第十五章 いざ死出の航海へ
あれから三か月が過ぎた。
「ああ、ようやく準備完了だよ。乗りな!」
港に着けた帆船の甲板からチュリルの小さな顔が覗き、桟橋の俺たちを船に招いた。
ここはシシカの港町。まだ冬だと言うのに高く昇った太陽のおかげでそう寒くはなく、明るい光が白い町並みを輝かせていた。
「いよいよ出発ですか。本当、あっという間ですね」
俺の後ろで豪勢な衣装に身を包んだ男がぼそっと話した。サルマの町の名士、カシア・セリム会長だ。
あの後タルメゼ帝国に向かった俺たちはサルマに急いだ。そこで町の復興に尽力するセリム商会会長に出会い、会長は久々にチュリルと再会するなりドロップキックを受けながらも俺たちを歓迎した。
南の大陸はほぼ全てがアラミア教国で、西方のゾア神教の国々とは国交を結んでいない国がほとんどだ。有事の際にも入国は制限されている。
そこでチュリルの発案で、タルメゼ帝国の実家に戻って商船を使って南の大陸に入れてもらうよう頼み込みに来たのだった。国教がゾア神教になったものの国交自体はまだ生きており、南の国々にとっては北方の資源を手に入れる数少ない手段として放棄することはできないのだ。
会長はすぐさま船を手配した。商品を積み込み、いくつかの国を寄港しながら大河を遡って大陸の奥地を目指すルートだ。この航路を使えば死の砂漠の目前まで船で行くこともできる。
だが最初にこの計画を聞いたとき、会長は目を点にして言葉を詰まらせたのだった。本気かよ、とでも言いたげに。
何度も南の大陸に出向いているという船乗りたちも死の砂漠が行先だと聞いて表情を暗くした。その内の年配の船乗りが俺とリーフの前に出てこう話したのだ。
「悪いことは言わない、あんたたち死に急ぐのはやめておけ。死の砂漠から生きて帰って来た者は誰一人いない。ラクダでさえもあそこは越えられないだろう。何千年も雨の一滴すら降らない乾いた大地に、細かい砂の海が広がっている。しかも絶えず吹き荒れる熱風で砂丘が常に動くので方向感覚すら正常に保てない。あそこは生きた人間の行くような場所ではない」
恐ろし気に語る男に、他の船員たちは震えていた。だが俺はずいっと男の前に立つと、堂々と返した。
「送ってくれるのは港まででいい。あとは俺たちだけでなんとかする、あんたたちの手を煩わせるようなことはしない」
こうして商会は船を出してくれることになったのだった。
「さあ行こう、オーカス!」
リーフは俺の手を引っ張った。細く白い、それでも力強い腕。
俺は頷いて歩き、渡された板を伝って甲板に上る。
「オーカス、やっぱりお前は不思議な運命に導かれているようだな」
甲板にはよく知る顔があり、俺とリーフは腰を抜かした。シシカから密航した時に世話になり、その後ラルドポリスからリタ修道院まで運んでくれたあの船乗りだ。
「お前、どうして船に乗る度にこうも会うんだよ?」
「それはこっちが聞きたいくらいだよ、どうも俺とお前は運命共同体らしいな」
「その言い方は気色悪いからやめろ!」
はははと笑う船乗り。そしてちらっと桟橋に目を移す。
そこに立っていた人々の顔も、よく知るものばかりだった。
「オーカスさん、絶対にこの世界を守ってくれ!」
セリム商会の小太りの商人が腕を振り回して飛び跳ねる隣で、黒いターバンを巻いた男があきれた目をしながらも俺に手を振っていた。
「あなたたちにゾア神の救いがあらんことを」
カルナボラスから駆けつけたマホニア司教は部下のコシブとアルケビアも連れていた。ゾア神を深く信じ貧者の救済に奔走する彼らは宗教の垣根を超えて慕われていた。今は真正ゾア神教でクリシスに騙されていた過去を恥じながら、贖罪のためにさらなる活動に励んでいるという。
「オーカス君、必ず帰ってきておくれ。そしてまた酒を飲み交わそうではないか」
