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愛しの彼女を埋めました。  作者: 喜多川 信
第四巻
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第九十話




 その時――部屋の戸がバンッと開く音がした。


『パシャ子! スクープだ、来い!』


 どうやら第二報道部の部長が戻って来たようだ。


『むむ!? わかったっす!! でも部長、副会長が具合悪いらしいので、保健室につれてってあげて欲しいっす! スクープは任せるっす!』

『おうっ、たのむぞパシャ子!』


 ドタバタと足音がして、話し声もして、戸の閉まる音がした。

 役員室はしんと鎮まり返っている。人の気配はない。

 森田君は恐る恐るドアをあけ、部屋の様子をうかがった。誰も居ない。第二新聞部の部長と共に、副会長も部屋から出て行ったようだ。

 間一髪とはこのことか。


「ぷはぁ……た、たすかったぁ……」


 ロッカーから出るなり、森田君は大きく息を吸って吐いた。やっとの思いで海面へと顔を出せたかのよう。あわや溺れかけた感覚がしていた。

 副会長にはまた今度、事情を話さねばなるまい。おそらく叱責の一つや二つは飛んでくるだろうが、甘んじて受けよう。

 副会長はちゃんと話せば、理解をしてくれる人だ。


 狭いロッカーに居たせいで、森田君の体は火照っていた。

 生瀬さんも同じだったらしい。スカートをひらひらさせていた。

 一難は去ったが、別の一難はひっついたままだ。


「むー、あつーい、せーたくーん」

「そ、そう? じゃ、じゃあ、離れよっか?」

「やー、このままがいいのー」


 心地よさそうな声をだし、生瀬さんは森田君にぴったりと身体を寄せた。


「だったら、今は冬だから、窓をあければすぐに――」

「まてなーい。ぬいじゃえー」

「生瀬さん、だめ、だめっ、いったん座ろう! ね? ね?」


 森田君は慌てて生瀬さんの両手を掴む。

 生瀬さんが服をがばっとたくし上げ、白いブラの端がちらりとみえたのだ。その残像を脳から払うように首を振り、森田君は生瀬さんと一緒に床へと膝を下ろした。女の子座りする生瀬さんは、小首をかしげている。


「座ったから、ぬいでいい?」

「それはっ、ダメだから! 生瀬さん!」

「やぁ、ぬぐのー!」

「だめぇ!」

「エリちゃんって言ってくれないせーたくんの言う事なんて、きかないもんっ」

「エリちゃんっ、エリちゃんお願い。やめて!」


 森田君が必死にそう呼びかけると、生瀬さんはぴたっと動きを止めた。森田君がほっとしたのも束の間、生瀬さんの二の矢は鋭く速い。


「じゃあ、ぎゅってして」

「…………はへ?」

「ぎゅってしてくれたら、せーたくんの言うこと聞く」


 拗ねたようにそっぽを向く生瀬さんは、尖らせた口すら愛らしい。

 だが繰り出されるのは、お願いと言う名の脅迫だ。


 譲歩しているように見せかけて、一欠けらの譲歩もせずに、次々と要求だけを叩き込んで行く。論理など毛ほども重視せず、とにかく相手の心を呑んでしまう。いつもの生瀬さんからは想像もつかないほど、天真爛漫な交渉術。

 効果はてき面であり、森田君は完全に気勢を制されていた。


「は、ははっ……え、エリちゃん。て、手を握ればいい、のかな?」


 生瀬さんは頭を横にふった。


「おにぎりを握ってほしいのかな?」


 生瀬さんは不満げに首を振った。


「じゃ、じゃあ、タオルとかを絞れば――」

「ぎゅって抱きしめて」


(……なん……だと……?)


 生瀬さんをぎゅっとする?

 天使に対して不敬ではないだろうか?

