第十四章 はるかなる故郷クーヘンシュタット その2
「一体どうしたんだこんな所まで?」
作業でぼろぼろになった手を差し出し、マグノリアとチュリルを馬から降ろす。
「大変だ、テリヌ国が陥落した」
「な……ウソだろ、テリヌ国が?」
相当感情を抑えているのだろう、マグノリアが冷静に告げたので、俺は取り乱しそうになっても踏みとどまることができた。
テリヌ国はアイトープ国と隣接する農業国で、資源も軍備も豊富な強国だ。そこが陥落したなど、俺たちには想像もつかない事態だった。
エリア国侵攻の失敗以来、真正ゾア神教が力を失いつつあるとは風の噂で聞いていた。マグノリアを中心に反真正ゾア神教の義勇軍が各国軍と協力し、占領された町を奪還して回った成果だとも聞いていたが、なぜエリアが落とされたのか。弱体化した教団はゲリラ的な活動を続けていただけではなかったのか?
「精鋭部隊が首都の城内に潜入し、王を人質に取られたことで形成が逆転したらしい。そして奴らの目的はリーフだそうだ」
頭が痛くなりそうだ。あいつらがまだリーフを追っているとなれば、その内ここに来るのは確実だ。
しかしなぜ今更? ラジローは何か目的があったようだが、奴はカーラにもその目的を放していないようだし、奴が消えた今となっては誰もそのことを知る者はいないはずではないのか?
「まだ偽の預言者を探しているのか?」
「違う、どうも狙いはそこではない。『原初教典』の解読にはどうしてもリーフに授けられた神の知恵が必要だとカーラ達が言っているそうだ」
初めて聞く単語だ。『原初教典』だと?
突然現れ、深刻な話をする大男に、村人たちはどよめいている。ここはどうも場所が悪い。
「続きは俺の家で聞こう。こっちだ、リーフもいる」
温めたヤギのミルクはマグノリアたちの神妙な面持ちをほんの少しだけ和らげはしたが、口を開くと先ほどと同じ戦場の男の顔に戻る。
「最近おとなしかった真正ゾア神教が再び活発になり、各所でゲリラ的に町や修道院を襲っているのは聞いているだろうか?」
「ああ、それは聞いている。でも勢力も随分小さくバラバラになって、今じゃあそこらの野盗とたいして変わらないとは聞いていたが」
「私たちもそう思っていた。だが、実際は違った。すべて奴らの計画の内だった。我々が各地に散らばってゲリラと戦っている間に、精鋭が王城に忍び込んで国を奪ってしまった。国王を人質に取られては正規の兵士たちは動けない」
「それを良いことに奴らはどんどんこっちに向かっている。カーラはリーフがここにいることをもう察知しているんだよ」
チュリルがミルクをグビグビと飲んでプハアと気持ちの良い息を吐いた。
俺は机に並んで腰かけていたリーフをちらっと見た。どんより沈み、怯えたような表情だ。こんな顔、旅の途中では見たこと無い。
「そしてこれは奴らの一味から聞き出した情報なんだけど、どうもカーラたちはリーフのあらゆる言語を読む力を使って『原初教典』を解読するのが目当てらしい」
さて問題はこれだ。その『原初教典』てのは一体全体どんな代物だ?
「初耳って顔だね。まあ当然だよ、これは禁断の書で初めて存在のわかった書物なんだ」
「禁断の書? あれは解読したラジロー以外内容がわからないはずじゃ?」
そしてラジローも消えてしまった今となっては読み解ける者ももういないはずでは。
「いや、内容についてラジローは一部だが教団員に伝えていたらしい。そしてその内容はセラタ以前に下された預言の存在を示唆するものだった」
俺もリーフも、ただ呆然とした。暖炉の炎がパチパチと音を立てているのが異常に響いた。
「ちょっと待て、セラタはゾア神教の開祖だろ? それより前の時代に預言者が既にいたと言うのか?」
「そうだ」
マグノリアは静かに頷いた。
「人類の生まれ故郷と言われる南の大陸。今は沿岸部を除いて砂漠に囲まれているが、かつては緑豊かで高度な文明の発達した国もあったらしい。最初の預言者はそこに現れた」
「そしてその最初の預言者が書き記した神の啓示が『原初教典』なんだとさ。最も神の真意を率直に表現した文書。回りくどいけど、真正ゾア神教はリーフをそこに連れて行って解読をさせるつもりなんだよ」
俺は机を殴り付けた。リーフとチュリルがひっと驚き、マグノリアは腕を組んで苦虫を潰したような顔をしていた。
なぜだ、なぜ神はこの娘にこんなにも過酷な運命を与えるんだ?
