医者の対応次第では、口にすることなく帰るつもりだったのだが、彼は意を決した。ちなみに『意を決する』というのは、この少年にとってあまりよくあることではない。
「僕は怖いです。だって、それこそあれから半年以上経つのに、結局、あの『大いなる悲鳴』が『何なのか』は、『何だったのか』は、まったく解明されていないんですよ。少なくとも、世間に向けてアナウンスされていることは何もない。どころか、最近じゃあニュースでも、あれについて全然報じなくなってしまいました」
「ネット上ではまだ盛んに議論されているけれどね――まあそこでも『大いなる悲鳴』の正体について結論が出ていないのは確かだ。仮説は色々あるみたいだけれど……、どうにも牽強付会な感が強いね」
牽強付会。中学一年生相手に、難しい言葉を使ってくる。
もっとも家庭の事情で、語彙が年齢に較べて豊富な空々には、それはむしろわかりやすいほうに属する言葉だったが――しかし、自分以外にそんな言葉を、口語で使う人間に会うのは初めてだった。
医者は続ける。
「地球全土に響いたあの悲鳴が、どこから聞こえてきたのかも、どんな風に聞こえてきたのかも、まるっきりの不明だと言うのだから始末に負えないよね――対策の打ちようがないようにも思える。だからみんな、考えることを放棄してしまったのかな?」
「放棄していいことではないでしょう……」
「そうだね」
『大いなる悲鳴』。
あの日に起きた災害を示す名称は、二転三転したものの、結局はそんな、まるっきりそのまんまな言葉に落ち着いていた――わかりやすくて抵抗なく受け入れられる名称だ。しかし、その名称ほど、現象が明快だったわけではない。
結果は確かにとても明快だ。
人類の三分の一が、その悲鳴が原因で落命した――心臓が止まった。
脳の機能が停止した。
だが、わかっていることは本当にそれだけなのだ。それ以上は、どころか、それ以外は何もわかっていないと言っていい。生き残った三分の二と、死んでしまった三分の一に、なんの違いがあったのかもわかっていない――健康そのものだった全盛期のアスリートだろうと関係なく死に、その一方で『大いなる悲鳴』当時、痴話喧嘩で腹を刺され、緊急手術で開腹中だった男がすんなり生き残ったりもしている。その話には、手術を手がけていた主治医が死んだという笑えないオマケつきだ。
老若男女区別なく。
本当にランダムに人類は削られた。
その上、生き残った側の三分の二は、身体的には何のダメージも受けていない――ようだ。そのように観察されている。『大いなる悲鳴』以前と『大いなる悲鳴』以後で、何らかの肉体的な変化があったということもない。
これではまるであの現象が、精密に、人を三分の一だけ禍根なく殺すことを目的とした、そんな『攻撃』だったかのようではないか。
「……そう、そう、そこです。そして死んだのが人類だけだっていうことを、もっとみんな、不思議がるべきじゃあないですか。動物は一匹も死んでいない――というか、そもそも動物にはあの『大いなる悲鳴』は聞こえなかったらしいですし」
「そうだね。動物、魚、虫、微生物――いっそ植物も含めてみるか。とにかく、人間以外の生き物は、あの『大いなる悲鳴』では、何の被害も受けていない。いや、すべての生き物にとって天敵である人間の数が大胆に目減りしたのだから、むしろ恩恵をこうむったとも言えるね」
「…………」
空々は少し黙った。
医者のその言葉が先輩の冗談と重なって聞こえたからだ――だが、先輩の言葉が、周囲の『受け』を狙っての発言だったのと違って、この痩せぎすの医者の言葉は、ただ事実を事実のまま述べたという感じだった。
『目減り』という言葉を『目減り』という意味で使っている。
だからだろう。
違和感は覚えたものの、それでもう帰ろうという気にはならなかった。
「空々くん。どうやらきみは、あの『大いなる悲鳴』について一通りの知識を持っているようだけれど……、じゃあ、あの悲鳴が機械には一切録音されていないことは知っているかい?」
「あ、はい……知っています」
なにせ地球全土に響いた悲鳴なのだ。
日本では早朝でも、『大いなる悲鳴』が響いたそのとき、世界はあらゆる時間軸で動いていた――どこかで誰かが、何らかの録音機材を動かしてはいただろう。否、日本にしたって、テレビ局やラジオ局では、生番組を放映している最中だった。
人気キャスターや有名アナウンサーが、電池が切れたようにばたばた死んでいく様が、そのまま全国に中継されたではないか――もちろん、電波に乗ったそんな衝撃映像も、三分の一の視聴者には届かなかったわけだが。
しかし不思議なことに、その『大いなる悲鳴』は、言うならばその殺戮音声は、世界中のどんな機械にも録音されていなかったのである。デジタルアナログを問わず、一切、データ化されなかったのだ。
総じて言えば、人間ならば誰もが聞いたはずのあの悲鳴を――意識不明の重病人や、はたまた聴覚が生じているかどうかも怪しい発生したての胎児でさえも、人間ならば例外なく聞いたはずのあの悲鳴を――人間以外は、生物無生物を問わず、聞かなかったということなのである。
ならばあの『大いなる悲鳴』は、聴覚器官を通さず、直接脳に関与するような悲鳴、いや――脳どころか、心に訴えかけるような悲鳴だったと、そう表現するのが一番適切なのだろう。
「まあ言ってしまえば、人類がこぞって、同時に幻聴を聞いたというシンクロニシティだと解釈すべきなのかもしれないがね。そんな解釈をすれば、何かがわかったような気になれるかもしれない。実際問題、地球全土にくまなく響く程度の音量で悲鳴があったとすれば、そんなもの、世界中の建築物が崩壊する、物理的な破壊力を伴う音となるだろう――ふふふ。あれからたった半年で、世界が元通りとは言わないまでも、きみの言うところの通常モードでの試運転に入っているのは、あくまでも『人が死んだだけ』で、物理的な被害が何も出ていないからというのはあるかもしれないね」
「そうですね……」
その辺りが、これまでの戦争や災害との違いだ。
もちろん、運転手が死んだ自動車は暴走して事故を起こしたし、同じような理由で世界中のあちこちで火事やらが起きたりした。もっと甚大な被害も起きた。そんな二次災害ではいわゆる『物理的な被害』もあったのだが。
それでも人的被害に対して、物理的な被害はあまりにも少なかった。
「もっともネット上じゃあ『大いなる悲鳴』は間違いなく物理的な攻撃だったという説は、なかでも『宇宙からの超音波説』はなかなか根強いんだがね」
「宇宙人が攻めてきたって奴ですか……ありますね」
ここで空々は、この診療室の椅子に座ってから初めて、気を緩めた。
緊張していることに違いはないが、どうやら自分は少しリラックスしてきたようだ、と自覚した。
「荒唐無稽ですよね、よりにもよって宇宙人って……。まあ、『大いなる悲鳴』直後は、そんな仮説もそれなりに説得力を持って語られていたようですけれど……」
「そうだね。でも、宇宙人がその後地球に攻めてこないことを受けて、やがて弱体化していった。いや、みんな――忘れてしまった。空々くんに言わせれば、その説に限らず、『大いなる悲鳴』そのものを、みんな忘れつつあるんじゃないのかってことなんだよね」
「いえ、だから、忘れつつ……じゃなくて、受け入れつつ、です。忘れてはいないんだけど、自分の中で重要度が下がっていたり、抵抗がなくなっていたりするということです。つまり……」
空々は質問に答える。
「『あれ』を、なんていうか、歴史上の出来事として受け入れてしまいつつあるような――だからこそ、原因を疑問にも思わず、それを絡めた冗談を言ったりできるんじゃあないかって……そんな風に考えてしまいます。ほら、たとえ残虐な殺人事件であろうと、切り裂きジャックの事件なら、漫画のネタにしても誰も怒らないのと同じで」
「受け入れたら、駄目かい? あの『大いなる悲鳴』を認めたら駄目かい? 認めないということ、それは言いかたを換えれば、現実から目を逸らしているということじゃないのかな?」
「『わけがわからないもの』が、自分の世界にあるのって嫌じゃないですか? たとえば……」
言ってからたとえるものを探して、先ほど医者が見ていた卓上カレンダーを、空々は選んだ。
「それが『カレンダー』だってわかってるから、先生はそれを机の上に置いているんですよね? もしもそれが、『よくわからない』、正体不明の何をするための道具かも不明な謎の置物だったとすれば、先生はそんなものを机の上に置きますか?」
「うまいたとえだね。だけど的外れだ」
医者は一回褒めてから、しかし手厳しく否定した。
「たとえ話としては、あの『大いなる悲鳴』は、身体的な疾患に置き換えたほうが適切だろうね。たとえば空々くんが頭痛に苦しめられたとする――正体不明の頭痛だ。現代の医学では解明できない。これがきみの言う『わけがわからないもの』だとしよう。わけがわからないのに頭が痛いなんて、嫌だよね。だけど、それを受け入れなかったからと言って、痛みが消えるわけじゃあない」
「…………」
「むしろそういう場合、『これはそういうものなんだ』と受け入れてしまったほうがよっぽど楽になる――病気とうまく付き合って行く心持ちって感じかな。病人はよく、自分の病気をネタにして受けを取ったりするだろう? それと同じ、というたとえは、案外しっくりくる。あの『大いなる悲鳴』を受け入れてしまっている世の中の動きを簡単に分析するなら、そういうことじゃないのかい? つらい話は笑い話にしてしまうのが一番だし、わかるはずもないことをずっと思い悩むことで、人生が貧しくなっちゃあいけないだろう。一病息災という言葉もある。あれを教訓に、前を向いて生きていかなければ」
「……そうですね」
まったくもって、その通りだ。反論の余地がない――と言うより、具体的なたとえ話はともかくとして、似たようなことを、空々も実のところ、思ってはいた。彼はただ頑なに、ただひたすらに、今の『未来へ向けて動いてしまっている』世の中に嫌悪感を抱いていたわけではない。
だけど、空々はそういう意見を言って欲しかったのだ。誰かに。
だから、中学一年生である空々空にしてみればかなり深刻な覚悟をしてこの診療所を訪れたのだが、その覚悟に見合うだけのものは、ここまでの問診で十分に受け取れたと言えそうだ。
「空々くん」
医者は卓上カレンダーの隣に置いていた、カルテを手に取った。いや、カルテではない。空々が待合室で書いた問診書類だ。そこには空々の名前や住所が書いてある。
「空々空くん……独特な名前だね、とは、言われ飽きてるかな?」
「言われ慣れてます。むしろ今日は、今の今まで言われなかったことに驚いていました」
「親につけられた変な名前で思い悩み、通院してくる人もいるからね……その辺は気を遣うさ。もっとも、きみはどうやら、そうではなさそうだが」
「ええ。気に入ってます。簡単でいいですし、一発で憶えてもらえますし」
「ふむ。中学一年生――私立山石中学校一年二組。野球部……さっきはなんだか謙遜するようなことを言っていたが、山石中学校の野球部は、かなりレベルが高いんじゃなかったっけ? 入部試験に合格するのは至難の業だと聞いたことがある」
「いや、僕は元々スポーツ推薦枠だったんで――」
応えつつ、この言い方が却って嫌味みたいになってしまわないかが気になった。聞いたことがある、というのが、誰から聞いたことがあるのか、にもよるのだが、もしも推測通り、この医者が野球に造詣の深い人間だったなら。
「――それに、今年はあんまり勝ち進めないかもしれません。と言うのも、実を言いますと、その『大いなる悲鳴』で、主力だった二年生が何人か亡くなっているので――」
主力以外も死んではいるが、おそらくはたまたまだろうが、山石中学校の野球部では、なぜか主力に偏って被害が出ていたのだった。
「ほう。それがあって、きみは先輩の発言がより許せなかったのかな? 彼にとっても尊敬すべき先輩が死んでいるというのに、どうしてそんなことが言えるのか、と?」
医者が目敏く、空々の話の前後を繋げる。
「しかしその主力の二年生達が、性格のいい人物だったとは限らないしねえ。才能と人格は一致しない、むしろ反比例する傾向にある。ひょっとすると、死んでざまあみろと思われるような人達だったのかも。だとすると、やっぱりその先輩を一方的には責められない」
ぴくり、と空々はその言葉に反応した。反応したといっても、肩が少し震えた程度のことだったが、しかし医者は、それも見逃さなかったようだった。
見逃さなかっただけで、何も言わなかったが。ここでは。
むしろ医者は自分のほうから、
「ご両親は健在かい?」
と、話題を転じてきた。
「あの『大いなる悲鳴』のとき、ご家族は被害に遭ったかな? ちなみに私は、両親と姉と妹を失った。兄が生きていて、昔別れた妻と娘は、どうやら無事だったと聞くな。だから身内が全滅というわけではないのだが……確率が本当に三分の一だったとするならば、随分とアンラッキーだった」
「…………」
そうですか、と空々は言った。それしか言いようがない。
ご愁傷様、と言うには、もちろん空々の身内も死んでいるからだ。
「僕は、両親と兄弟は無事です。弟が二人いるんですけど……二人とも、なんともありませんでした。ただ、仲のよかった従兄弟の家が、全員、亡くなりました」
医者が先に、それもかなり開けっぴろげに言ってくれたので、空々も言うことができた。ひょっとすると、そういう診察のテクニックだったのかもしれない――言いやすくなったのではなく、言わざるを得ない状況に追い込まれただけだったのかも。
だとしても、これを言うことで空々の気が楽になったことも事実だ。
「仲のいい従兄弟、ね。きみは両親や弟とは、仲良しかな?」
「ええ……そりゃ喧嘩をすることもありますけれど、でも、基本的には……少なくとも僕のほうからは、仲がいいつもりですけれど……」
「普通、きみのような年齢の子供がこういう診療所を訪れるときは、お父さんかお母さん、どちらかが付き添いそうなものだけれど」
医者は言った。
「今更の質問だけれど空々くん、ここには、ご両親の勧めで来たわけではないのかい?」
「ええ……いや、親には何も言ってません。僕の判断で来ました」
厳密に言うと自分一人での判断というわけではないが、まあ最終的には一人で決めたことだ。だから空々はそう言って、医者もそれ以上、あるいは何か察するところはあったかもしれないが、深く追及しようとはしなかった。
「ご両親の職業は? 共働きかな?」
「父は大学で働いています」
大学教授、という肩書きを口頭で説明すると、なんだか親の職業を自慢しているような気分になるので、空々は父親の職業を紹介するとき、そんな風に濁すことにしている。言いかたひとつで随分柔らかくなるものだ。
「母は専業主婦です――これまでパートに出たこともないそうです。あ、でも、家事全般を完璧にこなす人です。お手伝いさんを雇う必要がないくらいに」
「はは。普通の家庭では、なかなかお手伝いさんなんて雇わないんだけどね――」
空々家の裕福さを揶揄するようなそんな医者の呟きは独り言だったようで、声は小さく、空々までは届かなかった。
「どうして共働きだって思ったんですか?」
「いやいや、両親が共に働きに出ているから、空々くんは気を遣って彼らに何も言わず、一人で来たのかと思ったんだよ――まったくの的外れだったけどね。なかなかシャーロック・ホームズのようにはいかない」
「……心配をかけたくなかったのは事実です」
「そうかい。心配をかけたくない、ね――なんだか、既に誰かに心配をかけてしまったことを後悔しているような物言いだけど? 友達に相談でもして、心配されてしまったかな?」
「…………」
空々は、これに関しては答えなかった。
医者も深くは追及せずに、「じゃあ」と、次の質問へと移行した。そこから更に十分ほど、問診は続いた――中には空々からすれば、『どうしてそんなことを聞くのかわからない』という、彼が抱えている悩みとは一見関係なさそうな質問も含まれていたが(たとえば『随分と固い喋り方をするけれど、本を読むのが好きなのかい?』とか、そんな趣味嗜好に関する質問もあった)、診察の上では必要なのだろうと思って、なるべく正直に答えた。
なるべくは。
3
「結論から言うとだね、空々くん」
問診を終えて、痩せぎすの医者は空々のほうを向いて、言った。口調は気楽そうなものだった――それは多分、不真面目なのでも不謹慎なのでもなく、中学生の子供を相手にする上で、あえて深刻な物言いにならないようにしているのだろうと空々は判断した。
子供扱いされるのが好きなわけでは、もちろんなかったが、それを口に出して言うほど子供でもない。少なくとも精神的にはそのつもりだった――だが。
続いた医者の言葉は、まさしく空々を『子供扱い』するものだった。
「きみがその先輩に強い嫌悪感をおぼえたのは、他ならぬきみ自身が、その先輩と同じようなことを考えていたからだよ。きみは我慢して言わなかったのに、その先輩は我慢せずに言った。それがきみは、羨ましかったんだろう」
「…………」
羨ましかった?
