第十二章 天空の公国フォグランド その2
馬車に乗せられた俺は赤土の家々を横目に、じっと考え込んでいた。
ここの領主について俺は何も知らない。サルベリウス様は「事情を話せば協力してくれるはずだ」と話していたが、果たして一国の主が予言を賜っただのと胡散臭い話を一介の旅の商人から、しかも肝心の預言者は不在というこの状況できちんと願いを聞き入れてもらえるかどうか、非常に怪しい。
「まあ綺麗な屋敷! 大きな聖堂もありますよー」
ずっと待たされていた鬱憤を晴らすように、ナズナリアははしゃいでいた。もしかしたらこの娘もリーフに負けないくらいの図太さの持ち主かもしれない。
城門が開かれ、荘厳な佇まいの宮殿に案内される。積雪に備えた三角屋根の重厚な造りだ。何万もの色と質感の揃った煉瓦が積み上げられ、軒下には細かな彫像も突き出している。
「宮殿なんて初めてです!」
馬車を降りてもきょろきょろと辺りを見回すナズナリアを引っ張るように、俺たちは城の中へと入った。
磨かれた大理石の大広間を抜け、さらに奥へと案内される。領主に会うのだからと、服の中までチェックされ、さらに風呂にも入れられた。
すっかり清潔になった俺たちは白く薄い服を渡され、それを着るよう指示された。領主に危害が及ばぬようにとの配慮だろうが、いくらなんでもここまでするか?
いよいよ謁見の間の前まで来ると、付き添いの兵士が一際鋭い目を向けた。
「今、領主様は真正ゾア神教の侵攻で気が立っておられる。くれぐれも無礼のないように」
俺も、さすがのナズナリアもこの時ばかりは喉を鳴らした。成り上がりの司教などと違い、俺たちがこれから対面する相手は、生まれも育ちも次元の違う御人なのだ。
ついに華美な装飾の扉が開かれた。床も壁も天井も、すべてが光って見えた。ピカピカに磨かれた床には自分たちの姿が映り込み、真っ赤な絨毯が皺ひとつなく敷かれている。壁には古今東西の聖堂でも滅多に見られない見事な絵画が描かれていた。歴代公爵の肖像に、花咲く山々を描いた風景画は壁を埋め尽くしている。
広大な広間のその奥に、誰も座らぬ玉座が鎮座しており、その両側には何十もの兵士や貴族が控えていた。もちろん部屋の至る所に剣を持った兵士が立っている。
あまりに豪華でありながら、部屋に入った瞬間から俺は奇妙な殺気を感じていた。どうも誰かが俺たちに弓矢を向けているような、そんな気配だ。
「さあ、進め」
兵士が先を歩きながら呟いた。一歩一歩、足音が空間にこだまし、その度に部屋中の皆が俺たちに顔を向けているようにさえ感じる。
この床や壁の裏には、一体何人の兵が潜んでいるのか。少しでも怪しい動きをすれば、すぐさま切り捨てられてしまうだろう。緊張感で俺の胸は裂けそうだった。
それでも絨毯を進み続けてじろじろと部屋中の兵士や貴人の見せ物となっていると、玉座に近付いたところで先導の兵士が足を止めた。それに合わせて俺も止まる。
兵士はくいっと俺に目を向けると、「ひざまずけ」と小声で教えた。
慌てて手を床に着いて座り込むと、どこかからガラッと扉の開く音がする。
「公爵のおなーりぃー」
カツカツと床を踏む音。床に目を落としているので姿は見えないが、足音でさえ威厳に溢れている。
その足音は俺のすぐ目の前まで近付いたかと思うと、くるっと向きを変えたようにペースを乱して止んだ。
「面を上げよ」
女性の声だ。公爵夫人も同伴しているのだろうか、そう思いながら視線を上げると、俺はさらに驚いた。
玉座に座っていたのは貴婦人だった。歳は30前後の妖艶な美女。きりっとした目付きと通った鼻筋に、豊かな胸元がさらけ出されている。赤地に金糸の刺繍が緻密に描かれたドレスと、長い金髪を結いあげるサファイアのはめ込まれた髪飾りは対照的な色彩を放ち、例えパーティーの会場であっても一目で見つけられる存在感を醸していた。
このお方は単なる公爵夫人ではない。フォグランド公国の主であり、サルベリウス様の教えを受けたフラベリータ・フォグランド公爵だ。
「サルベリウス様からの書状を読ませてもらった。遠い所から苦労を掛けたな」
「ねぎらいのお言葉、ありがとうございます」
俺は深々と頭を下げた。ちらっと横目でナズナリアを見ると、彼女も同じように首を垂れていた。だがその顔は公爵が女性であることに驚きを隠せないでいるようだった。
まったく、あの爺さんもこういう大切なことは勿体ぶらずに素直に教えてほしいものだ。
「して本題に入ろう。あの書状に書かれていた通り、真正ゾア神教がプラートの後継者をまつりあげてエリア国への侵攻を行っているのは知っておる。そしてオーカス」
「は!」
名を呼ばれた俺は強く返事をした。包み込むような優しさを持ちながら威風堂々とした物言いに、額からたらっと汗が流れ落ちた。
「汝は旅の商人のようだが、なぜもう一人の預言者とともに旅をしている? その預言者がどこに連れて行かれたのか、見当はついておるのか?」
公爵の目つきが変わった。いかなる些細な嘘も見逃さない、この人には正直になるしかないと観念してしまうような眼。
