第二話
2
森田君がヨロズ先輩を意識し始めたのは、中学一年の時からだ。
ヨロズ先輩は中学でも生徒会長で、地元では有名人だった。
容姿端麗でスポーツ万能、学業優秀。目立たないはずがない。芸能事務所のスカウトや雑誌の記者が学校へやってきて、ちょっとした問題になった事すらある。
綺麗な人だな。
絵画の向こう側の人みたいだ。
森田君のその思いが『好き』に変わったのは、中学校の文化祭の時だった。校舎の片隅で、普段は他の生徒には見せないような顔で、ヨロズ先輩は誰かと話し合っていた。友人か、親戚か。あるいは、想い人か。
その話し相手が誰だったか、森田君は覚えていない。
けれど、森田君が遠くから見た、ヨロズ先輩のその時の表情ははっきりと覚えている。ヨロズ先輩のその顔はとても幸せそうで、森田君は見惚れた。
ヨロズ先輩の幸せそうな顔を、自分にも向けてほしい。
絵画を眺めるのではなく、中へ入りたい。
近づきたい。森田君はそう思った。中学では生徒会には入れなかったが、生徒会活動の近くで常に細々とした手伝いを行った。
ヨロズ先輩に名前を憶えてもらえるくらいには、近づけた。
もっとヨロズ先輩とお近づきになりたい。
親しくなりたい。
そう森田君は思い続けて、高校でチャンスが訪れた。
ヨロズ先輩の呼びかけで、生徒会へ書記として入ることになったのだ。
森田君は懸命に仕事をこなし、そして昨日、想いを堪え切れず、玉砕するつもりで告白に踏み切った。
三年越しの想いだった。
だというのに……
「詳しい話は明日しましょう、私の家で。もし協力してくれるのなら、野外で力仕事をしてもらう事になるから、動きやすい服装で来てね、森田君」
と言われるがまま、森田君は銀野家の表札前に居た。
一夜明けても、夢の中に居るような心地だった。
ヨロズ先輩は日戸梅高校の生徒会長で、二年生の中で一番学業が出来て、運動も出来て、必要とあれば部活の助っ人や支援も行っている完璧人間だ。
(それが……埋めて欲しい、と?)
今もって森田君には理解しかねる。
ヨロズ先輩とは生徒会の仕事での関係がほとんどで、私的な交流はさほどない。表情の変化の読み難さ以上に、ヨロズ先輩はただでさえビジネスライクだ。
告白だって一世一代の大勝負だった。
好きだと言ったら、山中に埋めてと言われて、現在に至っている。
たった一人、先輩の自宅に呼ばれてしまった。
なけなしの勇気は昨日使い果たしてしまったはずだが、今こうして、ヨロズ先輩の家の前に森田君は立っている。
ここに来るまで何度か、「帰ろう」と森田君は思っていた。「昨日のあれは、ヨロズ先輩なりの遠回しの断りの文言だったのではないか?」と思えてならない。インターホンを鳴らす事さえ、森田君には数分必要だった。
森田君の背中を押したのは、恋心か、それとも好奇心か。
「いらっしゃい、森田君。どうぞ」
玄関から現れたヨロズ先輩の私服姿を見て、森田君は今日という日に感謝した。飾り気のないパンツスタイルが、元の良さを引き立たせている。
隙の無い大人のお姉さんが、休日に見せる少し油断した姿とでも言うのか。
ヨロズ先輩の立ち姿を見るだけで、森田君はどきりとした。
「おじゃまします」
一礼して、森田君は玄関を潜った。
銀野家は落ち着いた基調の内観だった。上流階級と呼ばれるほど贅沢ではないが、中流階級とは明らかに違う。インテリア一つ一つのセンスやその組み合わせなどが、森田君の知っているお隣さんの家や親戚の家のそれとは、似て非なるものだった。
花瓶一つとっても、洗練されている。
百円均一らしきものが、どこにもない。消臭剤がむき出しに置かれて居たりしない。聞いた事のない画家の、良く分からない絵が、大きな額縁に飾られている。
「座って待っていて」
リビングに通されると、ヨロズ先輩は茶菓子の用意を始めた。
紅茶かコーヒーか、ミルクは居るのか要らないのか、砂糖はいくつ必要か。「森田君は甘めが好きなのね」などという他愛の無いやり取りをカウンター越しに挟みつつ、森田君は部屋を見回した。
ガラステーブルの上にノートパソコンが一台、置いてある。
買い手がつくのか不思議に思っていた大きさの液晶テレビに、こだわりを感じさせるやや旧式のスピーカー、時代にそぐわないレコードプレイヤーが、森田君の目をまず引いた。木調の部屋の雰囲気とあいまって、森田君は思った。
(住む世界が違う……)
レースカーテンによる柔い陽射しと素朴な観葉植物が、人様の家という気負いをそっと軽くしてくれるようだった。
(……ん? あれは……)
ふと、森田君の目がとまる。
(トランクケース?)
