第十七章 死の砂漠を行く その1
古代の石柱や朽ち果てたピラミッドを数えきれないほど横切り、たどり着いた場所は注意しないと見落としてしまうような小さな港だった。
なけなしの木材で作ったであろう桟橋もあまりに小さいので帆船を直に接岸させることができず、小舟を降ろして上陸したほどだ。
古ぼけた石造りの民家が数軒、川沿いのわずかな土地に畑を耕しているだけで村と呼ぶのさえおこがましい。
それもそのはず、ここから一歩でも大河を離れれば一切の生物を寄せ付けない死の砂漠なのだ。人間の住む最も過酷な環境がここにはあった。
人々は何度も縫い直してつぎはぎだらけの衣服で肌を日光から守りながら、ただ何も言わず川から汲み上げた水を畑に振りまいている。灌漑をするほどの規模も無いのだろう。
「ついに来たか……」
水気を全く含まない乾いた風を受けながら、リーフは目の前に広がる砂丘を見渡した。この砂の堆積は日々風を受けて少しずつ動いているという。
この向こうに、人類の忘れ去った原初教典が眠っている。
俺たちの後を小舟にアコーンを載せて船員たちが上陸した。こんな環境でもクーヘンシュタットの寒気よりは過ごしやすいのだろうか、心なしかアコーンは喜んでいるようだ。
上陸するモノ好きなど珍しいのだろう、小さな子どもが少し離れた場所でじっとこちらを見ている。東方への旅でも小さな村を立ち寄ると決まって似たようなことがあったな。この感覚、なんだか懐かしいぞ。
「ここに宿は無いよ。旅人は決まって長の家に泊まるんだ」
アコーンの首筋を撫でながらチュリルが小舟から飛び移った。小舟には蜂蜜や果実の入った壺が積まれている。旅人はこの物資を代償に寝食を許されるのだろう。
長の家と言ってもそこらの家屋と変わらない小さなもので、入り口の壁に現地の文字で『長』と彫られているだけの質素な造りだ。窓は風さえ通ればよいと小さく穿たれただけだが、空気が乾燥しているので日陰に入ればかなり快適だった。
中に案内されると、一段高く作られた壁際の台座に絨毯を敷き、一人の老人が座っていた。がりがりにやせ細っているものの、しゃんと背筋を伸ばし銀糸のような髭を胸まで伸ばしている。衣装は決して高価なものではないが、人生の苦楽を知り尽くし威厳に溢れた佇まいだった。
「このような村に何用か?」
挨拶もほどほどに、長は早速尋ねた。
「私たちはタルメゼ帝国のセリム商会から派遣されて参りました。この砂漠を越えるべく、この二人にどうか一晩の宿を恵んでいただきたいのです」
普段の言葉遣いはどこへやら、チュリルが深々と頭を下げて長に申し出ている。後ろにいた俺たちも、つい頭を下げた。
長の脇に立っていた若い男は目を飛び出さんばかりに驚いた。
「死の砂漠を越えるだと? 馬鹿言うな、数千年の間、この先に行った者は誰一人生きて戻ってこなかったんだ。わざわざ自殺しに行くような愚行、長が許すはずがあるまい!」
だが長は若者の言葉など聞こえていないかのように、ふーんと首を傾げていた。俺たち一人一人の顔を嘗め回すように見比べるので、どうも視線のやり場に困る。
そして何かを決めたように頷くと、傍らにいた若者に声をかけたのだった。
「すまんが、外に出ていてくれぬか。私はこの者たちと話をしたい」
若者はこれまたあんぐりと口を開けて驚嘆していたが、すぐに平静を取り戻し建物の外へと出た。その際にわずかな窓も布で覆ったために、布を通して入ってきた微かな光だけが部屋の中を照らしていた。
「さて、遠い国からよくぞ参られた」
暗闇の中で長は手元のランプに明かりを灯したので、赤い光が部屋と俺たちの姿を優しく浮かび上がらせた。
「このような砂漠に面した小さな村では生活も良くならんから、若者は皆出稼ぎに行ってしまう。そのまま戻ってこない者も多い。だが、わしらは決してこの村を棄てたりはしない。この村には長のみが知る言い伝えがあるからだ」
「言い伝え?」
突如饒舌に話し出す長に、俺たちは少々面食らった。だが人払いまでしたほどだ、よほど重要な内容なのだろう。
長老は話し出した。しかしその声には抑揚があり、まるでひとつの歌のようだった。
「豊穣の大地。神の声聞きし王ありけり。神の力をもって人を国を天を治むる。然れど弟神の暴虐、目に余りたり。兄神、理をもってこれを封ず。国焼けて潰えたり」