「私は旅の途中でリーフ……いや、預言者を拾いました。しかしラルドポリスにて彼女が神の啓示を授かり、それまで読めなかったいかなる文字でさえも読めるようになるという奇跡を起こしました。そのために真正ゾア神教の預言者に追われる身となったのです。連れ去られた先は、我々も詳しくはわかりませんが、真正ゾア神教の預言者の下に向かうと言うのを聞いた者がいます」
現在知っていることを正直に話した。この謁見の間にいれば雰囲気に圧されて誰でもそうならざるを得ないだろう。
公爵は白く細い指を口に当て、しばし考え込んでいた。その挙措は聖母像のようにおおらかで、官能的でもあった。
「それでは聞こう。汝はこのフォグランド国に何の目的で来た?」
心なしか公爵は笑っていた。一方の俺は心臓がいつ口から飛び出すのか分かったものじゃない気分だ。
「私たちは真正ゾア神教の侵攻を止めるべく、公爵のご協力を請いに参りました。エリア国は既に大軍に攻め入られています。この地にも時期に敵兵は襲い来るでしょう。奴らには奇跡の力と称して超常的な戦い方をする者も混ざっています。油断すれば広告と言えどいとも簡単に落とされるでしょう」
「貴様、我らがフォグランド公国を愚弄する気か!」
玉座の脇に控えていた兵士が凄まじい剣幕で怒鳴り前に進んだが、公爵が眉一つ動かさずにすっと腕を上げると、すぐさま元の立っていた場所にまで引っ込んだ。
「そのようなつもりはございません。ですが連中はパスタリア王国とタルメゼ帝国の支配者に取り入って実質的に国を乗っ取っております。私もここに来る途中、港町パナットで進軍の様子を見ましたが、あの大軍は真正ゾア神教の兵だけでなく、支配した各国からも兵を集めているとしか思えません」
公爵が「ふむ」と頷いた。この御方は冷静な人だ。自国の軍備に驕り高ぶることなく、相手の戦力とこれまでの戦績から状況を把握しようとしている。
「汝の言うことに間違いは無さそうだな。我々も常に使いを送って戦況を聞いておるのだが、それに相違無い。フォグランド公国も動かねば、いずれ敵の手に落ちるだろう」
「それならば……」
「だがそれだけでは聞き入れられぬ」
俺の希望は脆くも崩れ去った。あまりの素っ気ない返事に、俺は反論すらできず固まった。
「フォグランド公国が今日まで独立を保っていられたのは何も山脈に守られていたからのみでない。南西のエリア連合、北東のテリヌ国ともに二重で軍事条約を結び、場合によっては両方の敵にも味方にもなるよう振る舞ってきた。山脈を抜ける唯一の道がこのフォグランドだが、今我々がここを離れれば真正ゾア神教の陸路での侵攻は誰が止めるのだ?」
公爵の考えは何も自国領内だけのものではなかった。テリヌという大国と渡り合うには相応の犠牲を要する。有事の際には陸路からの侵攻を真っ先に食い止める役割を公国は負わされているのだ。その盟約を破っては、仮に戦に勝ったとしてもテリヌ国からの信用は失墜するだろう。
「で、ですが……」
震える口をパクパクと動かす。だが、公爵は音も立てず立ち上がると、ふうと息を吐いた。
「今日はもう遅い。続きは明日としよう」
そう言うと俺たちに付き添っていた兵士がぎろりと目を光らせたので、俺たちは頭を下げるしかなかった。
俺とナズナリアは公爵の館の一室をあてがわれた。客室のようだが、ここは俺たちが今まで過ごしていた部屋とは別世界だ。
最高級の繊維と綿で織られたふかふかのベッドには天蓋の下がり、机や椅子にもびっしりと金細工が飾られている。壁には何枚も巨大な絵画が飾られ、サルマでセリム商会に泊めてもらった宿よりもさらに豪華絢爛な造りになっている。
「こんな布団で眠れるなんて、夢にも思いませんでした!」
話が通じないとすっかり愚痴をこぼしていたナズナリアも、部屋に入るなり上機嫌になった。
だが、こんな部屋を与えられても、俺の気分は晴れるものではない。一刻も早くリーフを助け出したいのに、ここで油を売っている場合ではないのに。
椅子に腰を下ろして深いため息をついていた時だった。最高級の樫の木を磨きその上から金属の細工をびっしりと貼り付けた扉が、コンコンとノックされたのだ。
こんな遅くに誰だろうか。俺は「はい?」と返事をした。
「私だ、入っても良いか?」
公爵の声だ。俺は目玉が飛び出しそうだった。何でよりによって公爵がこんな俺たちの部屋に?
だが来てしまったものは仕方ない。慌てて床とベッドに散らかした荷物をかき集め、目に着かない場所まで運ぶ。そして壁に掛けられた鏡で髪の毛の乱れを直した。
「ど、どうぞー!」
どぎまぎしながらもゆっくり扉を開けると、今度はもっと驚いた。
なんと公爵は寝間着姿だったのだ。薄い亜麻布のガウン一枚で、豊かな胸はドレス以上に露出している。
「すまないな」
無防備にも俺の脇を通り抜ける公爵。茫然とした俺は口の中がしょっぱくなっているのを感じて我に返った。いつの間にやら鼻血が流れ出ていたのだ。
「汝は修道女であろう?」
公爵はベッドの上でぽかんと口を開けているナズナリアの前に来ていたずらっぽく笑いながら尋ねた。
ナズナリアは言葉も出ないのか、無言でうんうんと首を縦に振った。
「それならばサルベリウス様はご健在か? 久しく文を交わしておらぬので気になっていたのだ。サルベリウス様のこと、詳しく教えてはくれぬか?」
「え、ええ、それはもちろん。朝まででもお付き合いしますよ!」
しどろもどろしながらも、ナズナリアは笑って答えた。




