第十三章 戦乱の町パナット その2
俺は窪みに沿ってのそのそと芋虫のように壁をよじ登った。
背中のチュリルはたいしたものではない。それでもやはり、10メートル以上のこの壁を力を上るのには相当根性が要った。
一見垂直かと思ったら微妙に反り返っていくこのネズミ返しのような構造は、高くなれば高くなるほどきつくなっていく。
姿が消えているのでゆっくり上って音さえ立てなければなんとかなると思ったが、最後にはただその場で留まるだけでも指先だけで全体重を支えている気分だった。
ようやく最後まで上り終えた時には叫びたい衝動にも駆られたが、それではすべてがパーなのでぐっと我慢する。
雨どいに足をかけ、見張りの兵士が離れた隙に素早く跳び移る。コツンと足音が鳴ったが、幸いにも見張りは気付かなかった。
こうして俺は無事に城壁を上りきったのだった。
「よくやったねえ旦那。あ、次右だよ」
背中のチュリルが既にへとへとの俺にガイドする。こいつの重みも辛くなってきた。さっさとどこかで下ろそう。
言われるがままに進み続けて、何度も見張りの兵とすれ違い、やがて市街に出た。
昼間の明るさであれば赤茶色のレンガで組み立てられた街並みは、ある種の侘しさと内なる情熱をくすぐられる趣深い光景であったろう。
だが今は夜で本当に良かった。潜入に便利だからではなく、荒れ果てた街を見なくて済むからだ。
沖からの砲撃を一方的に受けた市街地は悲惨なものだった。聖堂の屋根に大穴が開いて瓦が道に散らばり、元が小さな家は柱が折れてぺしゃんこに潰れていた。火災も発生し、骨組みだけを残して焼け落ちた家もたくさんある。
そして最もきつかったのが道端あちこちに転がる人間の死体だ。砲撃の直撃した教団兵のすぐ傍で、老人のやせ細った手が瓦礫の中から覗いていた。
赤子を抱きかかえたまま息絶えている女や、命は助かったものの言葉にならぬ言葉を発しながら町を走り回っている発狂した男など、現状は見るに堪えない。特に海沿いの地域はほぼすべての家屋が壊れ、今もなお火の手が上がって空を赤く染めている。
ここまでされておいて、よくもまあカーラも籠城を続けるものだ。それほどに援軍が強力なのだろうか。そしてエリア連合海軍も趣味が悪い。こうねちねちと攻撃を続けるくらいなら、いっそのこと総攻撃で落とせば良いものを。
俺ですら口を押さえたくなるような惨状の中でも、チュリルは思った以上に平然としていた。
生存者は皆砲撃の届かない地区へ逃げているためか、人目はまるで無い。手際よく俺と縛り合っている紐を切り、凝り固まった身体をストレッチでほぐしていた。
「リーフがいるとしたら一番守りの堅い領主の館だろうね。北西の高台だよ、気付かれずに急ぐよ」
「お前、タフだなぁ」
「ある程度予想はしていたからね。それにここ以上に悲惨な町もあるし、戦いがもっと激しくなったらこれどころじゃなくなるよ」
俺はチュリルと手をつなぎながら荒れ果てた町を抜けた。何度も大砲が撃ち込まれ、遠くから爆発音が聞こえた。幸運にも俺たちのすぐ近くには落ちなかったが、いつ大砲が飛んでくるのか冷や冷やしながらの移動は寿命が削られる。
貴族や高官の館の建ち並ぶ地区を抜けた丘の頂上。領主の館はそこにあった。
パナットは海に向かったゆるい傾斜に発達した港町だ。エリア連合国に属する伯爵家がここを治め、造船と交易で町に活気をもたらしていたが、真正ゾア神教の突如の侵略で早々に囚われてしまった。
傷だらけの男によれば館の一室で家族ともども軟禁状態にあり、城下の民には真正ゾア神教に改宗してエリア連合から抜け出すつもりだと発表されている。
当然これは嘘だ。ゾア神教の熱心な信徒の多いエリア国の一領主として、そのような愚行に走るとは民は誰も思っていない。現在でも真正ゾア神教が占拠する伯爵の館には、旧教を信じる民衆が押し寄せて伯爵の解放を叫んでいるらしい。
さて、敵の本丸である領主の館もこれまた城壁と同じく高い壁に囲まれている。鉄の門の前には兵士が立っていたが、連日の攻撃で疲弊しているのか、顔は黒ずみ生気をすっかり失っている。
俺たちは息を殺し、門の傍でしばらく待った。しばらくすると門が開き、別の兵士が出てくる。見張りの交代だ。
今だ! 俺とチュリルは歩調を合わせ、密着したまますっと中へ滑り込んだ。
広い庭には芝が敷かれ、その真ん中を土の道が蛇行している。多くの木々が規則性も無く植えられ、整然としているというよりは野原の一部をそのまま持ってきたと言った方がピンとくる。
そして道の続く先には、巨大な館が佇んでいる。瓦屋根と三角屋根で、城のような大きさに対して印象は可愛らしい。館中の窓から明かりが漏れていることから、かなりの人数が押し込められているらしい。
もちろん館の玄関にも兵士が見張っているが、先ほど交代した兵士が扉を開けたのに続いて容易に潜入できた。
舞踏会もできそうなエントランスの床はぴかぴかに磨かれ、壁は金色に輝いているようだ。夜なのに昼間のような明るさのこの空間、平民の俺にはどうも落ち着かない。
俺とチュリルはさらに奥へと進んだ。ずっと探してきたリーフが、とうとうこの館のどこかにいる!