心の中でふつふつと煮立つこの、なんともいえない自分の気持ちは、そんな簡単なひと言で片付いてしまうのか、と、空々は息を呑んだ。息を呑んだので、何も返答することはできず、また何も反応することはできなかった――対して医者は、同じような口調で続ける。
「他ならぬきみ自身が、きっと誰よりも『大いなる悲鳴』について、なんとも思っていないんだ――どれほど言葉を尽くそうとも、それ以前の問題なんだ。人口が三分の一削られたことについて、きみはまったくなんとも感じていない。生き残ったことへの喜びも死んでしまった者への悼みも、きみの中には何もない。そしてそのことについて、きみは強い罪悪感を覚えている。自分の感覚が、感覚のなさが、現代社会では倫理的に許されないものであることを、きみはわかっている」
「…………」
「だからきみは苦しんでいる――理論上悲しむべきなのに、事実上悲しめない自分に、苦しんでいる。社会的道徳と自分の感覚との真っ向からの食い違いに、対立に、思い悩んできた。なのに、その先輩は、そして世間は、今頃になって苦しみもせず、そんな悩みを抱くこともなく、実に健全に、ありのまま『大いなる悲鳴』を受け入れてしまった――きみはそれが嫌なんだよ。きみが今心の中で抱いている気持ちをたったひと言で説明するならば、『なんで自分だけが、こんな理不尽に悩まなければならないのだ』ということなんだ」
何か反論するべきなのか、と空々は悩んだ。
だが、そんなことで悩む時点で、きっと反論すべきではないのだろうという結論がすぐに出る。ここには意地を張りに来たんじゃないという結論。
そして――この状況下、そんなことを正面から言われているこの状況下で、そんな冷静な結論を出せてしまうことがまた同時に、医者の言い分の正しさを証明しているとも言えた。
「仲良しだったという従兄弟が、一家全員死んだと聞いたときも、あるいは自分の知り合いの三分の一が死んだという現実を突きつけられたときも、空々くんの心はそれを普通に受け止めてしまったんだろう。現実として、認識してしまったのだろう。今日は晴れとか、雨とか、そんな情報のひとつとして。だが、心ではない理性では、『こういうときは悲しまなければならない』、『こういうときはつらく思わなければならない』ということがわかっていた――人としてのありかたをきみは教えられているし、本で読んで知っていた。だからこそ、その食い違いに苦しんだ。絶え間なく苦しんだ。だからきみが今よりももっとつらかったのは、『大いなる悲鳴』直後のことだったのかもしれないね。知り合いが死んだことを素直に悲しめる、真っ直ぐ悲嘆に暮れることのできる人達が、きみは羨ましかったんじゃないのかな。世間と同じように、悲しんだり泣いたりできない自分が酷い人間にしか思えなくて、苦しんだんじゃないのかな。後ろめたくてしょうがなかったんじゃないのかな」
「……はい」
空々はやっと、頷いた。反応らしい反応ができた。
当時のことを思い出すと、いまだに胸が苦しくなる。
悲鳴が聞こえた直後、世界が終わるんじゃないかという混乱の中、周囲の全員が――大人も子供も、泣き、嘆き、取り乱す中、なんとか彼らと同じように、悲しんでいる振りをする自分。
従兄弟の死を悲しんでいる振り。
友達の死に涙している振り。
あるいは全人類を襲った未曾有の危機に恐怖する振り――そんな醜悪な、己の罪深い行為を思い出すと身が千切れそうだ。
そしてだからこそ、だ。
だからこそ――あのとき、悲しんだり恐れたりしていたはずのみんなが、あっという間に日常を取り戻し、『自分と同じように』、何も感じずに、笑ったり面白がったりしているのが信じられないのだ。
何の振りもせず、それを表に出しているのが信じられないのだ。
信じられず。
許せないのだった。
「ずるい、とすら――きみは思っているのかもしれないね。だからこそ、その先輩を含む世間に、そうも厳しい目を向けてしまう。そんな些細な冗談が許せず、責めるようなことを思ってしまう。だが、それは結局、逆恨みのようなものなんだよ、空々くん。きみの人間性や倫理的苦悩について、世間は何の責任もないのだから。きみが苦しんでいるからと言って、世間までそれに付き合って苦しまなきゃいけない理由はないんだぜ」
「……そうですね」
それは、空々少年にとっては、指摘されてみると『その通り』としか思えなくなるようなロジックだった。半年前に持っていた嫌悪感は、『大いなる悲鳴』の被害に対して『何も思えない』自分に対してのものだったが、今の嫌悪感は世間に向けたものだ――だからこそ、どうして自分がそんなに腹が立つのかわからず、ここに来たのだったが。
とても明確な『その通り』を得た気分だった。
そうか。
結局悪いのは自分だったのか。
自分の人間性に問題があったのか。
そう思えば、空々の気持ちはすごく楽になった。ここしばらく背負っていた荷物が、ふっと消えてなくなったようだった。
「問診した上での結論をまとめよう――もちろんあれだけの、ほんの一時間にも満たない会話だけできみのすべてをわかったつもりなんて私にはないから、これはひとつの指針としてだけ聞いてくれ。空々くんが『違う』と思えば、それは『違う』のかもしれない。その程度のことだ」
「はい。聞かせてください」
「きみを苦しめているものの正体は、『どうでもいい』という気持ちだ――そんな投げやりな気持ちだ。きみは周囲の誰よりも、何もかもを受け入れている。はは、受け入れている、という表現を選べば、まるでそれが褒められたことのようだけれど、きみ自身が強い嫌悪を覚えていたように、いいこととばかりはいえないね」
「……はい」
「仲のよかった従兄弟が死んだことについて言うならば、きみ達の間にあったであろう友情が偽りだったわけでは決してない。だがきみにとってその従兄弟は、生きていても死んでいても、どちらでも同じなのだ。生きていても仲良しだし、死んでしまっても仲良しなのさ。生きていれば遊べるし、死んだら遊べない。だけど友達であることには違いない――そんな感覚だ」
それはあまりに酷い言い草ではあったが――医者としてはあるまじき言い方だったかもしれないが、空々はそんなところには無反応だった。いや、無反応である自分を、強く恥じはした。
ここでは怒らなくては、激昂しなくてはならないのではないかと思った――従兄弟についてそんな言いかたを許すべきではないと思った。だが、思っただけで行動には移さなかった。怒ってないし、激昂してなかったからだ。
普段ならばそんな『振り』を――そんな演技をしたかもしれない。
けれど今は、そういう自分を、看破されている途中なのだった。真っ最中なのだった。
「現実に対する適応性が、きみは異様に高い少年なのだという言い方もできるたとえ今この瞬間、何の前触れもなく二度目の『大いなる悲鳴』があったとして、目の前にいる私が死んだとしても、きみはまず、それを受け入れて、混乱することなく、私の蘇生を試みるだろう」
自分が死んでも、それさえ受け入れてしまうかもしれないね、と医者は付け加えた。ことのついでのような付け加えだったが、本来はことのついでに言うような話ではない。
自分が死ぬこと。命がなくなること。
それはこの十三歳の少年にとって、いまいちうまくイメージできないことではあった。二十三歳の自分よりも、ずっとイメージできない。いやそもそも、種類種別にかかわらず、空々には己の未来をうまく思い描くことができない――小学生の頃に出された作文の課題で、ありふれたテーマである『将来の夢』には、随分と苦戦させられたものだ。
そのときは苦しまぎれに『テレビに出てくるような変身ヒーロー』と書いたのだったか。
子供らしいいい夢だと思っていたのだが、そのとき空々は既に小学五年生だったので、クラス中から失笑を浴びた。スーツアクターにでもなりたいのかと笑われた。
まあそういうものなのだろうと、その失笑も甘んじて受けたが。
甘んじて受ける能力が突出している――なんて言われても、嬉しくもなんともないが、指摘を受けて振り返ってみれば、なるほど、自分は昔から、そんな人間だった。
「きみのその人間的特性がどういう原因で生じているのかはまず措くとして――しかし問題は、これはあくまでもきみにとっての問題という意味だが、問題はそれ自体ではないのだ。きみがその『どうでもいい』という感覚を、酷く、そして深く恥じているという点こそが問題なのだ」
「…………」
「すべてが『どうでもいい』きみにとって唯一受け入れられないのが、他ならぬ自分自身であると言えばいいのだろう。きみは従兄弟の死を受け入れられる自分を恥じている。知人の死を受け入れられる自分を恥じている。『大いなる悲鳴』さえも受け入れられる自分を恥じている。野球部の先輩のことも、本当は受け入れてしまっている――許せないと言うだけで、実際にはそれほど怒っちゃいない。でなきゃあんな風に、先輩をフォローしながら喋ったりしないさ」
医者は言う。診断の結果と言うには、やはり口調はフランクだったが。
「ただ、それを受け入れるのが『いけないことだ』という倫理観がきみの中には強くある――だからこそ、必要以上にきみは『大いなる悲鳴』や、先輩に嫌悪感を覚えるのさ。本当は受け入れてしまっているから、受け入れていない振りをしなくてはならず、その演技がバレることを恐れて、必要以上に振る舞いが倫理的になる。大きな演技になる。そういうことだ」
空々は頷く。その言葉を自身の中に浸透させていく。それが今の自分にとって、一番やるべきことだという確信があった。
「目上の先輩の悪口を言うべきではないという倫理観と、そんな冗談を許すべきではないという倫理観のせめぎあいが、先ほどのきみの、奥歯にものが挟まったような物言いだったのだ。不安恐怖の一形態という表現で説明することも可能だろうね。きみは『いつか、自分が何かとんでもないことを仕出かすんじゃないか』という不安に、恐怖に支配されている。『こんな自分は危険なんじゃないのか』という気持ちだ――いつか酷い犯罪を犯してしまったり、あるいは、親しい誰かを傷つけてしまうんじゃないかと恐れている。どうやら周囲と感性が異なっているらしい自分が、わからないままに『常識のない振る舞い』をしてしまうんじゃないかと思っている――違うかい?」
「……違いません。そうです」
肯定したものの、しかし、はっきりとそんな形の不安が空々の内心にあったわけではない。だが、漠然としたそんな『気持ち』はあった。それが今、医者によって言語化されることで、自分の中で整理されていくのだった。
気付きが連続していて。
それは空々少年にとって快感だった。
実のところ彼にとっては『大いなる悲鳴』よりもよっぽど『わけのわからないもの』であった空々空という自分自身が分析され、解きほぐされていくことが、気持ちよくないわけがなかった。
ふと、連想的に思い出したことがあった。
空々は、いわゆる『矯正された左利き』である――最近はそれが子供の人格形成にあまり好影響を与えないという理由で避けられることもあるようだが、空々の両親は知ってか知らずか、左利きだった空々の利き手を矯正した。
ゆえに空々は鉛筆と箸とを右手で使う。
しかしボールを投げたりハサミを使ったりするところまでは矯正されていないので、それらの行為は左手で行うし、また、音楽の授業でリコーダーを使うときは右手を上に持ってくる。どころか、チョークで黒板に文字を書くときや筆で絵を描くときも、左手を使う。
だから全体的に見れば『左利き』のままであると言っていい。ただ、日常動作で一番よく使う『鉛筆と箸』を右手で使う以上、果たして自分が『左利き』を名乗っていいものなのかどうかを、ずっと疑問に思っていた。