まるで老いを感じさせないサルベリウス様もここにいた。実質真正ゾア神教が崩壊したことでリタ修道院に僧侶たちを縛り付ける必要は無くなり、彼らは元いた場所へと戻ったのだ。だがサルベリウス様は禁断の書を研究しながら守るため、今後も孤島に残る決心を固めたそうだ。たまには新設された定期船でラルドポリスにも足を運んで好物の酒を買い込んでいるらしいが。
「私にできることはこれくらいだ。あとは汝らの勝利を祈ろう」
何人もの護衛に守られた妖艶な貴婦人が手を振った。フォグランド公国公爵だ。傍らには息子のエリーカも剣を腰に差して控えている。この数ヶ月で一段と凛々しい顔つきに成長している。セリム商会に余分な金を払ったのは公爵だ。それだけではない、俺たちがここに来るまでも公爵は資金面での援助を買って出てくれた。一度落とされた隣国テリヌの復興にも尽力したいであろう時期にわざわざここまで来てくださったことには本当に頭が上がらない。
「オーカスさん、特製の火薬もたくさん積んでおきました。何かの役に立ててください!」
テリヌ国から駆けつけたナズナリアもいた。相変わらず動きやすそうなズボンを着込んで隣にいる公爵とはまるで対照的だ。テリヌ国の研究所は幸いにも侵攻の被害を免れ、ナズナリアは無傷で争いを凌ぐことができた。今は公爵に連れられて急いでここまで大量の火薬を運んできたのだ。また改良を加えてさらに爆発力に磨きがかかったらしい。
俺はひとりひとりの顔を見ながら手を振った。そして最後に背中の大剣の柄を軽く握り、その感触を確かめた。
故郷での戦いで粉々に砕けた俺の剣はもう無い。だが今俺は兄貴とともにいる。
それだけではない、斑状の鋼を刀身に持つこの両手剣は、多くの猛者たちに伝えられてきている。彼らの想いが込められたこの剣には、まるで神に匹敵する霊的な存在が宿っているようにさえ思えた。
俺は決して一人じゃない。皆の想いを背負ってここにいるんだ。
不幸にもこの場に来られなかった者たち。マグノリア、シルヴァンズ、傷だらけの男……それにスレインとスオウ。彼らの顔も鮮明に蘇る。
「さあ船を出すぞ、係留をほどけ!」
船長の声で船乗りたちは動き出した。初速をつけるために手漕ぎで船が発進する。
「必ずだぞ、必ず帰って来てくれ!」
「この世界を守るんだ!」
桟橋の声はさらに沸き立った。そんな人々に、俺とリーフは「ありがとう、任せろ!」と全身を使って返していた。
そしていよいよ帆が広げられ、その身に風を受けて船が加速すると、見る見るうちに皆の姿は小さくなっていく。それでも見えなくなるギリギリまで、彼らは腕を振って俺たちの船出を祝福した。
その間、俺たちは彼らに応えてずっと手を振っていた。
もう……これで大陸の大地は踏めないな。
俺もリーフも、この旅は片道切符なのだと予感していた。
原初教典にさえたどり着ければそれで良い。なんとかしてあの書物を守り抜きさえすれば。
このことはチュリルも感づいていたのだろう、何度も俺たちの背中を見つめながら、はあと深いため息をついていたのだ。
そんな最後の船旅の間、海は恐ろしいまでに静かだった。
これにて『第三部 遥かなる故郷へ』は終了となります。
次回からはいよいよ最終節。作者の私としても寂しいですが、同時にさっさと書き上げたいとの思いもあり複雑な気分です。
さて、オーカスの故郷であるクーヘンシュタットについてはドイツ内陸部のシュバルツバルトのイメージで描いています。実際には雪がそんなに降らない場所のようですね。
またあまり登場しなかったテリヌ国はフランス、マグノリアの故郷であるムサカ国はギリシャをモデルにしています。
次の舞台である南の大陸とはつまるところアフリカ大陸のことです。
ここでオーカス最後の冒険が繰り広げられます。ここまで読んでくださった皆さん、もうしばらくこの物語にお付き合いください。
ありがとうございます。




