第十六章 さかのぼれ大河
パスタリア王国やエリア国の南方は海に面している。その海を越えた先に待ち受けるのが南の大陸だ。
実際には内海の東端にあるタルメゼ帝国と地続きではあるが、北方とは気候も文化もあらゆる面で大きく違うために人々は誰しも隔たりを感じている。
この南の大陸は太陽に近いだけあって気温も高い。内海沿岸部はあまり変わらないが、少し南へと進めばタルメゼ帝国以上の乾燥地帯が広がり、その中心に死の砂漠が位置している。
それより南は太陽が一年中頭上を通過する土地だと言われ、探検家によると広大な草原や年中雨の降りしきる鬱蒼とした大森林があったという報告もあるが、今一つ調査は進んでいない。ただそんな場所でも独自の生活様式を持った人々が暮らしていたという。
沿岸部以外は過酷な環境にあるせいで内陸はほとんど未知のままだ。西方諸国もこの大陸を迂回して東方への航路を開拓したのは大変だっただろう。だがそれ以上に内陸部を突き進むのは危険なことなのだ。
そんな南の大陸に足を踏み入れた経験は、長い行商に出ていた俺もまだ無い。
「あれがタメイヤ王国、大河の三角州に発展した南の大陸随一の都だよ」
甲板に立つチュリルの指先には、石造りの大灯台が見えた。黄色い砂を固めたような風合いの街並みの中、飛び抜けた高さを誇る巨大な塔だ。
「ついに来たか、南の大陸」
自然の俺の握り拳にも力が入る。ここからはまったく未知の領域であり、いつ何が起こってもおかしくない。
「チュリルはタメイヤ王国に行ったことはあるのか?」
船首にギリギリに立つリーフが振り返った。ぞくぞくと武者震いしているが、その目はキラキラと輝いている。
「ああ、だいぶ小さい頃に二回だけね」
「食べ物は美味いのか?」
リーフは笑っていた。もう帰れるかわからない旅だと言うのに、こいつは。
「ああ、豆のスープが美味しいよ。砂漠が近いけど大河が流れて土地も肥沃だから農作物がよく育つんだ。想像する以上に豊かな国だよ」
聞いて涎をたらーっと垂らす。だがリーフが楽しんで食事ができるのも、もう残り少ないかもしれない。そう思うと冗談のひとつも叩けなかった。
「美味いなあ、何だこのねばねばした野菜は! 鶏肉との絡み具合が最高だぞ!」
今にも涙さえ流しそうな表情でがつがつと下品に皿の中の煮込み料理を貪るリーフ。こんな姿男が見たら百年の恋も冷めるだろうな。
この都の住民であろう浅黒い肌に日光を遮るぶかぶかの衣服をまとった人々もリーフの食べっぷりを見て呆然としていた。
「モロヘイヤ気に入ってくれたかい? じゃんじゃん食べなよ、あたいのおごりさ」
チュリルもけらけらと笑って料理を口に運んだ。さすが商家の娘、礼儀作法は叩き込まれたのだろう、所作は洗練され零すような粗相も全く無い。
タメイヤ王国首都マハに上陸した俺たちは、早速港近くの料理屋で南の大陸の味覚を楽しんでいた。豊かな土壌と水を活かして多くの野菜や果実が得られるこの国は、料理も風味豊かでバリエーションに富んでいた。
この地に都が生まれたのはなんと3000年前。古代パスタリア帝国ですら成立は1600年前であることを考えれば、とんでもない大昔だ。
この南の大陸が人類の発祥地であり、最初に文明の興った場所であるという口伝も嘘ではないだろう。かつてこの付近は緑の森に覆われ、人々は獣を狩って果実をもいで生活していた。だが徐々に南から砂漠が押し寄せたために逃げた人々は三角州に定住し、やがて村から国へと発展していったそうだ。
今では森林は南の内陸部奥地より流れ出づる大河の畔に僅かながらに残されただけとなったが、砂漠には当時の遺構がそこら中に眠っているらしい。
原初教典はそんな大河を遡ってさらに砂漠を抜けた先に残されている。
今後こんな飯にありつける機会ももう無いだろうな。
俺はゆっくりと鶏肉を口に運び、よく噛んでその味を舌に覚え込ませた。
セリム商会の積み荷を降ろし、マハの港で停泊して一晩を過ごした翌朝、俺たちを乗せた船は三角州の奥へと向かった。
砂を含んだこの黄色の大河をいよいよ遡るのだ。
南の大陸の北半分はさほど巨大な山岳地帯が無く、一様に平坦な乾燥地帯が延々と続いている。その間を貫く大河はまさに命の源であり、重要な交通路でもある。
何十もの船が余裕で行き交える穏やかな水面を切り裂き、俺たちは上流を目指した。
岸辺に畑や果樹園が整えられ、身を寄せ合うように四角形の家が密集している以外は広大な黄色の大地だ。いくつかの港に立ち寄りながらこの変わり映えの無い風景を5日、突き進んだ所に目的地がある。
大河の中腹、死の砂漠に隣接した小さな港町コシャ。おそらく地上の人間が居住する最も乾燥した土地であろう。
「ここは空気が乾いて、なんだか気持ちいいな」
川辺の風と夕陽が合わさって、なんとも心地のよい気分にリーフは大きく腕を伸ばした。濁った水面に太陽の光が反射して幻想的な煌めきを放っている。
こんな呑気なリーフだが、内心はどう思っているのだろう。俺にはその背中が妙にいじらしく見えた。