 堰を切るように、森田君の思考はあふれ始めた。


 天使は抱擁する側であって、抱擁されるのは人間だ。つまりこれは、生瀬さんの人間宣言ということになるのか。しかし、生瀬さんが天使である事は森田君にとって揺るぎない事実であり、これでは説明がつかない。三位一体論をひねり出した宗教指導者たちの苦衷が森田君には理解できるような気がして、重要なのは理屈ではなく信仰であると悟った。

 生瀬さんは女子高生であり、女神であり、天使なのだ。


 生瀬さんをぎゅっとすれば温かいだろう。

 ふわふわだろう。

 とっても良い匂いがするだろう。

 したいかしたくないかで言ってしまえば、森田君も男である以上、当然したい。


 なにより、生瀬さんの「お願い」なのだ。

 平家にあらずんば人にあらず、天使に従わずんば信者にあらず。

 生瀬さんには返しても返しきれない恩がある。


 だが、森田君にはヨロズ先輩という想い人がいる。

 他に好きな人がいるというのに、別の女の子をぎゅっとするなんて、それはあらゆる意味で最低の男でしかなく、だからこそ、そこには背徳という甘美なロマンが詰まりに詰まっている訳で――


「えっと、エリちゃん……ぎゅっとするのは、それは、その……」

「…………」

「…………」

「…………ぬぐ」

「わ、ちょっ、ま、待ってストップ!」

「やらぁ! ぎゅってしてくんなきゃ、やー!!」

「エリちゃん、ほんとに待って! 見えちゃうから!」


 森田君は生瀬さんに飛びついた。

 不可抗力とはいえ、生瀬さんを押し倒す形になってしまう。


 生瀬さんの着衣は乱れきっている。森田君は目をつぶって、なんとか生瀬さんを押しとどめ続けた。徐々に生瀬さんの動きは鈍くなり、森田君がふと気づくと、可愛らしい寝息を立てている。

 なんだか酔っぱらいのようだと、森田君には思えた。


「はぁ……はぁ……」


 森田君の呼吸は跳ね上がっていた。八百メートルを全力疾走したかのよう。生瀬さんや第三者、なにより自らの心とも戦わねばならなかったのだ。

 だが、なんとか一線は越えずに済んだ。

 どうやら、天使の暴走は止まったらしい。とんでもない戦いだった。これでもまだ、生瀬さんの恐ろしさの、その片鱗でしかないのだろう。


「……ふぅ……」


 ずっとドキドキしていた森田君は、深く息をはいた。

 ようやく、一息つける。

 色々と危なかった。


 あまりの事態の急変に、全く対応できない。近頃、そこそこ逞しくなって来たんじゃないかと自分でも思い始めていたが、とんでもない自惚れだ。

 というより、生瀬さんが凄すぎたのか。

 こういうのを『反則』というのか。


(良かった。もしこんな所、誰かに見つかったら――)


 額の汗を森田君が拭ってため息を漏らすと、がらっと戸が開いた。

 そこに居て欲しくないと思えば思う程、そこにいる。

 ヨロズ先輩が立っていた。


 どうして足音が聞こえなかったのだろう。パシャ子の時のように接近に気付いてさえいれば、なにかしらの対応は出来たはずなのに。と、森田君は不思議に思い、生瀬さんとドタバタしていたせいだと言う事に気付いて、なるほどと腑に落ちた。


「…………」

「…………」


 ヨロズ先輩は目をぱちくりとさせている。

 ヨロズ先輩と見つめ合い、森田君はゆっくりと視線を落とした。


 生瀬さんの着衣は乱れている。

 髪も乱れていた。

 森田君の呼吸は荒く、頬を上気させ、汗ばみ、生瀬さんを押し倒している。獣欲のなすがまま、婦女子を手籠めにせんとする卑劣漢の格好であった。一見すると状況は完全にアウトであり、なんと釈明すればいいのか森田君には分からない。


 運命の神さまは居るだろう。そして間違いなく、性格が悪い。

 ただただ、森田君は顔を青ざめさせた。





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