『利き手は?』と聞かれたときに、当然空々は『左』と答えざるを得ないわけだが、しかしそのとき、嘘をついているような気持ちになってしまう。だからと言って、『鉛筆と箸は右手を使うけれど、あとは左利きなんだ』と言い連ねるのも、なんだか言い訳がましい。
それにそんなことを言うと、『ふうん、じゃあ両利きなんだ』と勝手に納得されてしまったりもする――だがそれも違うのだ。誤解なのだ。訓練を受けていない以上、左手では鉛筆は使えないし、箸も持てない。
つまり空々にとって『利き手』とは、『わけのわからないもの』だった。みんながどうして自身をもって自分の利き手を断言できるのか、不思議でしょうがなくて――その話題になると気分が悪くなっていたくらいだった。嘘をつきたくないのに真実を言えないのは酷いストレスだった。
だがある日、たまたま何かの本で、『クロスドミナンス』という言葉を知った。空々のような『矯正された左利き』には、そんな名前があるのだと知った――そのときの感動は、たとえ鉛筆が何本あっても、書ききれたものではないだろう。
自分に名前があること。自分に呼び方があること。
その感動を、空々は忘れたことがない――そして今もまた、同じような感動を味わっていた。
わかりやすく説明されて。
そうか、自分はそういうものなのか、と認識できた。
「常時、風習の違う外国で暮らしているような気持ちなのかもね、空々くんは――自分の価値観が他人とズレていることを経験上よく知っているから、過剰に合わせようと頑張ってしまう。郷に入っては郷に従えと言うが、きみは地元民のはずなのに、従うことに四苦八苦しているというわけだ。常識がある振りをし、人間らしい振りをする――ゆえにその基準から外れている人達を見ることに耐えられない。それはきみにとって『基準が崩れる』ということでもあるからね」
「基準……つまり、人間らしさがわからなくなってしまうということですか。一たす一が二になると思っているところに、急に一たす一が七だと主張する人が現れてしまったような――」
「算数じゃなくて社会で説明したほうが適切かな。六四五年に大化の改新が行われたという『年号』を、実感して理解することは難しいが、とりあえず丸暗記することはできる。だからきみは『六四五年には大化の改新があった』と見てきたように主張することができた――だがそこに、『大化の改新は去年起こった』と、もっともらしく語る人間が現れたら、混乱するだろう? 混乱どころか――酷く怒るかもしれないね。自分自身を否定された気持ちになるかもしれない」
「と、言うより……、『間違いを指摘された気持ち』になるかもしれません。それも酷く恥ずかしい間違いを。月極駐車場を、『ゲッキョク』っていう会社の駐車場だと思っていた、みたいな――その恥ずかしさ、気まずさを挽回したくて、僕は過剰に強く主張してしまうのかも――」
「ふむ。そういうたとえ話がすらっと出てくるようであれば、その先にある結論に辿り着くことも容易だろう。つまり、きみがどれだけ『怒り』、本で読むような倫理観にしたがって『嫌悪感』を覚えたところで――世の中はそんな風には回っていない。月極駐車場は、月ごとに料金を払う駐車場でしかないのだ」
「僕が思うような倫理観は……、というか、道徳の授業で習うような何かは、現実の世の中には『ない』ということですか?」
「ある。しかし流動的だ。またいつ起こるともしれない『大いなる悲鳴』に恐怖しながら、その『大いなる悲鳴』を笑い話にできたり、死者を悼みつつ、その死者を冗談のタネにすることもできる。それが一般的な人間性だ。両立が可能なんだよ」
「両立が可能……? 悲しみながら笑えるってことですか? 悲しんでいる振りでも、笑っている振りでもなく?」
「同時にやっているという意味ではない、人という生き物の二面性について、私は今語っているんだよ。この国ではいつからか日常的な風景だが、まあ国会議事堂で政治家の失言があったとしよう。例によってそれを取り上げてのメディア・リンチが始まる。ニュースでそれを見て、国民は眉を顰めるわけだが、だが眉を顰めている国民だって大抵は、同じくらい『けしからん』ことを、友達との会話の中では言っていたりする。公の場で言うべきではない、なんて注釈は、本来成り立たないはずだ。それじゃあ陰口なら叩いていいと言うことになるものね」
「……それはつまり、僕が先輩の発言に対して腹を立てていたのと同じことですか?」
「それは全然違うかな。普通はそこに倫理的な矛盾は生じない。きみのように苦しんだりしない――『自分もやっているのに他人を怒る』のと『自分はやっていないから他人を怒る』のは全然違う。『やりたくてもやっていない』場合は、特にだ。普通は自分のことを棚に上げて、政治家の失言それ自体に怒りを覚えるのだが、きみの場合は、『自分が「そうならない」ことに腐心しているのに、なぜ彼はああもあっさりそうなってしまえるのか』という点に嫉妬を覚えてしまうんだ」
「…………」
「いや、今のは純粋にたとえ話であり、きみが実際に政治家に嫉妬しているわけじゃあない。きみの嫉妬の対象は、もっと手広い。それに『棚に上げて』と私は今言ったけれど、それは責めるような意味合いで言ったのではないことを理解して欲しい。自分を棚に上げることは、人が生きていく上で絶対に必要な能力だ。きみはもっと強くそれを持つべきだよ、空々くん。一応は自己を肯定する能力と言い換えておくが……きみに欠けているものはそれだ。きみは現実を肯定的に、ありのままに受け入れられる割に、自己を否定的に見過ぎていると思うよ。割に、ではなく、ゆえに、なのだが」
医者はそこで一息置く。少し考えるようにしてから、
「きみは『自分は本当はここにいちゃ駄目な人間だ』とでも思っているのかもしれないね。だから逆に、人間としてのルールを重視する。人としてあるべきルールを、破りたくないと思っている。ルール違反、規律違反を犯して、集団から追放されることを恐れている。正体がバレたら追い出されるとでも思っているのかな? ん?」
と続けた。
「……正体、なんてものが、僕にあるわけじゃないですけれど」
空々は言う。正体などというと、本当に変身ヒーローのようだと、頭のどこかで思いながら。
「ただきみは、だからこそ、周りの人間のほうがよっぽどルール違反を犯しながら生きているという矛盾に直面しているんだ。きみがまず知るべきは、スポーツやお勉強と違って、いわゆる『人間としてのルール』なんて、かなりフレキシブルだということだよ。さっき言ったこととは逆になるが、国会議事堂で失言をすればそりゃあ怒られるけれど、仲間内での会話にまでそのルールを適応すれば、人間は迂闊に喋ることもできなくなるだろう?」
「そうですね……」
『さっき言ったことと逆』のことをあっさり言えるのも、やはり人間という生き物の二面性ということなのだろうか、と空々は思った。
「ひとつも法律を破らずに生きている人間なんていない。悪いことをせずに、誰にも迷惑をかけずに生きている人間なんていない。失敗もするし、諍いは起きる。きみが、どれほど倫理的であろうとしても、それは不可能なんだ。その夢は叶わないんだ。そんな生き方を続けていれば、いずれきみの振る舞いは破綻を来すから、今のうちに手を打っておくほうがいいのは確かだろうね――だがね、空々くん」
医者はそこで眼鏡を外した。その動作によって空々は、「ああこの人、眼鏡をかけていたんだ」と知った。正面から向き合いながら、どうして今まで気付かなかったのかを、疑問に思うことはなかったが。
「きみが苦しんでいるというのならば、その苦しみが緩和される程度には治療すべきだとは思う症状だが、しかし個人的にはそれは、そう悪い性格ではないと思うんだよ。世の中があの『大いなる悲鳴』からこのスピードで立ち直ったのは、世の中の『上』のほうに、その手の人達が多かったからだと私は思っている。あの悲劇の中、悲しみにくれることなく、世界を立ち直らせるためにいち早く動いた人達が確かにいたのだろう。心を乱すことなく、いつも通りに動いた人達が確かにいたのだろう。最初にも言ったけれど、そうでなければ、こうもあっさり、あの悲劇から人類が立ち直れるはずがない。二十億人以上が死んだのに、こうもあっさり、日常に回帰できるはずがない。非人間的に、システマティックに世界の救済へと動いた人達が――きっといたんだ。いい人のように落ち込まなかった人達が。そんな英雄のような人達が」
「英雄……ですか」
「ヒーローと呼んだほうが、きみのような年頃の男の子にはわかりやすいかな? 彼らは取り立てて心を鬼にしたわけではなく、元々鬼の心を持っていたのだと私は考えている。ひょっとすると、きみもそんな風に、いつか世界を救えるのかもしれない。なれるのかもしれないよ、きみは、ヒーローに」
「……はは。そりゃあいい」
冗談だと解釈し、空々は笑った。笑う振りをした。
「なれるものならなりたいですね、ヒーローに」
4
結局は『継続的な通院の必要はなし』ということで、空々空は診療所を後にした――もしも今後、また考え過ぎて苦しくなってしまったときにはいつでも来てくれればいいという言葉を、いくつかのアドバイスと一緒に、処方箋代わりに受け取って。
「まああまり深刻にならないことだ、空々くん――きみのような悩みを抱えている人は、意外といるんだよ。世間の価値観と自分の価値観が合わないこと自体はよくあることだ――だからきみも落としどころというか、うまく妥協点を見つけていかなきゃね」
そんな言葉通り、彼の悩みはありがちと言えばありがちだったかもしれない。わざわざ病院に来なくても解決した悩みだったのかもしれない――解決はしなくても、ただ一生悩み続ければ、それで済む悩みだったのかもしれない。
思春期ゆえの潔癖さの現れと言えばその通りだっただろうし、なまじ本で読んだ程度の、一知半解の知識を持っていたがゆえに、気付かなくてもいいのに気付いてしまった自己矛盾、陥ってしまった単純な自己矛盾だと言えただろう。
ひと言で言えば『考え過ぎ』。
それで片がつく問題だったのかもしれない――だから少年を『通院の必要はなし』とした診断結果は至極真っ当、至極妥当なものだったと思える。
だが本当のところ、彼を診療したその痩せぎすの医者は――飢皿木診療所所長飢皿木鰻博士は、そんな風にはまったく思ってはいなかったのだった。
『かもしれない』なんて、彼は微塵も思っていなかったのだった。
医者としてするべき診断をし、いつも通り患者に対して真摯に向きあったのは確かだったが、彼は肝心なところで嘘をついた。いや、嘘ではないのかもしれない。少なくとも彼の中にある、医療に従事する者としてのぎりぎりのラインは死守したつもりだ。
それにしたって、いつでも来てくれればいいなんて、よく言ったものである。
だって少なくともこの先展開がどう転ぼうとも。
あの少年はもう二度と、ここに通院することなんてできなくなるのだから。
「もしもし、私です。飢皿木です」
空々が帰った後に、飢皿木博士はある番号へと電話をかけた。完全に暗号化された電話で、それは本来、町の診療所に備え付けられるような電話回線ではないのだが、一見するとただのデザインの悪い固定電話にしか見えない。
「ええ。はい。有資格者を見つけたので連絡さし上げました。はい、かなり有望かと。私も長いですが、あんな対象は初めて見ます。断言は致しませんけれど、あるいはあれはこの世でたった一人の才能かもしれません。これ以上は私の責任では申し上げられませんので、あとの判断はそちらにお任せします――ええと、住所は」
5
飢皿木博士がどこかに電話をかけているとき、これは純然たる偶然ではあったが、空々空もまた電話をかけていた。中学校に入るときに親に買ってもらった携帯電話で、診療所からの帰り道、夜道を歩きながら彼は通話していた。
話し相手は、飢皿木診療所を紹介してくれた友達である。