そこそこ年季のはいった赤いトランクケースが、部屋の隅で横倒しになっていた。頑丈そうな作りで、車輪がついている。二日三日の旅行には必要のない大きさだ。
なんであんなものが無造作に置いてあるのか?
森田君は思案したが、謎は深まるばかりだった。ソファーの片隅にちょこんと腰かけて森田君が首を傾げていると、トレイをもってヨロズ先輩が戻って来る。
「森田君、隣へどうぞ。今日の予定を説明するから」
と、ソファーをぽんぽんとヨロズ先輩が叩いている。真横に座って良いらしい。
森田君は困った。
距離感がつかめない。
遠すぎても変だが、近すぎても、何だか馴れ馴れしい。かといって、定規で図る訳にもいかず、そもそも、この距離ならベストという尺度があるわけでもない。
こんな事にここまでこだわる事自体、情けないと言えば情けない。
肩と肩の距離に森田君が四苦八苦していると、ヨロズ先輩がほとんど触れ合うほど近づいてきて、森田君の繊細な苦慮を一瞬でぶち壊した。
良い匂いのする、嬉しすぎる破壊行為だった。
(ご、誤解しちゃだめだぞ。先輩は二人で見やすいようにパソコンごと近づいただけであって、決してその他の意図があるわけじゃないはずだけど幸せ!!)
「……森田君? 森田君」
自分の世界に入っていた森田君は、ヨロズ先輩の声に呼び戻された。
「は、はい」
「私の話、聞いているの?」
首を傾げるヨロズ先輩に、森田君は頭を下げた。
「すいません。いつもの生徒会の仕事とは色々と違いすぎて、なかなか頭に」
森田君がそう言って頭を掻くと、ヨロズ先輩は口振りを穏やかにした。
「それほど肩肘を張らないで。社会的地位を掛けたごっこ遊び、あるいは社運をかけたドラマ撮影の予行練習、もしくはマフィアの依頼の下調べ、という感じで行きましょう」
「その例えだと、肩肘を張って欲しいのか欲しくないのか分かりませんが?」
「崖っぷちでは適度にリラックスしないとかえって落ちやすい、という事よ」
変化の少ない表情でそう言われると、冗談なのか本気なのか判別に迷う。
ヨロズ先輩のノートパソコンを使った説明をかいつまむと、やる事は単純だ。
森田君は銀野家からヨロズ先輩と共に駅前のバス亭へ向かい、指定された山を登り、中腹の雑木林にヨロズ先輩を埋め、掘り起こせば良いらしい。
実にシンプルかつ意味不明だった。
「理解できたかしら?」
ヨロズ先輩にそう聞かれ、森田君は頷いた。
「はい。おおよそは、分かりました。やる事は分かったんですけど、どういう心持ちで行こうかと、昨日の晩あたりからこう……考えあぐねていて」
「そういえば、まだ基本的な設定を伝えて無かったわね」
忘れていたわ――とヨロズ先輩は顎に指を当てている。
どうやら設定なるモノがあるらしいと、森田君は眉をくねらせた。
「……基本設定、ですか?」
「ええ」
「それは、どのような?」
森田君がそう尋ねると、ヨロズ先輩は口を開いた。
「私は森田君の恋心を手玉にとって弄んだ悪女で、森田君は八股をかけられていた事を知り、しかも八股の中で一番最下位の八位男として扱われていて、七位の犬にすら劣るとまで言われてしまう等、もつれにもつれた解きようのない痴情のもつれによって私を撲殺してしまい、山中に埋めにいく……という設定だから。しっかりしてね」
ヨロズ先輩はすらすらと言葉を紡いだ。
「……その設定はあまりに酷すぎます……」
森田君は率直に感想を述べ、すぐに気付いた。
「――ん? でもその設定だと、先輩はどうやってボクと一緒に山まで行くんですか? ここで死んでいる、という設定ですよね」
「もちろん。私はあれに入って、森田君に運んでもらうのよ」
とヨロズ先輩が指差した先には、赤いトランクケースがあった。
一見無造作に置かれたこのトランクに、そんな意味があったとは。ヨロズ先輩を山中まで人目に触れさせず運ぶためなら、これくらいの大きさが必要だろう。
なるほど、と森田君は腑に落ちた。
謎が一つ紐解けたものの、森田君には爽快感などない。
