第十四章 はるかなる故郷クーヘンシュタット その8
なぜリーフがゾア神に選ばれ大いなる知恵を授かったのかはわからない。純粋無垢な信仰心が神に気に入られたからか、プラートと戦ったからか、理由は不明だ。
ただリーフがゾア神の声を聞ける唯一の人間であり、カーラが真正ゾア神教を名乗りながら実際には兄弟神であるクリシスをこの世に降ろしていることは事実だ。
「カーラはお前から大いなる知恵を分け与えてもらったと言っていたが、まさかカーラは自分で原初教典を読むつもりなのか?」
「そうだろう。人間の力でクリシスをこの世に降ろすような芸当はできない。私の授かった力を自分にも取り入れて、神の言葉を使ったがために皆の命を媒体にしてクリシスを出現させたのだ」
「神の言葉を使ったって、リーフは何ともないのかい? 文字は読めるかい?」
「ああ、私は問題無い。それにカーラの術はまだ完璧ではなかった。もし完全に真似されていれば、クリシスは傷つけることすらできなかっただろう」
もしもそうだとしたら、マグノリアの消滅の力さえも全く効かないわけだ。考えてみるとぞっとする。
「そしてクリシスはカーラと原初教典を使い、ゾア神が長い年月をかけて作り上げてきたこの世界の秩序を破壊し、自らの思い通りになるよう世界を創り変えるつもりだ。すべてがクリシスと、自身を信奉する人間たちの思うがままの世界を」
「それにしてもなぜゾアとクリシスの兄弟神はそこまで仲が悪いのだ? 原初教典は二人で定めた内容ではなかったのか?」
「問題はその後だった。クリシスは創造の力を使い、ゾアの同意無く新たな生命体を作り出したのだ。自分たちを崇拝しない人間を殲滅するために」
「新たな生命体?」
俺もチュリルも首を傾げた。
「炎を吹き、風を起こし、大地を切り裂く。私たちの知る獣とは何もかもが違う、獰猛な魔獣たちだ。それらを使って地上を一新しようとしたクリシスと、人間の自己発展を薦めるゾアと意見を違え、神同士の争いが起こったそうだ。人間も巻き込んだこの戦いで王国は二分された。結局はゾアが勝利しクリシスを封じることができたそうだが、王国を火の海に変え、滅亡の一因となったらしい」
「プラートやカーラはクリシスの創造の力を使って人々に奇跡を起こしていたのか」
「あたいらのこの力もいわばこの世の理を歪めたものさ。ゾア神だと思っていたら、別の神から力を授かっていたんだね」
チュリルが冷たくなったマグノリアの手をそっと頬に当てながら呟いた。真正ゾア神教の崇拝していた神があんな奴だとわかれば、誰もついて来などしなかっただろう。
超常的な魔獣の力とは、どうも真正ゾア神教の祝福を受けた人間の能力に類似している。あんな能力を持った魔獣など考えただけでも恐ろしい。
「だが、今この世に現れているのはクリシスだ。なぜクリシスは封じられて忘れられたのに、今ではゾア以上の力を持っているのだ?」
「王国は滅び、その後気候の変動で砂漠に呑まれ、原初教典の存在も誰も知らないものとなった。だがクリシスは神、封じられたとはいえいつか復活する。ゾアは後にクリシスが復活した際、人間がゾア神の唯一性を持って自らの力で立ち向かえるようセラタに預言を下した。それが1600年前。だが当初ゾア神教は迫害の対象になり、なかなか広まらなかった。1200年前にはダクティラに預言を下し、名前を変えながらも本質的には同じ神を敬うアラミア教をもしもの時のために広めた。その両方ともがクリシスの騙った真正ゾア神教に蹂躙されてしまったのは予想外だっただろうが」
「そこがよくわからないよ」
チュリルがマグノリアの手を広くて大きな胸にゆっくり置いた。
「結局神てのは何なんだい? 神同士での争いって、結局はやたらスケールのでかい兄弟喧嘩じゃないか。
それに人間が巻き込まれるなんて、バカげているよ」
「……人間も物語を書き上げた時、登場人物や舞台を自由自在に操ることができるだろう。神にとってこの世界は自分の創り上げた箱庭であり、私たちは物語の登場人物なんだ。神は私たちより上位の存在であるだけで、自らの意思を持ち喜びもすれば悲しみもする、本質的には変わらない存在なのだ」
「そんな、劇の脚本で意見が食い違ったレベルのことだってのかい?」
わなわなと震えるチュリルの目には怒りと悲しみが混在していた。
「……肯定はしたくないが、本当にその程度の行き違いらしい」
「ふざけるんじゃないよ!」
チュリルがリーフにつかみかかった。
「そんなくだらない理由でも、あたいら人間は何人も死んで人生を滅茶苦茶にされたんだよ! 物語の登場人物は作者が続きを書かないと明日も生きていけないのに、あたいらは自ら意志をもって生きているんだ!