それもただの友達ではない。
彼女、花屋瀟は小学生時代、少年野球団での先輩だったわけだし、またポジション争いをした、言ってしまえばライバルだったのだから――ひと言で友人とは片付けにくい。定義しづらい相手だった。もっとも彼女のほうは昔から臆面もなく、空々のことを『親友』とか『心の友』とか、歳の差も性差もわだかまりも感じさせない風に呼んでいたが。
「どうだった? 飢皿木先生は何か言ってた?」
「うん。まあ……色々言ってもらえて、かなり気が楽にはなったよ」
診断の様子を詳細に話すのはさすがに憚られたので、空々は言葉を濁すように、曖昧な言い方をした。
しかし礼を言うことは忘れない。こういうときはちゃんとお礼を言わなくてはならないことを、空々はよく知っている。親しき仲にも礼儀あり。そんな諺のようなルールにも従う自分を、まさに指摘されたところだが、それでも、ここはお礼を言う場面だろう。
世話になったらお礼を言う。
当たり前のルールだ。
「ありがとう、花屋。病院に行くほどのことじゃないと思っていたけれど、相談してみてすっきりしたよ」
「そうか。そりゃよかった。お前思い詰め過ぎるとこがあるから、心配だったんだよねー。私立の学校なんて行くから、緊張しちゃったんじゃない? 厳しそうだもんね、あそこの野球部」
花屋は空々からすれば、ややズレたことを言う。それは仕方のないことなのだろう、彼女に空々は、具体的なことを何も話していない――しかし花屋は、話していて、空々の態度がおかしいことを察したのだ。
恐らく彼女は『野球部で何かうまくいってないらしい』くらいにしか考えていないと思うが――空々には昔からずっと抱えていた、そして『大いなる悲鳴』をきっかけに顕在化した悩みがあったなどとはきっと露ほども思わないままに、花屋は飢皿木診療所を勧めたのだろうが、しかしその効果は絶大だった。
さすがは『親友』。
彼女に心配をかけてしまったらしいことは痛恨の極みだったが、空々は素直に感心した。
そう言えば小学生の頃から彼女は勘の鋭い先輩だった、と空々は思い出す――ポジション争いも結局、負けてしまったし。それがただの年功序列の結果ではないことを、一番理解していたのは空々である。
だから彼女が公立中学校に進学したときに、どうやら野球をやめてしまったらしいと聞いたときは、なんだか拍子抜けしたものだった――当然のように、自分が一年遅れで中学校に上がればまた、彼女と、今度は対戦相手として、どこかで戦うことになるのだと思っていたから。
そのとき、空々は、『花屋先輩にとって、野球はそんなに簡単にやめられる程度の価値しかなかったのか』と、不快感さえ持ったものだったけれど――あれもひょっとすると、自分だって、きっとやめるときはあっさり野球をやめられるだろうことに対する隠蔽工作、過剰な怒りの演技だったのかもしれないと、今なら思える。
その今というのは、本当に、今の今だが。
……しかしそれを差し引いても、実際に自分が中学生になってみると、中学野球の問題点も色々と見えてきて、花屋が決して、野球を『簡単にやめた』わけではなかったのだろうと、そんなことを思った自分を反省したものだった。
ともあれ、少年野球団でチームメイトだったときも通っている小学校は別だったし、今現在、私立中学に通っている空々は彼女とは現実的な接点がまるでなくなっているのだが、しかし不思議と付き合いは続いている。
『親友』とか『心の友』なんて言葉はこそばゆいし、かつて競い合っていたときの気持ちを思い出すと色々心中複雑ではあるけれど、まあやっぱり友達なんだろうな、と空々は思った。
「でも、そもそもなんで花屋は、あの先生を知っていたの? 結構ずばずばものを言うというか……医者としては型破りな感じの人だったけれど」
花屋のほうが年上だけれど、空々はタメ口で話す。年上、目上の人物に対しては礼儀正しい、少なくともそうあろうと努めている空々ではあるが、花屋のほうがその『余所余所しさ』を嫌ったのだ。以来、そこに少しだけいけないことをしているような背徳感を覚えつつも、空々はなるべく対等な感じで花屋とは喋るようにしている。
型破りな感じ。
医者としては、と言ったものの、平均的な医者像をはっきり知っているわけではない空々なので、ひょっとするとあれが正しい診療なのかもしれないという気持ちもないでもないけれど、しかしやっぱり、とてもそうは思えない。
「ああ……えーっとね、飢皿木先生。あの先生はさ、去年、うちの中学校に非常勤みたいな感じで雇われていたんだよ。いわゆる、スクールカウンセラーって奴で」
「スクールカウンセラー……」
「日本語で言えば学校心理士だよ」
花屋は自分の知識を自慢するようにそう言ったが、これは間違いである。スクールカウンセラーと学校心理士は決して同義ではない。ただ、空々のほうもその辺りに関しては知識がなかったので、そうなのか、と、それを普通に日本語訳として納得してしまった。まあ会話が止まるほどの齟齬ではない。
「ほら、『大いなる悲鳴』の直後の話。ああいう事件が子供達の心に大きな傷を残すからって、派遣されてきたんだ。私も相談に乗ってもらってたんだけど……まあ、そのとき私、憑き物が落ちたみたいに、楽になれたからさ」
「ふうん……」
空々と同じような気持ちを、あの『すっきり』を、花屋も味わったということだろうか。
ならば彼女がああも強く、飢皿木診療所を勧めた理由もわかろうと言うものだった。
「私だけじゃなく、みんなもあの人に『救われた』みたいな感じでさ――変な先生だけど、いい先生って感じ。あの人がスクールカウンセラーとして来てくれて、本当によかったと思ってるんだ。今はもう、学校には来ていないんだけれど、私は今でも、大した悩みがなくっても、診療所を訪ねたりするもんね。先生とお喋りしたくって」
「……それは迷惑じゃないのかな」
空々は言ってから、『これが過剰に倫理的であろうとしているってことなのかもしれない』と思った。自覚した。飢皿木博士は『その後どうするかはともかく、まず「自覚すること」が大切だよ』と言っていたが――
「ま、まあ迷惑かもしれないけど、それくらい恩義に感じてるってことなの。ことなの」
花屋は空々の言葉を真に受けて、やや焦った風に言う。
「実際お前も、気が楽になったわけでしょう?」
「うん、まあ……ありがとう」
そうしなければならないような気がして、空々はもう一度、改めて礼を言った。
「花屋のお陰で、明日からも野球が続けられそうだよ」
「そ。そりゃよかった。お前には頑張って欲しいからね」
「僕にばかり頑張らすなよ。お前も頑張れよ。花屋。野球はやめても、頑張ることは他にも一杯あるだろ」
「はは、そりゃそうだ」
んじゃまた電話するわ、と言って、花屋のほうから電話を切った。
やや急ぎ気味な風も感じたし、ひょっとすると彼女は何かをやっている最中だったのかもしれない。もとより帰り道のこと、空々にしてもそんなに長電話をするつもりはなかったけれど、もう少し話していたい気分だったので、ちょっと肩透かしを食らったような気持ちになった。
花屋瀟。
あえて訊いたことはないので、空々は知らない――彼女の周りでは、一体どんな『三分の一』が削られたのかを知らない。丁度『大いなる悲鳴』があったのは、彼女が中学生で、自分が小学生だった頃――つまり一番距離があった頃だ。
空々にしても、別に花屋に、従兄弟の一家が死んだことを告げてはいない。『大いなる悲鳴』では、地球上に存在するすべての人類が平等に被害を受けたのだ――そんな『不幸自慢』は何の意味もなさない。
少なくとも空々はそう思っていた。
が、しかし、意味はなさないとわかった上でも、あえてそんな話をするべきだったのだろうか? そんな話を、みんなはしていたのだろうか? 確かなことは、空々を今回、悩みから救ってくれたのは飢皿木博士であると同時に、空々にかの医者を紹介してくれた花屋だったわけだが――花屋が飢皿木に救われたとき、その件に関して空々は何も関わっていないということだった。
だから何というような話ではなく。
それについて空々が、何かを感じるというようなことも、やはりない――何かを感じなければならないとは思うのだけれど、しかしこういう場合、何をどう感じればいいのかが、空々にはわからなかった。
とりあえず家に帰って、その答が書いてありそうな本でも読んでみようかと思ったり、そういうのはもうやめたほうがいいのかと思ったりした――診療所は自宅からは離れた場所にあったので、これからバスに乗らなければならない。
考えるのは後回しにして、バスの時間に間に合うよう走ろうか――と、思いつつ、携帯電話を折り畳んでポケットに仕舞おうとしたとき、
「ちょっと……、そこのきみ」
と、空々は後ろから声をかけられた。
振り向いてみると、そこには剣道部がいた。
いや、剣道部かどうかはわからない。空々がそう思ったというだけだ。あるいは学校の部活動ではなく、剣道の道場に通っているのかもしれない。とにかく、剣道少女だった。紺の袴に白い上着という至極平均的な剣道着を着て、長い竹刀袋を肩に置き、竹刀の先には道着袋を提げている。
いかにもな剣道少女。
そんな格好も手伝っているのだろうが、アスファルトの地面に立っているのが不自然にさえ見える、妙に古風な雰囲気のある少女だった。少女と言っても、しかし、花屋よりも更に年上の、高校生くらいの女の子である――中学生になったばかりの空々にしてみれば、女子高生なんて、大人と大して変わらない。
だからいきなり声をかけられて、少し怯えた。
絡まれたのかと思ったのだ――歩きながらしていた花屋との通話が耳障りだったのだろうか? そんなに大声で喋っていたつもりはないのだが……。
しかし違った。
剣道少女は、そんなつもりで声をかけてきたわけではなかったらしい。
「あの……ちょっと、ごめんなんだけど……、お願いがあるんだよ。きみにお願いがあるんだよ。よかったら、その携帯電話を、貸してもらえないかな?」
見た目とは裏腹の、ある意味期待外れの、ゆるい、どこか螺子の緩んだ感じの、ゆっくりと、ゆったりとした口調で、剣道少女は空々の持つ携帯電話を指さした。ポケットに仕舞う寸前だった携帯電話を。
「急いで電話しなければならないところがあるんだけれど、この辺りには公衆電話が見当たらなくってさ……一分で済ませるから、お願い」
「は、はあ……わかりました。どうぞ」
空々は言われるがままに、携帯電話を剣道少女に手渡す。竹刀を持っていないほうの手で、彼女はそれを受け取った。初対面の人間に携帯電話を渡すことに、あるいはそうでなくとも携帯電話を他人に貸すことに、空々としてはまるっきり抵抗を覚えないわけではなかったけれど、なんだか彼女が当然のように、さながらコンビニの場所でも訊くように頼んできたので、つい、応じてしまったのだ。今時彼女は携帯電話を持っていないのだろうか、まあなんだか古風な雰囲気だしな、と考えつつではあるが。
「ん。ありがとう」
と言うが早いか、剣道少女は十一桁の番号を押し、空々の携帯電話を耳元に当てる。
「もしもし、私。あ、はい。うん……ケンドウだよ。目的地に到着したんだ……はい、はい、はい。うん。わかってるよ、そんなしつこく言わなくても。そうする。はい、この電話は借り物だよ。借りた。ちゃんと借りた。問題ないよ……私一人で大丈夫だから。実行中だから……遅れることはないもん。それじゃ、失礼するね」
一分で済ませるという宣言を律儀に守ろうとしたのだろうか、口調こそゆったりとしたままだったが、少女はそんな風に手早く通話を終えて、
「はい」
と、空々に、用の済んだ携帯電話を返して来た。
が、空々はそのとき、まったく別のことを考えていた。
ケンドウ? 今通話中に、ケンドウと名乗ったか?
剣道? 名前? ニックネーム?
