第十二章 天空の公国フォグランド その3
「それでサルベリウス様ってばワインをバカスカ飲んじゃって、酔いつぶれちゃったのですよ。本当、若い修道士も呆れて部屋まで連れて行くのが大変だったんです」
「ははは、あの方はまだまだ若いな。ここにいた時と何も変わらないようだ」
ベッドで女子同士、肩を寄せ合っての会話が繰り広げられている部屋の片隅で、俺は丸まって小さくなっていた。
だって考えてもみろ。同じ部屋にいること自体おかしいほど高貴な人物が、すぐ近くで横たわっているんだぞ。それがリーフやナズナリアなんて相手にもならない色っぽい女性なら誰が平気でいられようか。
俺は花まで飛んできそうな会話から逃れ、そっと室外に出る。
薄暗い廊下にはひんやりと冷気が立ち込めて居心地が悪い。誘われるように俺はバルコニーへ出た。
すっかり静寂に包まれた街の所々で赤色の光がぽつぽつと灯され、夜空に瞬く星々と美しさを競い合っている。
俺は手すりに顎をのせ、ぼうっと街の夜景を眺めていた。
今すぐにでもここから駆け出して敵陣に乗り込みたい気分だった。一分一秒でも時間の惜しい今、こんな所で足踏みなどしている場合では無いのに。
今頃リーフはどうしているのだろう。無事に生きていれば良いのだが。
はあと深い溜め息を吐く。その時、奇妙な音がどこからか聞こえてくるのに気付いた。。
ヒュンヒュンと空を切る音。誰かが剣の素振りでもしているのだろうか。
こんな夜更けに熱心なことだ。部屋に戻る気分になれなかった俺は、ただ何となく音のする方向へと向かった。
巡回の兵士に挨拶をしながら階段を降り、中庭を取り囲む回廊を歩く。この中庭は寸分の狂いもなく切り揃えられた石畳に覆われている。
確かこの辺りから聞こえてきたはずだが。
暗闇でじっと目を凝らしていると、中庭の中心、巨大な花壇が設けられて各地から集められた花たちがこれでもかと咲き誇っているどのすぐ傍で、動き回る小さな影を発見した。
かなり小さな背丈。その影は片手に細長い棒を持ち、縦や横やと必死に振り続けていた。
まだまだ太刀筋は甘いが、健気なものだ。
「こんな時間に特訓とは、熱心なものだねえ」
いつの間にやら、俺は小さな剣士のすぐ傍まで歩み寄っていた。特訓中に話しかけられてびっくり驚いたせいで、漏れ出た灯りのよく当たる場所まで影は動いた。
10歳くらいの男の子だ。くりくりした目玉とくせ毛のある金髪が可愛らしいものの、真っ黒のタイツとシルクの上衣で身なりはきっちりしている。貴族階級の子弟だろう。
「どちら様ですか?」
男の子は警戒しながらも、しかし興味津々な様子で尋ねた。
「旅の商人だよ。ちょっと用事があって今日はここに泊めてもらっているんだ」
「商人さんですか? 大きくてすごく強そうだから、騎士様かと思いました」
「まあ、小さい頃から鍛えていたらな。俺の生まれ故郷じゃ男はみんな、でっかい剣を扱えるように厳しい訓練を受けさせられるんだ」
男の子の目が輝いた。
「お強いのですか? 私も強くなりたいです、手本を見せてください!」
そう言って手に持っていた棒を俺に押し付ける。古木を削った木刀で、見かけ以上にずしりと重みがある。
「いいぜ、危ないから離れていな」
片手でひゅっと試し振りすると、男の子は「わあ」と声を漏らした。
柄を両手で握り、じっと心を研ぎ澄ます。実戦では何度も振るっているが、素振りの実演は久しぶりだ。
「たあ!」
空の星を落とすつもりで剣を振り上げ、斜め方向に一閃、腕を振った。