「くそ、せっかくリーフもここで落ち着いた生活が送れていると思ったのに」
「マグノリアさん、敵の狙いは私なんだな?」
震える俺の傍らで、リーフは毅然と尋ねた。
「ああ恐らく。今こちらに私の同胞たちも向かっている。彼らにはすぐにリーフの護衛に徹してもらおう」
「いや、その必要は無い」
リーフは立ち上がった。
「私はここを出て行く。そしてマグノリアさんの仲間に加わらせてもらいたい」
凛と言い切るリーフに、俺はひどく戸惑った。
「おい、どうしてだよ、お前はここが気に入っているんだろ? ずっとここにいてもいいって言ってたじゃないか」
「だからこそだ」
リーフは俺から目を反らした。
「私はこの村が好きだ。ずっとここで暮らしたいとも思っている。でも私がここにいれば、いつか必ず真正ゾア神教が攻めてくるだろう。村の人たちを、子供たちを争いに巻き込ませるわけにはいかない」
「あいつらはみんな戦士として訓練を受けている。だから真正ゾア神教の連中にだって簡単には負けない!」
「それでも戦いに加わることに変わりは無い。お前は兄弟や甥が剣を持って戦うのに賛成するのか?」
リーフが珍しく声を荒げ、俺に鋭い目を向けた。
「それは……」
「オーカス、リーフの言い分もわかってやれ」
マグノリアが横から口をはさみ、俺は完全に黙り込んだ。
その日の午後、マグノリアの部下が集結し、静かな村はにわかに慌ただしくなった。
村の男たちに劣らない屈強な戦士たちの出現に村の者たちは大いに沸き立ち、力自慢の村人たちはたちまち力比べに興じては互いに打ち解けていた。
俺の兄貴のキリフに至っては自分と同じくらいの巨漢に腕相撲を挑み、互いに渾身の力を込めて押し合ったものの一向に勝負がつかないので、結局酒の飲み比べに移ってしまった始末だ。
だがこの賑わいも今夜で終わりだ。彼らは明朝、リーフを連れて旅立つ。
「寂しくなるな、せっかく馴染んできたのに」
暖炉の小さな炎だけで照らされた部屋の中、祝祭のために保管されていたビールをついばみながらドアにもたれかかっていた。
隙間から外のバカ騒ぎが漏れ聞こえているせいで、暖炉の前に座り込んだリーフが余計に沈んでいるように見えた。
「オーカス、身寄りの無い私をここまで良いようにしてくたのに、本当に済まない」
「いいんだって、お前の気持ちはよくわかってる。あの旅は大変だったが、お前がいてくれたおかげでとても楽しいものだったぜ。そもそもお前がいなくちゃ、俺はタルメゼの砂漠で野盗に殺されていたかもしれないからな」
木製の杯を片手に、俺は床板をずかずか踏みながらリーフの傍に歩み寄った。
そしてリーフの肩に後ろからポンと手を置く。温かい。それをリーフは細い指でそっと撫で返した。
「それに知っていると思うが、この村は冬場は寒いし食糧不足だしでろくなもんじゃねえ。ここにいたら真正ゾア神教が来る前に餓死してしまう確率の方が高い。お前にとってはマグノリアさんについて行く方が安全だよ」
「そんなことじゃない!」
リーフが俺の手を強く握った。肩をぷるぷると小刻みに震わせ、必死で耐えている。
「私は……この村を出るべきなんだ。それが一番だと自分でも分かっている。でも……オーカスと別れるのは辛い!」
リーフが振り返った。大粒の涙がぼろぼろと流れ出て、胸までぽたぽたと滴を垂らしている。
俺は返す言葉が見つからず、しばらくその顔をじっと眺めていた。
しばらく経ってから、リーフの肩を両手で包み込み、すっと優しく抱きしめて返した。
俺が今精いっぱいの気持ちを表現できる唯一の手段だった。
「俺だってつらい。本心ではお前とずっとここで暮らしていたい。でも、お前を止める権利は俺には無い」
自分の目頭もじわっと熱くなるのを感じた。だが俺は目をこすらず、より強くすすり泣くリーフを抱きしめた。
「なあに、俺もいつか行商を再開する。その時に必ず、運命の巡り合わせで会えるだろうさ」
「本当だな? 嘘だったら地獄の底まで追いかけて蹴りつけてやるぞ」
「当り前だ、嘘は大罪だぜ。神に誓おう、いつか必ず再会すると」
そして俺とリーフは互いに抱き合った。
直後、暖炉の薪から火花が飛び出し、音を立てて折れてしまった。途端に部屋が暗くなり、俺たちの姿は闇に溶けた。




