第二章 豪商の都サルマ その1
奇岩の谷を抜けると再びだだっ広い荒野が待ち受けていた。だが、同時に地平線の彼方にモスクの尖塔がほんの少しだけ頭をのぞかせているのを見ると、俺たちの歩調は自然と上がった。
元々サルマは陸路の交易で栄えた古い都市で、海路での貿易が主流になると徐々に存在感を失っていった。しかし縮小した現在のタルメゼ帝国においては海沿いの首都シシカに次ぐ都市として再びその地位を向上させている。
さて、街に近付くにつれて尖塔はさらに背を伸ばし、その足元からは石造りの城壁もせり上がる。この距離からでも見えるのだから、かなり大きな城塞都市だ。馬車の中に籠っていたリーフも小太りの男のすぐ横に座り込み、近付く街に目を輝かせている。
「お、城門の前で仲間たちが待っているぞ」
小太りの男が目を細めながら言った。確かに、城壁に穿たれた巨大な門の前に、小さな人影が集まっているのが見える。
小太りの男が手を振ると小さな影も両腕を振り回して返した。荷物の待ちわびた者たちが商会から飛び出して待っていたのだろう。
軽く10メートルはあろう城壁の前までようやくたどり着くと、セリム商会所属の商人たちが駆けつけ、安どと喜びの声を挙げた。
「よく帰ってきた! これで婚礼の宴は大成功だな!」
「あとは俺たちに任せろ、お前らはゆっくり休め……と、あんたらは誰だ?」
駆け寄ってきた男が目を丸くして俺とリーフを指差した。
「オーカスの旦那はロクム村からずっとラクダを率いてくれたんだ。一人病気でダウンしちまったんだけど、旦那のおかげで助かったよ。このお嬢さんは旦那の連れで、野宿の時には料理を振る舞ってくれたんだよ」
小太りの男がニコニコと答えると皆もおおよそ理解できたようで、俺に微笑みかけて口々に感謝の意を示した。
「それはすまなかった。お礼をしなくちゃな」
「ああ、期待しているぞ」
ここから荷物は商会へと引き渡されることになった。
アコーンと他のラクダをつないでいる紐をほどくと、商会のメンバーがラクダを一頭ずつ引いて城門へと戻る。御者も別の者が代わりに手綱を握り、リーフもいつの間にか馬車を飛び降りていた。
「リーフ、乗るか?」
俺は自分の背中を指差す。リーフがこくんと頷くと、俺が何も言わない内にアコーンはすっとしゃがみ、人間も簡単に跨れる高さまでその背を下げた。リーフは俺の背中をつかんでアコーンに乗ると、アコーンはすぐ立ち上がった。
今まで他のラクダとつないでいた紐がやはり邪魔だったのだろう、身軽になってウキウキしている。
そしてすべての作業を終えると、ひとりの商人が城門の脇で立ったままうとうとしていた兵士に話しかけた。兵士はびくっと体を震わせしゃきっと背筋を伸ばし「セリム商会の者だな、待ちわびたぞ。よし通れ!」と言って商会の面々を通したのだった。
婚礼の儀の後援者としての特権だろうか、普通なら通行料でも取られるところを俺たちは何の支払いも無く通ることができた。
さすが交易の拠点、城門をくぐったすぐそこには石張りの大きな道が整備され、その両側に旅の商人がテントを構えて各地の品々を売っている。日用の荒物から絢爛豪華な宝飾品まであらゆる雑多なものが同じように並べられ、その統一感の無さが通りの賑わいを盛り上げていた。
リーフも年頃の娘らしく軒先の商人が道行く人々に絹の染め物を広げて見せつけているのに目を奪われている。思えば今かぶっている布も盗賊に襲撃されたせいで細かい砂がこびり付いている。ここらで別の布を用意してやるのも良いかもしれない。
セリム商会本部は中央広場に面した一等地に建っていた。街のシンボルであるモスクを取って食うほど巨大で荘厳な造りで、壁面にも花の装飾の施されたタイルがびっしりと貼られている。
商会に招かれた俺とリーフは、大勢の人が巻物やら地図やらとにらめっこしている執務室を横目に、応接室へと案内された。床一面に髪の毛ひとつ落ちていない絨毯が占め、これまた重厚な木製の机と椅子が部屋の中央部に鎮座している。そして豪華な装飾の燭台が部屋の四隅に立てられ、きらびやかに彩られた部屋を余すことなく照らしている。
今まで大きな商会に足を運んだことはあるが、俺のような個人の商人がこのような部屋に入れられるのは滅多にない。どのような報酬が渡されるのか、俺は椅子に座りながらも踊り出したい気分だった。
