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「……う……ん……」
目を覚ますと、私は見知らぬベッドの上で寝転んでいました。
ゆっくりと体を起こし、頭の中を整理します。私は近道をしようと林に入り、前方不注意で走っていたところを黒い渦に飲み込まれて……いつの間にか気を失っていたみたいですね。
「……ここは?」
朦朧とする意識の中、辺りをざっと見回すと、ここは木造のコテージのような場所でした。近くにある本棚には所狭しと本が並べられており、納め切れなかったであろう本は床に積み上げられています。部屋の隅にある木箱には、ポスターかもしくは広用紙でしょうか、筒状に立ち並べられています。壁に吊り下げられた草や花、電気が通っていないのか、天井には蛍光灯の類は見られません。実際に見たことはありませんが、まるで猟師の小屋のようだと思えました。
私はこのような場所に来た覚えはありません。最後に見たのは歪んだ林の景色だったはずです。
よくよく耳を澄ませば何か石臼を挽く様な、ゴリゴリとして音が聞こえてきました。ひょっとしたら私をここに寝かせてくれた人がいるのかもしれません。
「す、すいませーん」
調子の戻りきっていない体に鞭を打ち、控えめに声を上げる。すると石臼のような音が止まり、
「起きたのかい」
部屋の奥から一人の女性の方が現れました。後ろで結った長い髪、麻で作ったような簡素な服を着ており、その上から黒いローブを羽織っていました。
そのいかにもな姿に、もし魔女というものがいるとしたら、このような人のことを言うのだろうと内心失礼なことを考えてしまいました。
「あんた、外で気を失ってたんだよ。何かあったのかい?何であんな場所でぶっ倒れてるなんて」
髪を結っていた紐を解きながら、女性は近くの椅子に座りました。
「あ……えっと、それはその……」
何かあったかと言われれば、それはあまりに荒唐無稽な話。林の中を走っていたら、黒い渦に突っ込んでしまい、いつの間にか気を失っていたなど、聞く人が聞けば頭のネジが抜けていると思われることでしょう。
いえ、それよりも大事なことがありました。
「あのう、わざわざ助けて下さって、ありがとうございます」
私としたことが、お礼の言葉を忘れていました。恩を受けたのならまずは感謝をしなくてはいけません。
「いやいや、いいんだよ。どうせこれから扱き使う予定なんだから」
「はい?」
不穏な単語が聞こえた気がしました。
「うん?何だい?」
「いえ、何か『扱き使う』という言葉が聞こえた気がしたんですが……」
「ああ、確かに言ったね」
聞き間違いではありませんでした。どうやらこの方は本気で仰っているみたいです。目に冗談の色が見えません。
「すみません。扱き使うというのは」
「私が、あんたを、扱き使うってこと。倒れてるところを助けてやったんだし、当然だろう?」
「た、確かに助けていただきましたが……」
「何だい?文句があるのかい?あのまま放っておいたらあんた、絶対死んでたと思うよ?」
「いえ、文句といいますか……」
助けてもらったら恩を返すというのは当然ですが、扱き使うというのは少々怖い言葉です。そんな言葉を本気で使う人には今まであったことがありません。
「……ちなみに私は何をさせられるのでしょうか」
「何を……まあそれは色々ってところだね。死にたくなかったら精々頑張ることさ」
「死にっ!?」
思わず息を呑んでしましました。今確かに、死、と言いましたよね。もしかして私に猟銃を与えて熊狩りでもさせるつもりなのでしょうか!
「私、猟銃の使い方は知りませんけど……」
「猟銃?そんなの持ってないよ」
「……へ?」
じゃあ私は何をするのでしょうか?ひょっとして鉈を使って猪を狩れとでも?
