第十三章 戦乱の町パナット その7
息が上がっても足がもつれても、俺たちはとにかく体の奥底まで残った力を使って夜の平原を走り続けた。
あれほどの力、敵はどこに隠していたのか?
エリア連合軍も異変に即気付いたようで、遠くのテント群の中で松明の灯が忙しく行き来している。出撃の準備をしているのだろう。
だが俺は「助けてくれ」なんて叫ばなかった。口から出たのはこうだ。
「逃げろ、これはやばい!」
そう叫んだ直後だった。雲一つ無く星が煌めく夜空に突如黒雲が湧き、その一端が空から地上へと伸び始めたのだ。
あの形、見覚えがある。雲が漏斗のような長い腕を地面に近付けるにつれ、風が強く吹き荒れる。竜巻の予兆だ。
「急いで逃げろ!」
俺の声が届いたかどうかはわからない。だがいずれにせよ遅かれ早かれ、空から伸びた触手は宿営地のど真ん中に降り立った。
一瞬で何十何百ものテントが空に舞い上げられ、松明の炎も煽られ竜巻は巨大な炎の渦へと豹変する。その惨状を前に、俺たちは足を止めた。
「な、中将が!」
俺は叫んだが、足が動かない。これ以上下手に進めば俺まであの炎に吞み込まれるからだ。
「どうだ貴様ら、思い知ったか!」
突然の声に俺たちは振り返った。
だが誰もいない。右に左に首を動かしても、人影は無い。
「どこを見ている。ここだ」
まさかと思い上へと目を移す。なんとそこにはラジローが宙に浮いて静止していたのだった。
先ほどリーフの雷を受けて黒焦げになったはずなのに、すっかり元の青白い肌に戻って服だけが破れている。
ラジローは高らかに笑った。そこに謙虚で研究熱心な神学者の面影は無い。
「人間とは不便なものだ。この程度の芸当にも驚くとは、一体どのように生きているのか私には想像もつかん」
「……あんた本当にラジローか?」
「今は、な」
「今は?」
「鬱陶しいこのような肉体、普段は持たぬ。私は貴様らより上位の、貴様らの言葉で神と呼ばれる存在なのだ」
まさか?
俺もリーフもチュリルも、全員が顔を見合わせた。言葉は無い。喉の渇き。恐怖と畏怖。あらゆる感情が押し寄せ、何が何だか自分自身ですらすらわからない。
神がこのラジローという男の肉体を通じて、直接俺たちに話しかけているというのか?
神は姿を持たぬゆえ、俺たちがその存在を知ることはできない。これまでは預言者を通じてその意思を知ることができたが、このように直接人の身体を借りて降臨したことは聞いたことが無い。東方の旅で出会ったシャーマンならともかく、唯一神を信奉するゾア神教ではありえないことだ。
「神……となればあなたはゾア神なのでしょうか?」
恐る恐る、リーフが尋ねた。その目は涙が滲み、身体も細かく震えていた。
ラジローは不満げに唇を曲げると、片手をくいっと上げた。
突如、リーフの足元から巨大な石柱が地面を突き破って現れた。
驚いたリーフは「わわ!」と叫びながら後ろに転び、今しがた前触れ無く現れた自分の身長の倍以上ある巨石を唖然と眺めていた。
「不愉快だ、その名を口にするな! あんな奴が人間どもに慕われているなど、聞いて吐き気がする」
「あんな奴? それじゃあんたは何者だ?」
震えるリーフの肩に手を回し、俺はラジローを睨みつけた。ラジローの顔がさらに険しくなる。
「人間風情で口の利き方がなっておらんぞ。貴様らに名乗るような名など無い、強いて言えばこの世の創造主とでも言っておこうか」
「創造主はゾア神ではないのですか?」
汗ぐっしょりに濡れたリーフは怯えながらも気丈に尋ね返した。
「ふふふ、貴様らは神が唯一無二の存在だと思っているようだが、実際は違う。我々は決して一人ではない。それに気づいたのはこのラジローと言う男だけのようだな、人間にしては見所があるじゃないか」
そう言えばさっきラジローはそのようなことを言っていたな。あの時はリーフ奪還に神経を注いでいたのであまり意識を向けられなかったが、まさかそれが事実だったとは。
「さてそこのリーフとかいう娘よ、貴様は私とともに来てもらおう。おとなしくついてくれば仲間には手を出さぬぞ」
ラジローは手招きした。だが俺はリーフの前に立ち、背中の剣に手をかける。
「リーフをどこに連れて行くつもりだ!」
「どことでも良かろう、貴様らには関係無きことだ」
「リーフは俺たちの大切な仲間だ、例え神の言うことでもはいそうですかと従えると思うな」
俺は剣を抜いた。チュリルがリーフに駆け寄り、その肩に手をかける。
「チュリル、ここは俺が引き受ける。すぐに透明になって遠くに逃げてくれ」
相手に聞かれぬよう俺は二人に背中を向けたままささやいた。後ろの二人はきっと頷いてくれただろう。
「人間のくせに神を恐れぬとは、とんだ不届き者だな。貴様には神の力を見せつけてから殺してやるとしよう」
ラジローが吐き捨てた。俺がちらっと後ろを見ると、ふたりの姿は掻き消えた。
さあ今だ! 俺は走り出し、剣を振り上げると同時に思い切り地面を蹴った。両脚をばねにして跳び上がった俺は、空中で立つ神を名乗る男に斬りかかった。
だが俺の剣は空振りだった。ラジローは何の予備動作も無くふっと空中をスライドすると、その際に片手を広げて俺の方向に掌を向けた。
掌から猛烈な風が起こり、跳躍の最中にあった俺は強い横風を受け、体勢を崩す。そしてなされるがままに体の側方から地面に叩きつけられるのだった。
「神に剣を向けるなど人間にしては勇敢ではないか、褒めてやろう。殺すのはあの三つ編みの娘を殺してからにしてやる」
そう言うとラジローは別の場所へと飛んでいった。あの三つ編みの娘とはチュリルのことか?