短い一節だが、俺たちは目を合わせて驚いた。リーフがゾア神を通じて語った内容とまるで同じだったからだ。
ここにある兄神と弟神とは、ゾアとクリシスのことではないか。
歌い終わった長はふうと息を整え、話し始めた。
「遠い昔、この砂漠は豊かな緑に包まれていた。その中心に国を興した王はふたりの神から預言を授かり、この世を治めんとした。だが国は兄弟神の争いに巻き込まれ、滅んでしまった。そして長い年月の内に砂に埋もれてしまったのだ。預言の内容をまとめた書物も巨大な神殿を建てて祀っていたそうだが、今ではその神殿すらどこにあるのかわからない」
「なぜそのような言い伝えが残っているのですか? 国は滅びてしまったのでは?」
リーフが尋ねると、長はにやっと笑った。
「小さな村だが、この村には三千年以上の歴史がある。文字が無かったのですべて口伝えだが、歌の中に当時の出来事が全て記録されているのだ。そして我々は今は無き王国の末裔だとも伝わっている」
「まさか、滅びたと思っていた王国にも生き残りが?」
ついいつもの調子で喋ってしまい、慌てて口を押える俺。だが長老は俺たち三人の顔を見ながらふふっと笑うのだった。
「そうだ。我々がここを離れない理由もそれが全てだ。我々は王国の存在を知る唯一の集団、ここを離れて先祖代々の伝承を絶やすわけにはいかぬ。いつか王国の全容が明かされるその日まで」
「ですが、なぜ私たちにそのような秘密を?」
俺が尋ねると長は傍らに置いていた木製の杯を手に取り、果実を絞って作ったジュースをぐいっと喉に流し込んだ。
「しばらく前から砂漠の上を飛んでいた男と女がいたと北の方から噂が流れてきた。目撃者によれば、ふたりは死の砂漠の方角へと飛んでいったらしい。それを聞いてワシはピンときた。神の力を濫用した何者かが、王国の謎を探っていると」
クリシスとカーラだ。やはり先を越されていたか。だが、まだ原初教典は探し当てていないらしい。クリシスは創造の神であり、この世のあらゆる事象を把握する力は持っていないのだ。
だがのんびりしている暇は無い。すぐにでも追いつかねば、いずれ神殿を見つけてしまう。
「かつては国を滅ぼした神の力、再び使われることがあってはならぬ。そなたらも奴らを止めに来たのだろう? 特にそこの娘からは人間を凌駕した神の息吹さえ感じる」
長がリーフをちらっと見た。この爺さん、やはりただ者ではない。
「ワシはそなたらに託してみたい。このような老いぼれにできることは無いが、幾度もの苦難を乗り越えてここまで来たであろうそなたらならこの世界の理を守れるかもしれん。だが発つのは明日にしなされ。今日はゆっくり休んで砂漠越えに備えるがよい」
そこまで言うと長はゆっくり立ち上がり、よろよろと俺たちの後ろまで歩くと入り口の布を払った。
外の強い光が屋内に差し込んだので思わず目を覆っていると、先ほどの若い男がジュースを載せたお盆を持っていた。
翌朝、アコーンに跨った俺とリーフはじっと地平線の彼方を見越していた。
昨日より形の変わった砂丘と、ぽつぽつ飛び出た巨岩以外は何も無い。空さえも雲一つない青一色。死の砂漠の名は伊達ではなかった。
「本当に、ここでお別れだね」
リーフの手をぎゅっと握りながらチュリルが感慨深く言った。
「ありがとうチュリル。お前がいないとここまで来れなかったよ」
リーフもチュリルの手を握り返してぶんぶんと振る。
「絶対帰って来てくれよ! それから旦那、これを持って行ってくれ」
チュリルは懐から取り出したものを俺に押し付けた。皮製の古い手袋だ。
「これは……マグノリアの!」
「ああ、剣を持つ時の滑り止めに使える。それに何より、マグノリアさんの想いの詰まった戦勝のお守りだよ」
ムサカの猛将マグノリア。結局俺はあの男を超えることができなかった。絶望の縁にあっても諦めず、最後まで相手に立ち向かう勇気。
俺は手袋を握りしめると、自分の手にはめる。身体の大きい者同士、手のサイズはあまり困らない。使い込まれて手によく馴染む。
まるで彼がすぐ傍で守ってくれているような安心感があった。
「ありがとう、俺は必ず原初教典を探し当てる。そして必ず帰って来るぞ」
チュリルの頭をポンポンと撫でると、彼女は猫のように目を細めた。
「さあ行こう!」
こうして俺たちは死の砂漠へ、最初の一歩を踏み出したのだった。