いくら創造主であっても、あたいらとは別の存在なのに、そんな横暴が許されていいわけないだろ!」
真っ赤な目を向けられても、リーフは黙ったままたじろがなかった。そして静かに、それでも確かな声で答えた。
「……ゾア神も……同じように考えた」
ここでチュリルは首を振って手を離した。
「理を弄ってクリシスをこの世と神の世界の狭間に封じ込め、ゾア神は決してこれ以上人間たちに手出しをしないよう誓った。預言者セラタにのみその事実を伝え、クリシスの名は真の出来事を記した禁断の書にのみ登場した。だがクリシスはゾア神さえにも気付かれぬよう暗躍していたのだ」
「どうやったんだ?」
「急速な発展を遂げた古代パスタリア帝国の終焉から700年、人類の進歩は停滞した。大地震、感染症、大旱魃に大寒波……あらゆる災害がそれまでの理を大きく外れて起こった。すべてクリシスが裏で力を使っていたからだ。だが、人間はそれらを乗り切りなんとか今日まで生き抜いた。そしてとうとうクリシスは強硬手段に出た。従来の教団が腐敗していたこと利用し、ゾア神を名乗って世界に混乱を招いた」
ここでリーフは一旦息を整えた。熱くなった話し方も、冷めたように落ち着く。
「あとは私たちも知る通りだ。プラートから始まった真正ゾア神教は瞬く間に広まり、さらにカーラへと預言者は変わった。散逸した禁断の書を解読し、自分の存在に真っ先に気付いたラジローに乗り移ったことで、今度こそゾア神からの干渉を逃れこの世界を思い通りに支配しようとカーラに近付いたのだ」
俺たちは黙り込んだままだった。あまりに突飛でありながらも、疑うことはできなかった。
「これからカーラとクリシスは原初教典を見つけて、不完全ながらも大いなる知恵を使って読み上げるだろ。そうなればこの世界は何もかもが変わり、クリシスに逆らう者は皆殺しにされる。だから私は行くつもりだ、このゾアの意思に従って。我々は神の被造物であってもそれぞれ意思を持った別個の存在であり、それぞれの人生を送る権利があるのだから」
ここでリーフは俺たちに背を向けた。太陽が沈み、森の空に星が浮かぶ。そして太陽の代わりに夜の地上を照らす満月を、じっと見据えた。
「原初教典の保管されている場所を私は知っている。大いなる知恵を授かった者として、たとえ一人でも私はそこに行こう」
「それはどこだ?」
間髪入れず俺が尋ねる。リーフは振り返る事なく答えた。
「はるか南の大陸、数千年の間ただ一人の人間さえも拒み続けた死の砂漠。熱砂と岩山に囲まれた古代王国の遺跡に、その文書は残されている」
「俺もそこに連れて行け」
ここでリーフは目を丸くし、俺に振り向いた。
「お前ひとりだけに世界を託させたりはしない。それに村をこんなんにされたんだ、俺はこれ以上クリシスとカーラの勝手を許さない」
「あたいもだよ」
腕を鳴らす俺の隣で、チュリルも胸に手を当てた。その手にはマグノリアが身に着けていた手袋が握られていた。
「亡くなる直前、マグノリアさんに言われたんだ。もうお前を縛るものは何も無い。やりたいように生きなさいって。あたいのやりたいことは旦那と同じだよ」
すっかり涙も枯れてしまったのだろう、真っ赤な目をこちらに向けて今度はにやりと笑うチュリル。俺も微笑み返し、互いの意思を確かめ合った。
リーフは慌てて俺たちに腕を伸ばした。
「そんな、生きて帰ってこれるかはわからないぞ! もうこれ以上お前たちを神の争いに巻き込みたくない」
「そんなもの知るか。俺は個人的に恨みがあるんだ、それに……」
のっしのっしとリーフに歩み寄り、その肩にポンと手を置いた。リーフは驚いて「あっ」と声を漏らしたが、俺の手を払いのけはしなかった。
「どこまで行っても俺はお前の味方だ。クリシスだろうが魔獣だろうが、最期の最期までお前を守り抜いてやる」
リーフの眼から涙が溢れた。そして俺の手の上にゆっくり手を置くと、それを強く握り返したのだった。
「おじさん、行っちゃうの?」
部屋に戻ると甥っ子が立っていた。一番年上の8歳の男の子だ。聞き耳でも立てていたのだろう。
まだ小さな身体がしゅんとさらに縮こまっている。今朝父親のキリフを失ったばかりなのに年下の子どもたちを守り抜いて女たちの手伝いに奔走していた気丈な子だが、本心は大泣きしたかったに違いない。
俺は黙って顔を反らしてしまった。
今日一日だけでこの村の男手は一気に消えた。村人が領主に相談に行ったようだが、この貧しい領地では解決策も限られている。貴重な男手として、俺はここに残るよう無言の圧力を受けていた。
そんな俺までがここを出ていくとなれば、いよいよこの村も終わりだ。罵倒されることは覚悟の上だった。殴られても文句は言えない。
だが甥の口から飛び出したのは思ってもいない言葉だった。
「母さんが、これをおじさんにって」
甥は壁に立てかけた者を指差した。それを見て俺はすぐには言葉が出ないほど驚いた。
「これは……」
兄貴の剣だ。村一番の剣士に代々受け継がれる決して錆びない名剣。
「おじさんはこれから世界を守る旅に出るんだ。この村だけじゃない、世界中のみんなを守るために。僕はおじさんを……誇りに……思うよ」
話ながら、甥の目からぽろぽろとこぼれ始める。鼻水に濡れ、顔もぐしゃぐしゃになった。何度も言葉に詰まりながら、甥は言い切る。
「父さんの……絶対に仇を取ってね!」
「ああ、約束しよう!」
俺は甥の手を握りしめた。意外と大きい手だ。将来きっと強い剣士になれる。




