第十二章 天空の公国フォグランド その1
アコーンの背中に揺られて早二日。距離は短いから二日ほどで着ける、なんて強がってみせたのを俺は後悔した。
「だ、だるい……寒い……」
高山植物の生い茂る草地に横になって、ナズナリアが近くの川から汲んできた水をちびちびと飲む。余計に寒くなるが、こうでもしないとぶっ倒れてしまいそうだ。
今までずっと温暖な地域ばかりを歩いてきたせいか、俺の身体はすっかり寒さに弱くなっていた。標高が高い場所は夏でも気温が低く、高木も育たない。真夏から間をはさまず一気に冬まで時間を移された気分だ。
アコーンも暑さと乾燥には強いが、この寒さには参ってすっかり縮こまっていた。急峻な斜面には何度も足を取られそうになるので、登山道に入ってからというもの、俺たちはずっとアコーンから降りて手綱を引いていた。
すっかりへろへろになっている俺とは対照的に、ナズナリアは軽い足取りで先を進んだ。アコーンと俺を見かねて、荷物もいくらかナズナリアが背負っている。
この娘ならラルドポリスの鉄人テッソとも仲良くなれるんじゃないのか?
「あら、きれい」
突然、ナズナリアが岩の隙間から顔を出す白い花の前にしゃがんだ。高山植物のエーデルワイスだ。平地ではまず見ることができない星形の美しい花だが、死にかけの今の俺にはそこらの雑草と変わらずに見えた。
「この花、薬草にもなるんですよ。山で暮らしていた頃はよく摘みに行っていました」
ナズナリアは愛でるように花びらを撫でた。目を移してみるとここは太陽がよく当たるのか、なだらかな斜面に一面の花畑が広がっている。
赤白黄と小さいながらも彩られた花たちを前にして、懐かしき血が騒いだのだろう。ナズナリアは駆け出し、荷物を放り投げて花の絨毯に身を投げ出した。
「わあい、これが外なんだ!」
植物をクッションにごろごろと転がりまわる。きっと幼い頃はこういう場所で遊びまわっていたのだろう。
だがその向こうにそびえるのはえぐるような急斜面と草すら生えぬ断崖絶壁。
まだこれを登るのか……俺の中で何かが折れ、はしゃぎまわるナズナリアの傍で腰を落とした。
船を浮かべれば道となる海と違い、山はどの時代でも移動の妨げにしかならない。この大山脈のおかげで古代パスタリア帝国の侵略が阻まれ、西方諸国ではエリア半島だけが長らく支配の手から逃れ続けられたという側面もあるのだが、今の俺からすればこんな山脈なぜ神はお作りになられたのかと呪うばかりだ。
「見、見えたー!」
一気に爺さん化してしまった俺が、久々に声を上げた。
尾根伝いに歩き続けてようやく、山影の間から石造りの塔が現れたのでこれまでの苦労が報われた気分だ。
眼下には周囲を山に囲まれながらも少しばかりの平地が形成され、そのお椀型の土地の中に所狭しと家屋が密集している。
フォグランド公国。急峻な山脈の中に生まれ、公爵家が統治するこの地域は、半島と大陸の陸上を行き来する者たちの中継地点として800年以上の歴史を刻んでいる。
南西に海洋国家エリア、北東には豊かな農業国テリヌと大国に挟まれた緩衝地帯でありながら、天然の要塞に守られて独自の立場を築くことができたのがこのフォグランド公国だ。交易の要として繁栄してきたのは、歴代領主の外交手腕の賜物だ。
そしてサルベリウス様はこの国の現領主が幼い頃、家庭教師として公爵家に仕えていたそうだ。
本来俺のような下賤の民が領主と話すなど天地がひっくり返りでもしなければ無理な話だが、サルベリウス様の書状を見せればなんとかなるかもしれない。状況は綱渡りだが、それに賭けるしか方法は無かった。
雪の白と植物の緑に囲まれたすり鉢状の大地に、赤煉瓦と赤土の壁が建ち並んでいる。しかしその建築は簡素なものではなく、美麗な装飾が施されなんてことない家屋でさえ立派な聖堂のようだ。エリア半島から運ばれた良質な粘土と、テリヌ国の優れた建築技術が合わさって生まれた奇跡の風景と言えよう。
尾根に沿って築かれた外壁の上では要所要所で兵が目を光らせている。錆びひとつ無い鎖帷子と鏡のように磨かれた鈑金がこの小国の経済力と平安を物語っていた。
「ラクダだと? お前、どこの者だ?」
関所を守る兵が俺たちを止めた。すかさず荷物からギルドの証明書を取り出し見せつける。
「商人だよ。確かこの許可証ならフォグランドでも使えるはずだろ?」
「確かに使えるが……何を売りに来た?」
「香辛料だよ。東の国から仕入れてきたんだ」
そこで兵士はじろっと俺をにらんだ。
「なぜエリア国側から入ってきたのだ? エリアの主要な港は真正ゾア神教のせいですべて閉鎖しているはずだぞ」
さすがにこの程度の情報はすでにつかんでいるか。こんなに早く出したくはなかったのだが、俺はサルベリウス様の書状を開いた。
「実は領主様に用があってね。これは領主様と懇意にしているあるお方からの書状でね」
兵士は書状と俺の顔を何度も見比べ、ついに書状を奪い取ると、控えていた若い兵士に手渡した。若い兵士は心得た様子で馬に飛び乗ると、すぐさま市街へと駆け出した。
「別室で待っていろ。それまで荷物とラクダは我々が預かっておこう」
関所のすぐ近くに建てられた小屋に連れ込まれ、兵士の監視の下待つこととなった。
「なかなか入れてくれないですね」
ナズナリアは退屈した様子で頬を膨らませた。
「こんな時世だ、入国が厳しくなるのは当然だ。それに平時でも突然領主に会わせろなんて奴が現れたら、どこの誰だって警戒するさ」
今頃外では荷物の検査、城では書状の検査が行われているはずだ。
山の夜は早い。太陽も沈み星がきらめき始めた頃、ようやく兵士が入ってきて「失礼しました。どうぞこちらへ」と畏まって外へ出されたのだった。
驚いたことに、小屋の前には馬車が用意されていた。それも質素なものではなく、屋根に豪華な金属の装飾まで付いた立派なものだ。
どうやら俺たちは領主への謁見が許されたらしい。