「……何を考えてるかはわからないが……あんた、どこかの村の捨て子だろう?それもここからかなり遠くの村のはずだ。だったらもう帰る場所なんて残ってないよ、生きたかったら黙って私に従うしかないのさ」
「捨て子!?いえ!私は家に帰っていた途中だったんです!決して捨てられて倒れていたわけではありません!」
「まあ確かにあんたくらいの年齢なら口数減らすより働かせたほうがいいだろうけど……別にないって話じゃない。やっぱり邪魔になったから森の奥に置き去りにして処分なんてよくある話さ」
「ですからそんなことは……わかりました!でしたら家に電話します!ちょっと待ってて……ってあれ?」
私は携帯を取り出そうとポケットに手を入れましたが、そこには何もありませんでした。もしかしてどこかに落としてしまったのでしょうか。
「ひょっとして探してるのはこれかい?」
「え……あー!」
女性が持っていたのは、見事に真っ二つになった、私の二つ折り携帯。
「珍しいもの持ってたから触ってたんだけど、二つに割れたと思ったら急に動かなくなったんだよ。これ、直せないのかい?」
「直すのは無理です……専門のとこに見せないと……」
「ふーん……じゃあしょうがない。直ったらまた見せてちょうだい」
そう言って壊れた携帯を投げ渡される。
ああ、まだ料金を払い終わってないのに……。
「すみません。助けてもらった上で恐縮なんですか、電話を貸していただくことはできませんか?」
「電話って何だい?」
「え?電話は電話ですが……」
「知らないよそんなの」
「で、でしたらどうやって知り合いの方と連絡をとってるんですか?」
「直接会うか、人伝にやりとりするしかないだろう。何変なこと言ってるのさ」
失礼ながらそれはこちらが言いたいです!電話を知らないとはどういうことですか!?いくらなんでも世離れし過ぎでは!?というか、よくよく感があればさっきの捨て子というのもおかしいです!いつの時代の話ですか!今の世にそんなものがまかり通りわけありません!
「とりあえず、あんた名前は?」
頭を抱えて思い悩むを私を目の当たりにしても、この方は何事もないように話しかけてきます。
「あ、秋野月深っていいます」
「アキノツキミ、変な名前ね。とりあえずツキミって呼ぶことにするわ」
変な名前って……。
「えっと、あなたのお名前は?」
「あたしはアルネトア」
アルネトアさん……外国の方でしょうか。見た目から何となくそんな気はしてましたが、日本語が随分とお上手です。
「辺境に住んでるただの魔女さ」
「魔女?魔女というのは?」
「魔女は魔女に決まってるだろう。ただ人間にとっては恐怖の対象、国家から見れば低俗で悪徳な魔法使い、世間の嫌われ者。それが魔女」
アルネトアさんはそう言って、懐から小さな杖を取り出すと、私の鼻先に突きつけました。
「その気になれば人なんて簡単に殺せるし、殺す。あんたも、言動には気をつけることだね」
その瞬間、杖の先に卓球球程の火の玉が出てきました。私は驚きのあまり、咄嗟に身を引きました。それが確かな熱を持っており、決して幻覚ではなく、その証拠に鼻先には余熱がまだ残っていました。
そしてアルネトアさんが杖を振るうと、その火は消えました。
「こ、これって手品ですよね?」
「正真正銘の魔法だよ。信じられないってのかい。ほれ」
そう言って今度は指先から火を出しました。
「魔法はこの世にあるんですか!?」
「当たり前でしょう……何か話が噛みあってないね……質問を変えよう、あんた一体何者だ。どんな疎い奴だって魔女を見たことはなくても話くらい聞いたことあるはずだよ」
アルネトアさんの目つきが変わりました。弱者を嘲笑うような表情が一転、睨みつける鋭い視線は警戒の色を含み、私の瞳を見据えていました。
「わ、私は……」
目の前で起きた出来事に動揺を隠し切れない私でしたが、このまま沈黙したままでは不味いことになるかもしれないという一種の危機的本能から、私はありのままの出来事をひとつひとつ伝え、この場を切り抜けることに努めるました。