「……えっと……」
返す言葉が分からない。力仕事は穴を掘る部分だけかと思っていたが、違うらしい。これは大変な事になったな、と森田君が困っていると――
くしゅんっ! と、ヨロズ先輩が小さくクシャミをした。
「先輩、花粉症ですか? それとも風邪?」
森田君が気遣うと、ヨロズ先輩はやわらかく頭を振った。
「いいえ、少し鼻がむずむずしただけよ。風邪の引きはじめかもしれないわね。お風呂上りに今日の予定を考えていたら、つい薄着のままで長く居てしまって………」
遠足前の小学生? と森田君は心の中で小さく突っ込んだが、森田君自身も昨夜、色々と考えていてすっと寝付けなかった。
お互いさまである。
「もし道中でバレてしまったら大変ね、ふふ」
そう短く笑うヨロズ先輩の表情は少しだけ柔らかいな――
と森田君には思えた。
「先輩、なんでちょっと楽しそうなんですか……?」
「だって、ドキドキするでしょう? なんだか悪い事をしているみたいで」
「…………先輩は見つかっても平気そうですね……」
森田君はげんなりとして言った。
するとヨロズ先輩が森田君をじっと見てくる。
「何を言っているの、森田君。私にだって見栄や体裁、築き上げてきた学校社会での地位と名誉、一般的な恥じや外聞と言うモノがあるのよ? トランクケースに入っている所をよそ様に見られたら、ましてや学校関係者に目撃でもされたら、舌を噛んで死にかねないわ」
森田君はヨロズ先輩に真顔で諭されてしまった。
本日のヨロズ先輩は晴れ時々クールビューティー、ところによりミステリアスだが、局地的に激しいアホの子に見舞われている気がしてならない。
森田君にはそう思えた。
「――では、森田君。始めましょう」
ぽんっと手を叩いて、ヨロズ先輩がトランクケースに近寄った。
「さっそくですか?」
「試行錯誤あるのみよ、森田君」
と言うなり、ヨロズ先輩は長い髪を手早く纏めると、うなじに見とれる森田君をよそに、下足室から持ってきたシューズを履き、トランクケースの中に入った。
ヨロズ先輩はとても器用に身体を畳んでいる。身体が柔らかいようだ。
「さあ、閉めて、森田君」
ヨロズ先輩の貴重な上目遣いに、森田君はドギマギしつつも疑問をぶつけた。
「あの、空気穴とか、大丈夫ですか?」
「ええ、空けてあるわ。万全よ。さぁ、いきましょう」
物事に対するヨロズ先輩のこのスピード感。
生徒会での仕事ぶりそのままだと、森田君は目を白黒させた。
トランクをぱたんっと閉めて、かちゃりとロックしても、森田君は頭がぼんやりしたままだった。目の前の赤いトランクケースに、今まさにヨロズ先輩が入っている。夢の続きを見ているのではなかろうかという感覚は、トランクケースの重みによろめくと消えた。
前途多難だ。
玄関のわずかな段差ですら、ひどく力を使う。
なにぶん、森田君にとって経験のない事だ。
なるべくトランクをソフトに下そうとしたが、森田君にとってはかなりの重量だった。ハードランディングしてしまい、トランクの中でゴツっという鈍い音がする。
ヨロズ先輩が身体のどこかをぶつかったのだろう。
森田君は慌ててトランクケースの横に跪いた。
「せ、先輩!? 大丈夫ですか?」
「……え、ええ。けれど、できれば、もう少し優しくして欲しいわ」
「が、がんばります」
ヨロズ先輩のくぐもった声にそう答え、預かっていた鍵で玄関扉をロックする。
それだけで森田君は一息ついた。
外へ出るだけでこのありさまである。ここから道を行き、バスに乗り、山を登り、穴を掘って、ヨロズ先輩を埋めなければならないのだ。
道は遠い。
障害も多そうだ。
(……あ、あれ? ボクは、今、何をしているんだ? たしか昨日、先輩に告白して、それがどうして、今日こんなことに……?)
森田君の至極もっともな疑問に、しかし誰も答えてはくれない。
学校とは違う。教えてくれる人は居ない。
自分で学んでいくしかない。
(こんな感じで良いのだろうか?)