痛みなど気にしている場合ではない。立ち上がった俺は直立の姿勢のまま空中を移動するラジローを追った。
そしてラジローはある地点まで飛ぶとそこで止まり、振り下ろした掌から強烈な光を発した。
「ぎゃあ!」
そのすぐ下から姿を現したリーフとチュリルが数メートル吹き飛ばされ、土煙を上げて地面を滑る。やはり神の前には祝福を受けた者の能力もお見通しのようだ。
「リーフ、貴様はこの世の理を解き明かすためにどうしても生きていてもらわねばならない。殺しはせぬ、私と来い。さもなくば今すぐ仲間を皆殺しにするぞ」
土まみれになって地面に伏せたまま、リーフはきっとラジローを睨み返した。
「それならば私も死のう!」
だがラジローはふふんと笑い返すだけだった。
「それでもかまわん。死にたいなら死ねばよい。ただその場合、仲間の死期が早まるだけだぞ」
向けられた冷徹な視線に、リーフは言葉が続かない。すぐ隣で気を失っているチュリルを横目に、固まってしまった。
「さあ最後のチャンスだ。私と一緒に来い」
リーフはチュリルの頭をすっと撫でると、ゆっくりと立ち上がった。そしてすうと息を吸い、心を落ち着けていた。
「分かった、では……」
「そんな話に乗るな!」
ようやく追いついた俺は叫んだ。それを聞いて言葉を止めたリーフに、憤怒の表情で振り向くラジロー。
「俺のことは気にするな、そんな奴の言葉に従う必要などない! そいつがゾア神でないのはわかり切っている、悪魔には従うな!」
ラジローは震えていた。腕をぷるぷると激しい怒りに堪えきれない。
「貴様、悪魔だと? この私を、悪魔だと?」
空が光った。当たりを包んだ雲が渦巻き、絶え間なく雷を落としていた。
「皆が皆ゾア、ゾア、ゾアと! 奴の名が残り我が名は何一つ残らない! 気に入らん、皆消し炭すら残さず殺してやろう!」
ラジローは両手を天に突き上げた。雲から一閃した強烈な雷撃が空間を貫き、俺たちの頭上に降り立つ。
俺は目を瞑った。大地が割れたような轟音に、瞑った瞼をこじ開けるような強烈な発光の連続。俺の悪運もとうとう尽きたか。
気が付いて目を開けると、俺は地面に伏していた。ここは安寧の地だろうか。乾いた大地に塩のにおいを含んだ風。想像とはずいぶんと違うな。まるでエリアの大地のような。
「な、何だいこれは?」
突如飛び込んだチュリルの声に、俺はがばっと起き上がった。
俺は死んでなどいなかった。目の前には意識を取り戻したチュリルが腰を抜かして驚いていた。
そしてリーフはと言うと、立ち上がって片手をかざし、その先から緑色のまばゆい光を放っていたのだ。
緑の光は宙に浮いたラジローを優しく包み込んでいた。それに抱かれたラジローは苦しそうに悶えている。
「く、くそ。この力は一体?」
「クリシス……大切な人間たちを蹂躙するのは許さない……」
リーフが淡々と話し始めた。その目の焦点はぼやけていたが、奇妙な安らぎがあった。
「まさかゾアか? 貴様、まさかこの娘に……ぐあああああああ!」
ラジローの身体がどんどんと消えていく。肉体が足元から小さな光へと細かく散り、辺りへと漂いながらかき消えていく。
「貴様、覚えていろ。私はまだ諦めてはいないぞ! いつまでも貴様を恨んでやる、ははははは!」
そう言い残して、苦しみつつも笑いながらラジローは消えた。
完全に肉体の一片すら見えなくなった後、リーフの掌から緑の光が消えた。そしてゆっくりと目を閉じると、そのまま眠りこけるように地面に倒れてしまった。