あるいは聞き違えかもしれない。こんないかにもな剣道少女の名前が、そのままケンドウなんてことがあるはずもない。と、空々は思ったけれど、しかしそんな考えを引っ繰り返すように、
「申し遅れたね。私は剣藤犬个という、その辺の奴だよ」
と名乗ってきた。
携帯電話を受け取ろうと、ぼんやりと差し出した空々の手を、そのままつかみ、握手をする。空々が差し出したのは利き手である左手だったので、互いに左手で握手をすることになってしまったが。
剣道少女――剣藤は、そう言えば通話も左手でしていたが、しかしそれは左利きだからと言うよりは、右手で竹刀袋を抱えているからという理由なのかもしれない。
いずれにしても、礼儀上、相手に対する敵対行為にあたるという左手での握手は、間に携帯電話を挟んでいたとしても、空々にとっては耐え難いほどの苦痛だった。
が、これからはその苦痛に耐えていこう、これを苦痛だと感じないように頑張ろうと決意をしたところなので、いやもちろんそうでなくともそんなことはしなかっただろうが、ここで相手の手を振り払ったりはしなかった。
「本当に……助かった……んだと、思うよ」
なぜか剣藤の礼の言い方は曖昧だった。なぜ自分が助かったのかどうかがわからないのだろうと空々は不思議に思ったが、その答が知りたいと思うほどに不思議でもなかった。まあそういうこともあるのだろう。連絡自体はマストのそれだったとしても、あまり気の進まない連絡だったのかもしれないと、適当に解釈した。
「是非お礼をさせて欲しいな……えっと、きみの名前は?」
「名前? 空々空です」
「そらからくう」
言われた言葉をただ繰り返したという風に、剣藤は空々のフルネームを口にする――絶対に漢字をイメージできていないだろうなあと思った。『空から喰う』という、文章だと思われたかもしれない。なんだその怖い文章は、と思われたかもしれない。
だから続けて、彼は漢字を説明しようとした――が、それに先んじて、
「ありがとうだね、そらからくん」
と、剣藤に口を塞がれたのでそれはできなかった。
口を塞がれたと言うのはこの場合詩的な表現であり、もう少し直接的に、いっそ味気なく言うならば、空々は剣藤に接吻をされた――剣藤は、まだ第二次性徴を迎えていない空々よりも十センチくらい背が高かったので、背中を丸め、屈んでするような形だった。
「…………?」
と。
一瞬、何が起こったのか、空々には理解できない。
何をされたのかよくわからない。
現実を受け入れる能力が高いというのが飢皿木博士の診断であり、空々もそれに大いに納得したばかりだが、しかしその診断も、今この瞬間だけは怪しく思えた――今、この瞬間、この現実に、何が起こっているのか、彼にはまったく理解不能だったのだから。
恐ろしく現実感のない出来事だった。
いや、現実は理解できている。
見知らぬ、初対面の、剣道着を着た年上の女子の唇と、自分の唇が触れている――それが現実である。
これがキスだと彼は知っている。
ただしもちろん初めてだった。
「れろっ……るろっ」
と、しかし相手の剣藤のほうは、それが慣れた仕事とでも言うように、表情ひとつ変えずにそのまま、空々と唇を合わせ続け、微動だにできない彼をたっぷり味わっているかのようだった。
飢皿木診療所から、バス停へと向かう一般道。
住宅街のど真ん中の出来事ではあったが――街灯がスポットライトのように彼ら二人を照らしてはいたが、しかし目撃者はいなかった。
「…………!」
ようやく空々の認識が出来事に追いついたとき、それをばっちり見計らったかのように、剣藤は彼の唇を解放した。そして空々が次のリアクションを取る前に素早く、
「お礼終わり。」
と短く言った。そう宣言した。
そのあまりにもはっきりとした言い切りに、空々は混乱する――混乱するというか、それこそ、自分の中の感覚と、世界のありようとの違いに、矛盾に直面する。
え? こういうものなのか?
携帯電話を貸してあげた程度のことで、世間の女子は、お返しにキスをしてくれるものなのか? キスとはもっと、大事なものではなかったのか? 男子にとってももちろんだが、女子にとっては。それともそんなのはただの子供っぽい幻想で、これが一般的なバランスの取れた物々交換なのだろうか――こんなことで何か、文句を言おうとした自分のほうが間違っているのだろうか? 古めかしいのだろうか?
むしろここは、『結構なものをいただきました』みたいなことを言うのが正解なのだろうか?
上半身を起こし、拘束するように空々の左手を握っていた左手を離して、平然としている剣藤を見ているとそんな風にも思えてくる――ただし、もしもこの場面に目撃者がいたとするのならば、空々少年がそんな矛盾に苦しんでいるとは、あまり思わなかっただろう。
その内面はともかくとして、その内心はともかくとして。
今の彼は単なる、年上の女子にどぎまぎしている少年のようにしか見えなかっただろう――本人としてはできるだけクールに振る舞っているつもりなのかもしれなかったが、しかし顔を真っ赤にして二の句を継げずにいる空々は、うぶな十三歳の男の子にしか見えなかった。
「それじゃ……また縁があったらどこかで会おうね。……そうだ。これを訊いておかなきゃ」
と、その場に空々を残して去っていこうとした風の、空々に比してあまりにも悠然とした態度の剣藤は、いかにもついでに思い出したように、そんな空々に質問してきた。
「半年前の『大いなる悲鳴』。聞いたことがある?」
「……いや、そりゃあ。聞いたことのない人はいないと思いますけど」
空々は答える。噛まずに答えられたのは奇跡だったかもしれない。
もっとも現存する人類にとって、それはあまりにも簡単で、答の決まっている質問だったので、噛む噛まないはともかく正解が明確過ぎる質問であり、間違えようがなかった。
とは言え、あくまでその質問は前置きであって、剣藤が本当に訊きたかったのは、その先だったらしい。
「どんな風に聞こえた?」
「どんな風って」
なぜ自分がこんな会話をしているのか、疑問に思う。初めてのキスのあとにするような会話なのだろうか? キスのあとは悲鳴の会話をする決まりでもあるのだろうか?
わからないままに、空々少年は答えた。
正直に答えた。
「すごく怒っているように聞こえましたけれど」
「……そう」
剣藤は頷いた。
その動作からでは、質問の意図はわからなかった。
「多くの人は、ここで『悲しそうな悲鳴』と答えるのだけどね」
「はあ……」
そうなのか。知らなかった。しかし、言われてみればそんな話があった気もするし、また、その通りだと思う。
字面からしてそうでなければおかしい。
悲しく鳴くから悲鳴なのだ――『嬉しい悲鳴』などという言葉は、そもそもレトリックとしてしか成り立たない。それはあくまで『歓声』の言い換えでしかないのだ。
まして悲鳴が、怒声の言い換えになるはずもない。
またうっかり間違えてしまったのか。
しかし半年前の二十三秒間、どこからともなく聞こえてきたあの悲鳴がそんな風に聞こえたというのは、空々にとっては嘘偽りのない、誇張のかけらも混じっていない感想だった。
あの日、早朝、学校に行く準備をしているとき――競争相手だった花屋がいなくなり、そして最上級生となったことで彼にとってはやや歯ごたえがなくなった少年野球団の朝練に行く準備をしている最中、何の前触れもなく襲ってきたあの二十三秒――
空々はずっと、説教をされているような気分で、その大音量に耐えていた。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいと――二十三秒間に二十三回、口の中で謝った。その謝罪は頭の中にがんがん響く『悲鳴』にかき消され、自身にはまったく聞こえなかったけれど。
今から思えば、自分はあのとき何に謝っていたのだろう。
怒られたから謝っただけなのだろうか。怒られたら謝る、『そういうものだ』と思って――
「け、剣藤さんには」
相手の名前を呼ぶのがどうしてか気恥ずかしく、一瞬、口ごもってしまったが、それをなんとか取り繕って、空々は続けた。
「どんな風に聞こえたんですか? あの悲鳴は」
「さあ。どんな風にと言われても、私は聞いてないから……」
「え?」
聞いていない? 聞いていないと言ったか?
人類の誰もが経験した――あの『大いなる悲鳴』を?
「それは、どういう――」
「きっと私は出来損ないだから聞こえなかったんだよ。地球の悲鳴って奴が」
「地球の……?」
「ま、そういう話は、またいずれ」
そう言って、換言すればこの場でこれ以上話すことも話す気もないという風に、剣藤は空々に背を向け、そのまま一度も振り返ることなく、バス停とは逆方向へと歩いていった。
とは言え、別に彼女は全速力でその場から駆け出したわけではないので、その気になれば追いつけただろうが――そして追いつけば、彼女の言葉の意味を問いただすこともできたのかもしれないが、しかし空々はそうはしなかった。
できたとしても問いただすところまでで、彼女に説明する気がないのならば、どうせそれ以上の進展は望めないわけだし――大体、問いただすまでもなく、あんなのはただの虚言に決まっているだろう。
あの『大いなる悲鳴』を聞いていない人間などいるわけがないのだから。
ちょっと変わったことを言ってみたかっただけとか、人と違う主張をしてみたかっただけとか、およそそんなところなのかもしれない――そういう人物は、たまにいる。
たまに、と言うか、思い出してみれば『大いなる悲鳴』直後、テレビなんかではよく見かけた。本人が聞いていないと主張すれば、それを否定する手段はないのだから(悪魔の証明というにはあまりにお粗末だが)、注目を浴びたい人間にとってはあの頃、そんなお手軽で簡単な方法はなかっただろう――もっともそんな『非現実的』な主張は、あっという間に淘汰されていったのだが。
人類がこんな大変なときに嘘までついて目立ちたいのかと、空々はそんなテレビを見ては憤慨していた――その気持ちくらいは、嫉妬や羨望の結果ではなかったと信じたいものだ。もちろん空々の中に、目立ちたがりの虫がいないとは言えないが……。
あるいは、ショックで記憶を失っているということならば、ありうるのかもしれない。寝ている人間さえも飛び起きるようなあの悲鳴を、聞かないことは絶対に不可能だったにしても、身内がその悲鳴を聞いて絶命したという現実を『受け止める』ことができず――『大いなる悲鳴』前後の記憶を失ったという人は、どうやらいるらしい。
そういう人間は、決してテレビには登場していなかったが。
もしも剣藤がそういう人間だったとするのなら――だからこそ、『どんな悲鳴だったか』を知りたがっていて、初対面の(しかし直前にキスをした相手である)空々相手であることも構わず、脈絡もなくそんなことを訊いてきたのだとしても不思議はない。
ならば問いただして、問い詰めても無意味だ。
むしろそういう行為は無意味どころか無神経でもあろう。
無論、そういう考え、そういう論理的思考に基づいて、空々少年は剣道少女を追わなかったと説明するのは容易ではあるのだが――ただしかし、去って行く剣藤を、空々は何も言えずに唖然と見送ったと表現するほうが、現実の風景には即しているかもしれない。
結局彼は赤面したまま、足の裏からアスファルトに根っこでも生やしたかのように、少女が去った後も、その場からしばらくは動くことができなかったのだから。
6
実のところチャンスはあった。
空々空という十三歳の、この時点ではまだ未来のある少年が、道を踏み外さないチャンスは大いにあった。友人に勧められるがままに飢皿木診療所を訪れてしまった時点で、もう相当に手遅れではあったのだが、それでもまだ、その時点ではすべてのチャンスを失ってはいなかった。だが彼はそのチャンスを逃してしまったのだ。
彼は決して、ただ運命に巻き込まれた、運命の奔流に抗うすべがなかった哀れな少年だというわけではない――確かに『「世界よ、そういう風にあれ」という大いなる意思』の前では、人間一人に、まして子供一人に示される選択肢など数が限られているが、しかし少なくとも空々少年には、成功したかどうかはともかく、運命に抗うための方法があった。
たとえば剣道少女、剣藤犬个がかけていた電話先。携帯電話の履歴を見れば、そこに示された番号はわかっただろう――彼女の言動を怪しんで、何かあると思って、その番号について調べてみることはできただろう。
もちろん調べても、中学一年生の調査能力では――否、一般的に知られているどんな調査能力を行使したところで何ひとつつかめはしなかっただろうが、それでも少なくとも、『何ひとつつかめない』という事実までは辿り着けたはずだ。
ならばその事実を足がかりに、その日のうちに大学教授である父親に相談したり、学校の友達と情報を共有することはできたかもしれない――そこまで話が展開していれば、いわゆる『運命の流れ』は変えられていたかもしれない。
もちろん低い可能性ではあったが、それでも可能性は可能性。
チャンスはチャンスだった。
幸運な人間というのは、そんなチャンスを絶対に逃さない人間のことを言う。チャンスの種は、意外とありふれていて――それを逃すか逃さないかなのだ。空々空にも、そういう『幸運』側の人間になれるチャンスはあったのである。
『あのときは本当に危ないところだった。気付いてラッキーだった』
そんな風にこの日の出会いを回想できたかも、彼はしれなかったのだ。
だが結局、空々は何の動きも見せなかった。
ラッキーのための行動を起こさなかった。
剣藤犬个という、あからさまに不自然な少女に対し、いくら急いでいたとしても道行く人間に携帯電話を借り、そのお礼だと言ってキスをしてくるような不自然な存在に対し、彼は何もしなかったのである。
道端で立ち尽くした後、はっと我に返り、そそくさとバス停へと向かって、タイミングよく丁度やってきたバスに乗り、自宅の最寄りのバス停で降りて、家に帰り、何事もなかったようにご飯を食べ、宿題をして、弟達と遊んでやって、風呂に入り、そして眠った。その頃にはもうさすがに赤面はしていなかった。
特記事項は何もなかった。
つまり現実を。
そういうものだと受け入れた。
ああいう人もいるし、こういうこともあると思った。
認めてしまった。