探り探り、森田君は歩を進めた。
なるべく不審に思われないよう、自然にトランクケースを動かそうとしながら、日常に潜む諸行無常の真理を森田君は実感していた。
バス停までの平坦な道のりも、特別な荷物と一緒では訳が違う。
トランクケースの中に人が入っている。
ただそれだけの事で、身体が強張る。喉が渇く。瞬きを何度もしてしまう。
悪い事をしている訳ではないはずが、森田君の神経は過敏になっていた。すれ違う通行人への警戒感など、今まで抱いた事のない度合いだ。
街角の監視カメラさえ、目に入るたびにビクビクしてしまう。
(合意、これは合意の上の行為なんだっ。トランクケースに人を詰めて山中へ運んで地面の下に埋めようとしているけれど、別に法を犯している訳じゃないんだっ。やましくない、やましくなんてないっ。堂々としていればいいんだ!)
森田君は自分に言い聞かせる。
緊張しているせいなのか、いつにもまして警察屋さんの姿が多く感じた。
トランクの車輪は滑らかに動いてくれる。
それが唯一の救いと森田君には思えてくる。
赤信号で待っている時、散歩中の飼い犬がトランクケースめがけて吠えた。それもかなりの吠え声だ。犬が異常を嗅ぎ取ったのだろう。
実に鼻の利く犬だった。もし森田君が麻薬探知犬に荷物をチェックされる運び屋なら、生きた心地がしなかっただろう。
飼い主は「すみません」と頭を下げて、犬の首輪を引っ張って去っていった。
森田君は冷や汗を拭い、トランクケースのヨロズ先輩へと声をかける。
「犬ってすごいですね」
「…………」
トランクに声をかけるが、ヨロズ先輩の返事はない。森田君は不安になったが、死体という設定をヨロズ先輩は守っているのだ、と思い返した。
つまり孤立無援だ。
そう気付いて、森田君は気を引き締めた。
あり得ないと分かっていても、すれ違う人に、車に、犬に、猫に、疑いの眼差しで見られているのではないか? 猜疑心を振り払いながら、森田君は歩かねばならない。重い荷物とあいまって、バス停に到着するだけで森田君は消耗していた。
乗るはずだった時刻のバスは出発した後だった。
しかし、次のバスはすぐに来た。
ノンステップバスの入り口のわずかな段差が乗り越えられず、車いす用のスロープを出してもらおうとすると、乗客のおじさんが手伝おうかと声をかけてくれた。
森田君はお辞儀して、手伝って貰う事にした。
「ありがとうございます」
「ずいぶん重いねぇ。旅行帰りかい?」
おじさんはトランクを引き上げながら、森田君にそう尋ねた。
「え、ええ。まあ。お土産を買いすぎちゃいまして」
「重い物を持ち上げる時は、腕と腰でやろうとしちゃいけないよ。足を使うんだ」
おじさんはそう言って微笑みながら自身の太ももを叩き、少しくたびれたスーツの襟を直すと、バスの後部座席で本を読み始めた。本当に良い人だ。
人の親切が悪い意味で森田君の胸に刺さる。
善意というものがこれほど鋭いものだと、森田君は知らなかった。
(――ごめんなさい、ごめんなさいっ、おじさんっ。ご厚意を受ける資格なんて、本当はこれっぽっちも無いんですっ)
森田君が心の中で頭を下げつつバスに揺られていると、乗客の話声が聞こえてきた。
「ほんとに?」
「うん、誘拐事件が起きたらしいよ」
森田君の前席で、大学生らしき二人組の男女がそう話し合っている。
「そんな物騒な事件、ここらでホントに起こるのか……?」
「まだテレビのニュースにはなってないけど」
「こんな明るい時に? まだ昼過ぎだぞ」
大学生らしき男が首を傾げると、大学生らしき女が人さし指をぴんと立てた。
「ほら、ちょっと前に検問があったでしょ?」
「ああ、あったあった」
「あれ、そのための検問なんじゃない? 事件の目撃者がいるんだって」
二人組の話は出鱈目ではないな、と森田君は直感した。
町中に警察官の姿が多く感じられたのは、このせいだったのだ。犯人逮捕のために非常線が張られているのだろう。よりにもよってこのタイミングで、なんという空気の読めない事件を起こしてくれたのだと、森田君は犯人に強い憤りを感じた。
「若い男がトランクに女の子を詰め込んだらしいよ」
「物騒だなぁ」
と、大学生らしき二人組は話し続けている。
おそらく車のトランクの事を言っているのだろう、と頭では冷静に考える事は出来ても、森田君の脇汗は止まらなかった。首筋もじっとりと湿っていく。
(早く目的地に着いて、おねがい……)
森田君はそう願った。
乗るまで一苦労。乗っても一苦労。乗った後も一苦労。
なんとも苦労続きの休日だった。