しばらく待つと従者を引き連れ、恰幅の良い男が部屋に入ってきた。伸ばした髭は宝石のはめられたリングで束ねられ、皺ひとつない赤く染められたローブをまとっている。その姿には気品が醸し出され、一目でやんごとなき身分の人物であることがわかった。
「オーカス様ですね。私はセリム商会会長のカシア・セリムでございます」
そう名乗ると会長は深々と頭を下げた。俺は慌てて「滅相もございません!」と手を振りながら答えた。
セリム商会はタルメゼ帝国でも有力な商会のひとつで、その会長ともなればそこらの領主よりも実質的な権力は上だ。そんな人物が一介の商人の俺に接する、しかも頭を下げるとは今まで考えたことも無かった。
一方のリーフはと言うと慌てふためく俺を首を傾げて見ていた。大商会の会長がどれだけ偉いのか、実感が無いのだろう。
「私はただセリム商会の方々から荷物の運搬を頼まれて、それをしたまでです。商人として契約を履行するのは当然です」
「そうとは言っても、あなたの剣のおかげで盗賊の襲撃を逃れることができたと部下からはお聞きしています。お連れのお嬢様にも怖い思いをさせてしまったことでしょう。すぐに謝礼を用意します」
謝礼。良い響きだ。
このレベルの金持ちになれば俺への報酬などはした金に過ぎない。どれほどの見返りが得られるのか、期待し過ぎて心臓が強く脈打っている。
「それに疲れたでしょうし、本日は町一番の宿を用意しましょう。明日は領主のご子息の婚礼ゆえ、市井でも祭りが催されます。しばらく祭りをお楽しみになられると良いでしょう」
「あ、ありがとうございます!」
これは僥倖だった。報酬とは別に滞在のための宿まで用意してくれるとは、この会長はどこまで太っ腹なんだ!
「ところでお礼ですが、何でお渡ししましょう? 現金が最もよろしいかと思いますが、オーカス様も商人のようで、うちの商品をお渡しした方が都合がよろしいかもしれませんね」
「そうですね、このサルマでは絨毯が名産とお聞きしています。西方ではタルメゼの絨毯は珍しく高く取引されますので、絨毯をいくつか見繕ってくださいませんか?」
「承知しました。倉庫に連絡して、すぐに自慢の絨毯を用意しましょう」
会長は脇に控えていた従者に目配せすると、従者は「御意」と答えた。
「もっとお話ししたいところですが、残念ながら明日の準備のため今商会は大忙しです。宿にはすでに伝えておりますので、本日はごゆっくりお休みください」
「何から何までありがとうございます」
俺は気前のよい大商人に再三頭を下げた。
セリム商会の情報伝達は雷鳴のように早い。商会の出口には別の従者が俺たちを待ち構えており、広場に面した宿まで案内してくれた。
一階が酒場で二階から上が宿の四階建ての建物で、最上階はまるまるひとつの部屋になっている。そして俺たちはその最上階を会長の計らいで自由に使ってよいとのことだった。
「わあい、ふかふかのベッドだ!」
天蓋の設けられた巨大なベッドを見るなりリーフはとび込み、端から端まで何度もゴロゴロと行ったり来たりしている。今まで野宿と硬い絨毯の上でしか眠っていないこの娘にとっては極楽の極致だろう。
「おいおい、他人様の目の前だぞみっともない」
俺はリーフをつかんで床に立たせた。
それを見ていた商会の従者はふふっとほほ笑むと「絨毯は後ほど届けさせます。本日はごゆっくり」と言い残して出て行った。
「オーカス、私はこの上を離れないぞ!」
全身をベッドにこすりつけて柔らかさを楽しむリーフ。今日盗賊に襲われたことなどすっかり忘れているようだ。
「好きにしたらいいけどよ。それよりお前、欲しいものは無いか?」
「何か買ってくれるのか?」
リーフがベッドからとび起きた。
この難局を切り抜けられたのもリーフのおかげでもあるし、報酬も当てにして何か買ってやっても良いだろ。浪費はだめだが、恩に報いることもできないほどケチ臭いのはもっと嫌だからな。
「そうだ、服でも何でも。ただし高すぎるのはやめてくれよ」
「わかった、ありがとうオーカス!」
リーフはとび出したリーフはがっしと俺に抱き着いた。
女らしい抱擁と言うよりは勢いの乗ったタックルに近いが、うん、こういうのも悪くねえな。