だから酷なことを言うようだが、この先彼の身に舞い降りるすさまじい災難は、彼自身の責任でもあるのだ。
現実をそういうものだと受け入れたから――そういう現実になったのだ。
彼は現実に認印を押したのだった。
もしも物語というものにはすべからく教訓が含まれるべきであるという考え方が真理であるのならば、空々空という少年を主役としたこの物語の教訓は、既にはっきりしている。
即ちこうだ。
『気をつけよう 甘い言葉と 暗い道』。
7
翌日空々空は学校を休んだ。
かつてのライバル、花屋に対して『明日からも野球が続けられそうだよ』みたいな大見得を切った割には不甲斐ない限りだが、しかし体調を崩してしまっては仕方がない。
入部したての大事な時期に部活を休むことが望ましくないことは確かだが、しかしこういうときに、こういうときだからこそ無理をすれば後々尾を引いてしまって、取り戻すのに時間がかかることを、空々は経験としてよく知っている――もっとも、仮に無理をしようとしていても無理はできなかっただろう。
四十度に至る発熱というのは、気力や気合でどうにかなるような症状ではない――意識は朦朧として、起きて歩くことさえ難しいような状態だった。
インフルエンザじゃないかと母親は疑ったが、時期的にそれはないだろうと父親が否定した。とりあえず空々は幼い弟達から隔離され、朝食は自分の部屋で摂った。
ほとんど食べられなかったけれど。
「…………」
ぼんやりした頭脳で、『なんだかこれじゃあ、初めてのキスに照れて、発熱してしまったかのようだ』なんてことを考えたりした。だとすればうぶ過ぎる、と思った。
大体その件については、昨夕の段階ではどぎまぎしていたのは確かだったが、夜、布団に入る頃に改めて考えてみると、なんだか酷い陵辱を受けたような気分になっていたはずだ。
乙女のように夢を持っていたわけでもないし、幻想を抱いていたつもりもなかったけれど、しかしだからと言って診療所からの帰り道に、見知らぬ人間に『奪われる』つもりはなかったわけで、そう考えるとあの『あっけなさ』は、空々にしてみればがっかりしてしまうような体験だった。
だから照れやうぶな心で発熱したというよりは、内に燃える怒りで発熱したというほうが、空々にしてみれば腑に落ちる仮説である――むろん、だからと言って何かリアクションを起こすつもりはなかったが。
『そういう人間もいる』ことを、彼は既に受け入れてはいた――しかし、受け入れていたからこそ、逆に不快に思わなければならないという義務感をもって、つまり飢皿木博士の言葉を借りれば『過剰な演技』で発熱したという、迂遠で拡大解釈な答はこの場合、存在しない。
もっと現実的な答がある。
とは言え、『昨日のキスが原因なんじゃあ』と考えた、空々の病身における発想そのものは、それほどその答から外れてはいなかった――百点満点とは言わずとも、そこそこ及第点の答ではあった。
あったが。
それが何だと言うのか。
父親が職場に向かい、弟達が登校班の待ち合わせ場所へとランドセルを持って出かけた後、母親が部屋にやってきて、病院に行くかどうか、空々に訊ねた。
四十度も熱があるのだ、行ったほうがいいのはわかっていたが、しかし(飢血木診療所を訪ねたことは親には秘密だったが)昨日の今日で、また医者にかかるのは、なんとなく嫌だった。
病院が好きな子供なんてそもそもいない。
昨日だって、かなりの覚悟で意を決して(花屋の強硬な勧めもあったが)行ったのである――二日連続というのはいかにも気が重かった。
「どうせ解熱剤くらいしか出してもらえないからいいよ……、子供の僕じゃ、タミフルも処方してもらえないだろうしね。それよりも今は落ち着いてゆっくり寝ていたいな」
空々は『様子を見る』という名目を立てて、母親にはそう言った。母親としてはやはり心配なのだろう、病院に行って欲しかったみたいだが、最終的には『ゆっくり寝ていたい』という空々の意見を汲んでくれた。
「野球ばっかりやってるから、体調を崩すのよ」
「はは、何それ。全然論理的じゃないよ」
「まあ、論理的だなんて、お父さんみたいなことを言って」
「運動をしてたら、むしろ健康になるでしょ。それにスポーツ推薦で入学したんだから、野球ばっかりするのが当たり前だよ」
「それはそうね。でも無理しないで」
「うん。わかった。無理はしない」
一見会話が成立しているようではあったが、しかしこんなのは、母親の言うことに反射的に、機械的に応じているだけで、朦朧としている空々はこのとき、ほとんど考えずに喋っている。自分が何を話しているかも、もっと言えば誰と話しているかさえ曖昧だった。
「じゃあお母さんは一階にいるから。何かあったら呼んでね。お大事にね」
と言われたから、
「うん、わかった」
と答えただけで、彼は何もわかっていない。
わかっていないが、それが空々にとって、母親との最後の会話になった。
父親と二人の弟と、最後に交わした会話は憶えていない。
8
体調を崩したときには大抵悪夢を見るものだが、このときの空々も例外ではなかった――汗をびっしょりかいて目を覚ましたときには、彼自身はどんな夢を見たかは忘れてしまっていたけれど、それは大体、こんな感じの夢だった。
夢の中、空々空は老人で、公園で本を読んでいた。緑に囲まれた中、空はどこまでも青く、太陽は限りなく明るかった。ひょっとすると目前には湖があって、その澄んだ水に見入っていたかもしれない。
これ以上なく健康な風景だったが、肝心の老人が不健康だった。
病気というわけではなく、慢性的に思わしくなかった。
たとえば本を読んではいたものの、目はかすんで、文字が判別しづらく、同じ行を何度も読んでしまっていた――そしてふと、苦労して読んでいるその本の、読んでいる文字に、どこからともなく一匹の虫が飛来し、止まった。そのせいでその文字が読めなくなる。
一文字くらい読めなくとも文意は繋がりそうなものだが、しかしなぜか、その文字が隠されたせいで本そのものの内容がまったくわからなくなってしまった――老人は本を揺すり、なんとか虫を飛ばそうとする。
しかし頑なに、節足の爪先が紙片に食い込んでいるかのように、虫はページから飛び立たない――醜悪なデザインの虫だった。間違いなく不快害虫に属すであろう外見である。そんな虫に読書の邪魔をされたことが、老人は許せなかった。
だから老人はバタンと本を閉じた。
虫は潰れた。
潰された。
その潰された虫こそが、実は空々だった――そこで飛び起きたのである。
実に脈絡のない悪夢で、たとえ憶えていたとしてもそこから何らかの示唆を見出すことは難しかっただろうし、それに、空々が目を覚ましたこの時刻にはもう『すべてが終わっていた』のだから、予知夢扱いしようにももう手遅れだ。
別にその手遅れを確認するわけではなかったが、空々はなんとなく、壁にかかった時計を見る――示されている時刻は、七時半。七時半?
一瞬、それを午前七時半だと思いかけた空々だったが(まずい! 遅刻だ! と思った)、それにしては窓の向こうが真っ暗であることがおかしい。いくら分厚い遮光カーテンと言っても、そこまで完全に光を遮る力はないはずだ。
つまり今は午後七時半である。
記憶を探ってみると、最後にある意識は午前九時の少し前くらいだったから、およそ十一時間ほど、空々は眠っていたらしい。昼ご飯のときに声をかけると母親が言っていたような気もするけれど、たぶんぐっすり眠っていたので、起こさなかったのだろう。
朝ご飯も食べられなかったし、起きたばかりだが、空々にはかなりの空腹感があった。お腹ぺこぺこと言ってよかった。
「…………?」
空腹感? ぺこぺこ? というところで、空々は、自分の体調が随分と楽になっていることに気付く。確かに全身隈なく汗をびっしょりかいていて、寝巻きを通して軽くベッドが湿っているくらいだったが、しかし何を食べる気にもならなかった朝のしんどさを思えば驚くほど快復していた。
一日寝たくらいで熱が治まるとは、やはりインフルエンザではなかったらしい……だが、ただの風邪だったとしても、ここまで劇的に快復するのは、不自然にも思えた。
まあとは言え、治ってしまったものは仕方ない――というか、治ってくれたのなら万々歳だ。理屈なんてどうでもいいじゃないか。大事を取って、明日の部活は参加しないにしても、明後日からは通常通りに野球ができそうだな、などと、空々は自己診断を下した。
とりあえず何か食べよう、と、彼はベッドから降りる。
空々家の夕飯は大体、七時半くらいに摂る習慣になっている――中学校に入ってから、空々は部活で帰りが遅くなることが多くなったので、その夕飯に参加できなくなっていたのを心苦しく思っていたのだが(心苦しいと、思わなければならないと思っていたのだが)、どうやら不幸中の幸いというほどではないにせよ、体調を崩した恩恵で、久し振りに家族団欒の晩ご飯という図が成立しそうだった。
そう思った。
だが、思っただけで成立はしなかった――家族団欒は成立しなかった、彼はどうしようもなく、間に合わなかったのだから。
快復したばかりの、まだ覚束ない足取りで階段を降り、向かったダイニングの先で空々少年を待っていたのは――既に食事を、いつもより早く終えている両親と二人の弟だったのだから。
などという腑抜けた叙述トリックはない。
普通に死んでいた。父親母親弟弟、四人とも。
殺されて死んでいた。
そして食卓の上には剣道着の少女が、ぐっしょりと血にまみれた大太刀を両手に、土足で立っていた――それは悪夢よりも、よっぽど悪夢的な現実だった。
「やあ、そらからくん」
少女――剣藤犬个はにこりともせずに言った。
「また会えたね」
9
剣道少女という表現は、どうやら厳密には正確ではなかったようだ――ダイニングの片隅、ドアを開けてすぐのところに、竹刀袋が落ちているが(よく見れば名前欄があって、そこに『剣藤』という刺繍が入っている。後から思えばそんな刺繍、悪い冗談のようだ)、しかしその袋に包まれていたのは竹刀ではなく真剣だったらしい。
食卓の上で――鞘を袴の帯に差した剣藤が両手を添えるようにして持っているのは、なんというか、少女が構えるにはあまりに無骨な長さの、そして無骨な分厚さの大太刀。
漫画やアニメで見る、薄っぺらい日本刀とはまったく違う。
切れ味よりも破壊力を感じさせる凶器だった。
竹刀を使う剣道では、攻撃することを『斬る』ではなく『打つ』というが――しかし、その怪しく光る大太刀にこそ、むしろその言いかたは相応しいように思われた。
打ち。撃ち。討ち。
叩き壊す――刀。
むろん、空々は直感的にそう思っただけであって、彼女の持つその大太刀の銘が、まさしくそのまんま『破壊丸』であることなど知るよしもないし、また同時に、だからと言って『破壊丸』に切れ味がないということでもなかった。
それは家族を見ればよくわかる。
家族の亡骸――残骸を見ればよくわかる。
一番マシな、という形容もどうかとは思うが、死体の中では一番原形を保っているのは、大学教授である空々の父親だった――これについては漫画で読んだことがあるような有様だった。
脳天から右と左に、身体を真っ二つに割られている――その姿勢のままで、椅子に座っている。まるで自分が斬られたことに気付いていないようにも見える無表情、よく言えば生前通りの穏やかな顔で死んでいるのが救いなのかもしれないが、しかしどれほど穏やかな顔をしていようとも、人間が真っ二つに割れていればそれはシュール以外のどんな物体でもなかった。ごっそりと内臓がこぼれ出ていて、確かにその切断面は漫画のように奇麗ではあったけれど、その切り口から漂う異臭は漫画では表現しようもないものでもあった。
それに較べれば母親は、原形こそ保ってはいなかったが、異臭を放つというほどではなかった。生前、香水選びに凝っていた母にとって、それは嬉しいニュースなのかもしれなかった(少年の空々からすれば、その香水の香りもいい加減異臭ではあったのだが)。母の場合は縦ではなく横向きに切断されていた――それも頭部のみを、執拗にである。サンドイッチやサラダ用に、エッグカッターを使って横向きにスライスした卵を想像してもらえればわかりやすいだろう。母の身体は、死体は、やはり無造作に椅子に腰掛けたままで、その脇に、スライスされた頭が散らばっているという形だ。スライスされた頭部のうちの一枚は、別に狙ったわけではなくたまたまなのだろうが、食卓の上に載っている。食卓の上、それも大皿の上に。しかしどうしたって食材のようには見えなかった。ぶよぶよした脳は、ハンバーグにかかった白いソースのようではあったが。
二人の弟に関しては、これはもうわからないというしかない。わからないというのは、どっちがどっちだかわからないという意味だ――どういう風に、あるいはどういう手順で斬られたのか、それさえもさっぱりわからない。細かく細く、微塵に切り刻まれた二人はさすがに椅子の上で、姿勢を保ち続けることはできなかったようで、すべての残骸が床に落ちている。これも食べ物でたとえるならば、デザートとして用意したゼリーやプリンを、高所から落としたような感じだった。潰れているというわけではないのだが、それでも『ぐちゃっ』という効果音がよく似合う光景ではあった。耳を澄ませばそんな音が聞こえてくるようだった。絨毯に残るであろう染みは、墨汁よりも落とすのが難しいだろう。異臭よりも血の臭いのほうが強い。あんな小さな身体にあれほどの血液が詰まっていたということが、空々には信じられなかった。
などと、四人の死に様をここまで長々と描写してみたが、しかし空々が第一印象で得た四字熟語のほうが、よっぽどこのダイニングの状況を、雄弁に語るだろう。
地獄絵図。
そういうことだった。
「よかった。間に合って」
食卓の上で剣藤が言う――ドアを開けたまま、呆然と立ち尽くす空々のほうを見て、血振るいをした刀を鞘に納めてから、そう言った。長い刀を納めるのに、多少苦労したように見えた。だが、そんなことが果たしてあるのだろうか? これほどの惨状を作り出した張本人が、しかし刀の扱いに不得手であるなど……。
「ん?」
と、剣藤は、そんな空々の視線に気付いたようで、
「ああ。抜くのは得意なんだけど仕舞うのは苦手なんだよ……」
と言い訳するように言った。
ここでは照れ笑いのようなものを浮かべながら――照れ笑い? 照れ?