どうっと風が起こり花壇の花が揺れ、男の子の髪の毛もふわっと浮き上がった。
「す、すごい! 剣の先生より速い!」
男の子の感激具合は相当なものだった。こうも目をキラキラさせられると、俺だって得意になってしまう。
「俺の流派は力でねじ伏せる剣だ。大人になれば使えるようになるさ」
「いえ、それでは遅いのです」
男の子が俺の腰にとびついた。服の裾をがしっと握られ、動けない。
「私は今すぐにでも強くなりたい。お願いです、私に剣の稽古をつけてください!」
真剣な目だった。強くなりたいという気持ちに嘘偽りは無い。故郷にもどこで噂を聞き付けたのか、旅の剣士が稽古を頼み込みに来ることは稀にあったが、そんな連中よりもこの子の方がよほど強い気持ちと使命感を持っているように見えた。
だが俺は毎日死にそうなくらいの訓練を受けてここまで剣を上達させたのだ。一朝一夕でできるものではないし、貴族のおぼっちゃまを相手にした行儀のよい教え方は何も知らない。
「おいおい、それは勘弁してくれ」
俺は手を振って拒んだが、男の子はじっと俺の顔を覗き続けた。その目の色が変わることは無かった。
「……それじゃあ質問だ。何のために強くなりたい?」
「大切なこの国を、そして家族を守るために」
男の子は即答した。
「気に入った! ビシバシ行くけど弱音吐くんじゃねえぞ」
「はい!」
こうして俺と貴族の少年の夜の剣術指南は始まった。
「違う違う、もっと後ろの足に体重をかけろ。蹴り足に力が入れば攻撃を入れる時にも避ける時にも、すぐに動くことができる」
「はい!」
剣を持つ男の子のすぐ後ろに立ってあれこれと注文を付ける俺はさぞうるさかったろう。構えの修正から素振り、敵の攻撃の避け方まで、とても一夜の間で身に付くレベルでないことを次から次へと教えた。それらすべてを泣き言ひとつ口にせず素直に従い、身に付けていった。
どれほどの時間が過ぎただろう、俺も少年も息を切らし、寒い山の夜だと言うのに汗だくになって石畳の上に腰を下ろしていた。
「やるなあ、是非ともうちの村のちびっ子たちとも戦わせてみたいもんだぜ」
「いえ、商人さんのおかげです。今日教えてくださったことは一生忘れません」
俺は剣でも商売でも、今まで弟子というものを持ったことが無い。だが、こういうのもたまには悪くないかもしれない。
互いに無言のままに笑顔を交わす。その時、少年が「おや?」とでも言いたげに目を丸くして、俺の後ろの方に視線を移したのだ。
「あれ? 今そこで何か動いたぞ」
少年は立ち上がった。じっと見つめるその先は、中庭を取り囲む回廊の瓦屋根の上。光が届きにくいので真っ暗な闇に包まれている。
真っ先に思い浮かんだのは真正ゾア神教のスパイだ。俺は石畳に転がる木刀を拾い上げ、男の子を守る形で剣を構えた。しかし音も無くこんな場所を動けるものか?
じっと闇の一点に目を凝らす。ついに黒一色の屋根と壁の間に、人型の影がほんの少しだけ動いているのが見えた。
そこか!
俺は花壇から小石を拾い上げ、屋根の上の人物に向かって投げつけた。
小石は見事にクリーンヒットしたようだ。ゴンと鈍い音がした後、人影は瓦屋根の斜面を転げ落ち、そのまま中庭の石畳に叩き付けられた。
「何者だ!」
倒れ込んでピクピクと痙攣する侵入者の下に駆け寄り、すぐさま胸ぐらをつかんだ。
そしてあっと声を上げて驚いた。
傷だらけの顔に長い茶髪を後ろで括り、笑顔なんて生まれてこの方一度もしたことの無いような無機質な表情。サルマの司教マホニアの側近をしていたあの男に間違いなかった。