この状況で、彼女は一体何を照れているのだろう――こんな血まみれの状況で――と、そこでまた、空々は気付く。こんな血まみれの状況下において食卓に立つ少女の剣道着は、何の怪我もしていないことはまあ当然としても、しかし一滴の返り血も浴びていないということに。
得意なのは――抜くことだけではない。
とでも、言うのだろうか。
「間に合ってよかった。ぎりぎりだったかも」
剣藤は、これで二度目となる『間に合った』という台詞を言った――何が間に合ったと言うのだろうか? 間に合うも間に合わないも、ここまで手遅れな状況もそうないように思われるのに……。
空々は、間に合わなかったはずなのに。
「何が間に合ったんですか? 剣藤さん」
と、だから空々は、思った通りのことを訊いた。訊いてしまった。訊いてから、『しまった』と思った。訊いてしまった。しかし口をついて出た発言は取り消せない。
剣藤は、その問いに一瞬、きょとんとしたような顔をしたものの、
「間に合ったというのは、きみが起きて来る前に任務を終えることができたという意味だよ。そらからくん」
と、律儀に説明した。
そしてひらりと食卓から飛び降りる――着地点は、こんな酷い有様の部屋の中でも奇跡的に汚れていない、血だまりの隙間のような場所だった。たとえ靴の裏であろうと、とにかく血に濡れるのが嫌らしい。そんなのを好む人間などそうはいないだろうが。
まるでけんけんぱ、でもするようにそんな奇跡的な間隙を縫って、剣藤は空々のほうへと近付いて来る。と言ってももとより、たった三歩くらいの距離なのだが、しかし空々は一気に距離を詰めて来られたような気分になった。
「大丈夫?」
と、そして剣藤は、意外にも空々を心配するようなことを言ってきた――両手で空々の顔を包むように持って、親指を口腔内に突っ込み、やや力ずくで口を開けさせる。何のつもりかと思ったが(そのまま顎を外されるのではないかと思ったが)、どうやら喉の腫れを確認しているようだった。
続いて手のひらを額に当てる。
これは考えずともわかった――熱を測っているのだ。
「うん……平熱かな。たまに薬が身体に合わなくて重症化する人もいるから、不安がなかったわけではないんだけれど……そらからくんの場合は、大丈夫だったらしい。明日になれば全快するだろうね」
「……薬?」
「ん? ああ、そうなんだ。説明しなくちゃわからないよね、ごめんごめん。昨夕会ったときに、実はきみには一服盛らせてもらっていて……、私はそれを高熱剤と呼んでいるんだけど……本当はもっと、片仮名の長い名前がある。これもごめん、憶えてない。気になるんなら、後で訊いておいて」
後で訊いておいて? 誰に、と思うより先に、一体いつ、『一服盛られた』のかのほうが気になった――剣藤とは一緒に食事をしたわけでも、お茶をしたわけでもないのに、そんな隙がいつあった?
いや、あった。確かにあった。隙はあった、それも大きな隙が。
携帯電話を貸したお礼という名目でされた、あのキスのときだ――あのときに口移しで、薬を飲まされていたのだ。ロマンチックの欠片もない、あっけないも何も――そもそもあれは剣藤にとっては単純で事務的な作業の一環に過ぎなかったと言うことだ。
いや、でもどうして、と空々は思う。
思った気持ちが、今度は違う形で伝わったようで、
「ああ、私は大丈夫。あらかじめ解毒剤を飲んでおいたから」
と、そんなことを言ってきた。
誰が自分に、高熱剤などという得体の知れないものを口移しで飲ませてきた相手の体調のことを心配するものか――まして相手は、自分の家族を虐殺した下手人だというのに。
下手人?
これだけ上手に殺されてしまえば、その言い方はあまりに適切でないような気もするけれど。
「じゃなくて……」
ここでこういうことを訊くのはそれほど不自然ではないはずだと、一度心の中で確認してから、間近にある剣藤の顔に向けて空々は訊く。その気になれば鼻の頭に噛みつけそうな距離でもある。
「じゃなくて、あなたはどうして、どういう理由で、僕にそんな薬を――」
「え? ああ、うん。それか」
自分が心配されていたわけではないと知ってショックでも受けたのか、剣藤は空々の額に当てっぱなしだった手を、空々から離した。
「別にきみに危害を加えるつもりはなかったよ……ただ、一日ほど眠っていて欲しかったんだよ。一日、大人しくしておいて欲しかった。安心して、症状は十五時間くらいで治まるものだし、後遺症は残らないはずだから。きみに危害を加えるつもりはなかった」
わざわざ繰り返したその台詞には、一応、それなりの説得力はあった――事実彼女は、もう刀を鞘に納めている。もっとも、抜くのは得意だとも言っていたので、そんな言葉で、空々はまったく安心することはできなかった。
「大人しくって……どうして?」
「どうして、どうしてって……、さっきから質問ばっかりだね、きみ。甘えられても困るな……、少しは自分で考えなよ」
剣藤はやや拗ねたような言い方をしたものの、「それはね」と続けて説明してくれた。してくれた、などと、まるで恩着せがましいかのような表現ではあるが、しかしその内容は恩やらなにやらとはまるっきり無関係な話だった。
「ほら。やっぱり見せたくないじゃない、子供には家族が殺されるところとか。トラウマになっちゃうかもしれないからね。言ったよね? 間に合ってよかったって」
「…………」
空々がここで黙ったのは、まるで家族の死体を見せることならばトラウマにはならないとでも言いたげな剣藤の口振りや、彼女の中ではどうやら家族を殺すことは、イコールで空々に危害を加えることにはならないらしいという事実に絶句したからではない。
いや、そこに思い至れば、当然彼でも絶句はするだろうが、しかし、ここで彼が思い至ったのは、まるっきり別のことだった。『どうして僕の家族を、この少女は切り刻んだのか』よりも先に、思い至ったことがあった――もっともこの場合、その疑問よりも先に到達してしまう何かが彼にはあるのだという恐るべき事実が、そのままその答でもあるのだが、それはさておき。
彼が思ったのは、もしもあのときのキスが、剣藤が空々に一服盛るための芝居だったとするのならば、その前段階である『剣藤が空々から携帯電話を借りた』というところも、なんだか怪しいということだった。
怪しい。
たとえば空々の携帯電話には、自宅の住所が登録してある――最初はあのあと、こっそりと帰り道でもつけられていたのかと思ったが、あのときに携帯電話を調べられ、剣藤に空々家の場所を知られたのではないかと思ったのだ。
空々のこの推測は、所詮子供の洞察力、実のところ外れている。
わざわざそんな手間をかけなくとも、剣藤はあの時点で空々の住所を把握していたし、たとえそうでなくとも、彼女の立場からなら、一中学生の住所くらい、電話一本で突き止められる。
ただし、外れてはいても的外れではない。
昨夕、剣藤が空々から携帯電話を借りたのには、確かに、後に高熱剤を盛るための伏線という他にも、別の理由があったからである――ただ、彼女が用があったのは、プロフィールではなくアドレス帳だった。
家族。友人。知人。チームメイト。
そんな、空々と繋がりのある人物の名前や電話番号、住所やメールアドレスが記されている――アドレス帳だった。
「ああそうだ。きみに薬を盛ったのには、もうひとつ目的があったよ。まあそっちは私の担当じゃあないんだけれど……きみには今日、学校を休んで欲しかったんだ。巻き添えを食うといけないからね」
「巻き添え……? 学校って」
「んっと」
剣藤はぴょんぴょんと、後ろ向きのままバックステップで跳ねて、食卓へと舞い戻る。そしてテレビのリモコンを手に取った。むろんテレビのリモコンは血まみれだったが、それをつまむようにして、剣藤はそれを持ち上げる。その様は過剰な潔癖症のようでもあったが、この惨状を作り出したのが彼女である以上、そういう呼び方はできまい。いや、潔癖症の人間は潔癖症ゆえに掃除ができず、結果として不潔な環境を作ってしまうともいう――ならば潔癖症で正しいのか。
いずれにせよ彼女は電源ボタンを押した。
どうやら多量の血を浴びていても壊れてはいないらしい――最近のリモコンは防水加工でもされているのだろうか?
「たぶんニュースでやってると思うんだよね――ああいうのって初日は報道規制をかけないだろうし。あまり締め付け過ぎてもだからね……あれ、なんでアニメやってるんだ? あれ? 他のチャンネルはどうかな? あ、うん。やってたやってた。ほらこれ、見て、そらからくん」
見た。言われるままに。
テレビの画面――テレビ台の上に置かれた42インチのモニターに映し出されたのは、火災現場だった。厳密に言うと、既に火事そのものは鎮火しているようだったが、真っ黒になった建物の消し炭が、ヘリコプターの視点から映し出されていた。
どこかで見たことのある映像だった。そう、学校の下駄箱のところに飾られている、航空写真である――私立山石中学校の広大なグラウンド、そして規則正しく弧を描くように並んだ七棟の校舎。特に意識をして見るような写真ではないが、登校を続けていれば、どうしたって視界に入るものではあるので、なんとなく、それを思い出した。
ただし思い出せたのは奇跡のようなものだったかもしれないし、また思い出さないほうがよかったかもしれない――確かにその航空写真と、今テレビに映し出されている現場中継は、角度こそ違え同じ場所を映してはいたのだが、グラウンドも校舎も、面影ひとつ残していなかったのだから。
影も形も残らず、とは言うまい。
影のように真っ黒になった消し炭がかろうじて残っていて、その残った柱から、元の形をイメージすることは難しくないだろうから。空々が野球に勤しんでいたグラウンドも、真っ黒になってはいるものの、まあ、広大さが変わっているわけではなかった。
焼け野原。
というより、空襲の後のようだった。
「え? これって……僕の学校?」
「やれやれ、相変わらず容赦がないなあ、『火達磨』の奴は……、本当怖いよ、あいつ。誰が後始末をすると思っているんだろう。まあ私じゃないけれど」
剣藤は肩を竦めつつ、言う。言うほど呆れているわけではなさそうだが、それでもどうやら、テレビに映った壮絶なその光景は、彼女の美学には反するものであるらしい。
「現場中継とかじゃなくて……どこかで詳細を報道している局があったらいいんだけど……まあ詳細なんてわかりっこないだろうけど、被害の大きさとか、そういうの……」
言いながらチャンネルをザッピングする剣藤。しているうちに、眼鏡に適う局があったらしく、彼女はリモコンを下ろした。男性アナウンサーの言うことによれば、こんな詳細らしい。
本日午前十一時頃、私立山石中学校において大火災が発生。原因は不明。しかしその常軌を逸した規模と火の回りの速度から考えて放火ではないと思われる。地下を走るガス管の破裂が、今のところ疑われている。二十台近くの消防車が出動し、ただちに消火活動が始まったものの、完全に鎮火するまでに四時間を要した。被害者の数は現在不明。ただし今のところ生存者は確認されておらず、また校舎内にいた生徒・職員の生存は絶望視されている。
との、こと――
「本当によかったね、そらからくん。私の目論見通り、今日学校を休んで――無理して行ってたら、巻き添えを喰らって、学校のみんなと同じように死体も残らなかったと思う。『火達磨』が、いちいち、そんな細かい確認をしたとは思えないからね」
「……ちょっと待ってください。つまりあなたは」
空々は剣藤の言葉を遮るようにして言った。これは彼にしてみれば結構珍しいことだった。本来、彼はそんな、人を押しのけて出しゃ張るような少年ではない。
「家族を殺して、学校を燃やすために、僕に毒を飲ませたということですか?」
「違う違う」
と、そこで剣藤が否定したので、一瞬空々は混乱したが、これはどうやら意味が違ったようで、あとに続いたのは、
「毒じゃなくて薬だよ」
という訂正だった。そんなことを訊いているわけではない。毒であろうと薬であろうと、だ。
どうも会話が噛み合わない。否、真剣を振るう少女と会話が噛み合うほうが本来怖いことなのだが、しかし空々は、すれ違い続ける会話に、質問の仕方がわからなくなってきた。自分のほうが決定的に間違っているような気分にさせられてきた。
逡巡しているうちに、剣藤は言う。最初からそう言えというようなことを。
「だけど薬を飲ませた理由はそれで正解だよ、そらからくん。万が一にも、きみには巻き添えを食らって欲しくなかったんだ。私もこの刀の扱いには自信があるけれど、もしもこの場にきみがいる状況で四人を刻むとなったら、その際事故が起きないとは限らなかったしね」
刃物は危険だよ、と最後に呟いた――それはわかっているらしい、空々にしても大いに同意するところではあった。
「その意味じゃあ私だって『火達磨』のことをとやかくは言えないのか……他を担当している『蒟蒻』みたいな隠密性をもって、誰にも気付かれずに誰にも露見せずにってわけには、なかなかいかない――」
「『蒟蒻』……?」
『火達磨』に比べて、妙に地に足のついた、生活感のあるその単語に、空々は反射的に面食らって食いついたが、しかし食いつくべきはそこではないとすぐに気付く。そう、食いつくべきは『他を担当している』だ。
「他? 他って……」
「きみの携帯電話に登録されていた、学校の違う友人知人、あるいは親戚とか……、そんな感じ。そっちのほう。要するに、私や『火達磨』の手から漏れた、きみの関係者。そらからくんの関係者。いるでしょ? ほら、たとえば小学校のとき、同じ少年野球団に属していたけど、他の中学校に行った子とか……」
「…………」
いる。何人も。
たとえば花屋瀟がそうだ。昨日電話で話したばかりの、別の中学に行った花屋が、まさしくそういう『関係者』――たとえばどころかその代表例となるだろう。
「僕の関係者を……」
関係者? まるで大人物に対して使われるようなその言葉と取るに足らない子供であるはずの自分とが組み合わさったことに、酷い違和感を覚えつつも、反面、空々は理解した。
ここで改めて、『担当している』とはどういう意味なんだ、『蒟蒻』とやらは花屋達に一体何をしたんだなんてわざとらしいこと、問うまでもなかった――ここに来てまだそんな確認をするのは、ただの現実逃避というものだろう。
だが、繰り返しになるが、ここで『現実逃避をしない』彼の立ち居振る舞いこそが――彼がこんな目に遭っている理由と直結しているのだ。
「要するに、僕の関係者を……あなた達は、剣藤さん達は、皆殺しにしたということですか」
「うん。そうだね。手抜かりがなければ」
皆殺しという、あえて強い言葉を選んだつもりだったが、剣藤は微動だにしなかった。自分の答に細かいフォローを入れてくるような余裕まであった。
「そういうのはもう、きみにはいらないから」
「僕も、殺すんですか?」
「?」
しかしこちらの質問には剣藤は驚いたようだった。驚いたというか、少し怒ったようでさえあった。短いながらも、今まで何を聞いていたんだ、どうしてこれだけ言っているのにわからないんだ、これじゃあ振り出しに戻るだよ、というようなニュアンスのこもった、
「違うよ」
という返事が、彼女からは返ってきた。
「きみに危害を加えるつもりはない。なかったし、これからもない。私達にはきみが必要なんだから。私達はきみを迎えに来てあげたんだから」
「迎えに……?」
「そうだよ。こんな手間をかけたのは全部きみのためだって言うことを忘れないで頂戴、そらからくん――」
「こら」
と。
剣藤が更に、空々を責めるような言いかたをしようとしたところに、別方向から声が割り込んだ。別方向からというのは、当然のことながら空々からという意味ではないし、空々の肩越しに、廊下から現れた誰かの声という意味でもない。
その人物はいた。
ずっと、最初から――ダイニングの中にいた。
いつからいたのか、という当然の疑問には、今まで彼がいることに気付きもしなかった空々が答えられるはずもなかったが、受けた印象としては――その食卓の奥に設置されているソファに深く腰を下ろして、見たこともない食器で紅茶を飲んでいるその様子から受けた印象としては、剣藤よりもずっと前から、ひょっとすると父親が職場から帰ってくる前から、弟達が学校から帰ってくる前から、そうやってそこで紅茶を飲んでいたんじゃないかとさえ思われた。
ソファの前のテーブルには、やはり見たこともないティーポットが置かれている。驚いたことに、スコーンやらなにやらの茶菓子もだ。夜なのに、アフタヌーンティーの最中という感じだった。
「『必要』というのは事実ですからともかくとしても、『迎えに来てあげた』『手間をかけた』だなんて恩着せがましい言いかたはやめなさい、『寸刻み』――年下の男の子相手にそんなムキになったかのような口の利きかた、程度が知れますよ」
「――だって、『茶飲み話』」
途端、剣藤は、怒られた子供のようにしゅんとして、そして言い訳をするように、彼のほうへと向いた。
「私、この子のために一生懸命頑張ってるのに、全然その気持ちが届いてないんだもん――もっとたくさん感謝してもらえると思ったのに。ありがとうって言ってもらえると思ったのに」
感謝?
何を言っているのだろう、とさすがに空々も思った。
紅茶を飲む男――『茶飲み話』と呼ばれた彼も、その点においては空々と同意見のようで、「何を言っているのですか、あなたは」と言った。
「何も説明していない今、この現時点で、彼があなたに感謝するはずがないでしょう。今の空々さんにとってあなたは、家族を殺した犯人でしかありませんよ」
まるでいずれはそうではなくなることを確信しているかのような言葉だったが、そんな窘めるような言葉に、
「……だって」
と、剣藤は下唇を軽く噛んだようだった。
どうも、『茶飲み話』と話すときはこの『寸刻み』、精神年齢が下がってしまうらしい。
「私、初めてだったのに」
悔しさを滲ませた風のあるその言葉の意味もまた、どういうつもりなのか空々は察しかねたが、何を言っているのだろうと思ったが、しかしそちらについては直後にはっと気付く。それは昨日の、高熱剤を空々に含ませたときの『工程』のことを言っているのだろう――初めて?
なんだそりゃあ。
あんな風に奪っておいて何を言うのだ。
初めてと言うのならこっちだって。
そう思いつつも、あのとき慣れた風だなんて考えて申し訳なかったな、とも、空々は思うのだった。人のよい少年なのだ。家族を殺した相手に申し訳なく思えるくらいには。
「だってじゃありません。だから何だというのですか、みっともない」
と、むしろ、剣藤側の人間であるはずの『茶飲み話』のほうが冷たく、そんな傷心(?)の少女を突き放すようなことを言って、それから、ここではそうするのが当然の作法だと言うように、紅茶を一口、口に含む。
『少しは空々くんを見習いなさい。家族を殺され、その死体を目前にし、学友は学校ごと燃やされて、のみならず関係者の下には洩れなく刺客が向かったというこの状況下で――眉ひとつ動かさないじゃありませんか
「…………!」
「あなたが似たような目に遭ったときのことを思い出してご覧なさい。頭の螺子が何本飛んだか、わかったものじゃあないでしょうに。それに較べて、彼の受け答えのしっかりしたこと。飢皿木博士が太鼓判を押すわけですよ」
しまった、と、再び空々は思う。
飢皿木の名前が出たことにも気付かず、しまったと思う。
剣藤がその辺りに何も突っ込んでこないので、自分はうまく誤魔化せているのだと思っていたが――実際どこか抜けている風のあった、会話の噛み合わなかった剣藤の目はうまく誤魔化せていたのかもしれなかったが――しかしその頃から部屋の奥でずっと、一貫して紅茶を飲んでいたらしい『茶飲み話』の目は、すり抜けられなかったらしい。
いや、そこに目があったことにさえ、こちらは気付いていなかったのだ。
だからすり抜けられるはずもなかった。
どうしようと、空々は逡巡する。
今からでも挽回するように、泣き叫びながら家族の死体に駆け寄ったほうがいいのだろうか。既に中学校の火災に関するニュースを終えて、今は天気予報を流しているテレビにしがみついて、わけのわからない叫び声でもあげればいいのだろうか。
取り戻せるとは思えないが、しかしそうすべきかもしれない。
なまじ診療所であんな診断を受けた翌日のことだったから、即座に動けなかったが、しかしそうすべきときはそうすべきだ。最低限のことはすべきだ。少なくとも、この状況――この惨状を『無感動に受け入れている』と思われるのは、とてもよくないようなことの気がした――今更、そんな気がした。
だが、『茶飲み話』は空々のそんな葛藤を見透かしたように、
「ああ、いいんですよ、空々さん。今から悲しむ演技なんて、動揺する演技なんてしなくっても。あなたのバイタルに、そしてメンタルに何の変化もないことくらい、ここから見ていてもわかります――それに、ご安心ください」
と言った。
「もうあなたが、過剰な演技をして見せなければならない対象は、この世に一人もいないのですから」
「…………!」
「だから家族が死んでも学友が死んでも関係者が皆殺しの憂き目にあっても悲しめない自分を恥じる必要などないのです――我々はまさに、あなたのそんな資質を買いに来たのですから。いやいや、部下の教育がなってませんで、申し訳ありませんでした、空々さん。何分世間知らずな子でしてね」
大の大人から、そんな風にかしこまった口調で話しかけられるのは、それに『さん付け』で呼ばれるのも、身に覚えのないことだった。と、それを認識したところで今更のように、『茶飲み話』が『大の大人』であることに、空々は気付いた。
二十代後半の男である――父親が(すぐそこで真っ二つになっている父親が)大学という象牙の塔に勤めている関係上、空々はスーツ姿の大人を見慣れないのだが、『茶飲み話』は、まさしくその、折り目正しいスーツだった。剣藤同様に土足ではあったが、その靴も黒光りする、なんだか高級そうな革靴だった。
いかにも企業人、それもいわゆるできるビジネスマンと言った風である。ただしいかにもな企業人もいわゆるできるビジネスマンも、決して虐殺の現場で紅茶を優雅に嗜んだりはしないだろうが。
紳士。
佇まいから一言で表現すれば、彼はそんな風に見えた。
「……?」
あれ、と。
そう言えば、紳士もまた、血を浴びていないことに気付く。まあ状況がどうだったにせよ、実行犯は間違いなく剣藤のほうだろうから、直接的な返り血は浴びないにしても、それでも、床のみならず壁にまで、四人分の血液が飛び散っているこの惨状の中で、服を汚さないというのは、そう簡単なことではないように思われたが……。
いや、服だけじゃない?
ティーカップも、テーブルも、ソファも、彼の周りだけ、さながらバリアでも張ってあったかのように――
「『寸刻み』の言葉――つまり剣藤の言葉を訂正させてください、空々さん」
にっこりと、優しげに微笑んで、『茶飲み話』は言った。
「私達はあなたを迎えに来たのではありません――私達はあなたに、一緒に来ていただきたいと、お願いに来たのです」
「お願いに?」
「ええ」
頷く。振る舞いがいちいち優雅だった。丁寧だが、慇懃無礼な印象はまるで受けない。
「私達と共に、人類のために戦っていただきたいと、お願いに来たのです」
ひどく壮大で、途轍もなく荒唐無稽で、しかし意外とよく聞くそんな台詞を、『茶飲み話』は真顔で言い――立ち上がって、空々のほうへと歩いてきた。
先述のように、彼のスーツには血の染みひとつついていなかったのだが、しかし剣藤のように、血だまりを避けるでもなく、真っ直ぐに、悠然と歩み寄ってくる。
しかしなぜか不思議なことに、彼が血を踏もうと、それによって飛沫が跳ね上がろうと、それらは彼には寄って行かなかった――むしろ血飛沫のほうから彼を避けるかのように、明後日の方向へと跳ねては落ちる。さすがにそれは目の錯覚だろうが、彼の衣類が血を弾いているようにすら、空々には見えた。しかしそんな防水加工の技術があるのだろうか?
「どうか」
と、『茶飲み話』は剣藤の隣で足を止め、そして彼女の隣で色の変わったカーペットへと膝を折り、両手をついて、そのまま上半身を折り曲げた。それは世間的に言う土下座の姿勢ではあったが、しかしだとすると、土下座とはこんなに優雅なものだったのかと思わせる所作だった。
それを、剣藤はびっくりしたような顔で見て、どうやら彼女のほうはそれに対して空々とは違う感想を持ったらしかったが、しかしそれを受けて、『茶飲み話』の隣に並ぶようにして、袴を折り畳むようにしながら、同じような姿勢を取った。
彼女の場合、土下座しつつもしっかり血だまりは避けていたが、ともかく彼女がその姿勢になるのを待っていたのだろう、空々に向けた両者の姿勢が揃ったところで、『茶飲み話』は言った。
こちらはしかし、聞きつけない言葉だった。
「人類を滅ぼそうとする悪しき地球と戦う、ヒーローになってください」
10
空々空くんの物語はこうして始まった。
あるいは終わった。