第九章 絶海の聖堂 その8
「うう、わ、私は……」
焼け焦げた樹木のようになったシルヴァンズの目に光が戻った。ついにカーラの術が解けたのだ。
「気が付いたのか!」
俺は黒い塊となった猛々しき司教に駆け寄り、その肩に触れた。当然、まだまだ燃えるように熱い。だが、俺はその手を離すことはできなかった。
修道士たちはすぐさま武器を構えたが、身を寄せ合う俺とシルヴァンズを見て剣を鞘に納めた。
「修道士の皆、それにオーカス、私は取り返しのつかぬ過ちを犯してしまった」
シルヴァンズの声に力は無く、臨終間際の老人のようだ。目に宿された光も徐々に弱々しくなっていく。
「カーラに操られていたんだ、今はしゃべるな!」
そんなこと気にするな、とはとても言えなかった。操られていたとはいえ多くの修道士を殺したのは事実。この場にいた修道士はナズナリアを含め、全員の目に哀れみと憎しみの念が込められていた。仲間を殺された恨みをすぐに晴らそうという気概に溢れている。
「私はゾア神に仕える身でありながら、同じ志を持った者たちに手をかけてしまった。言い訳はできない、祝福によって得た力のおかげで、このような姿になっても死なずに生きているのは私に下された天罰なのだろう」
そう言った瞬間、シルヴァンズの左手の指がぽろぽろと崩れ始めた。かつての面影などどこにも無い、固まった泥のような欠片が石の床を黒く染める。
「もういい、しゃべるな!」
「その通り、しゃべってる暇は無いわ」
鋭い女の声、ナズナリアではない。同時に狭い室内を弓矢が飛び抜け、修道士の一人の胸を貫いた。
礼拝堂に続く廊下から例の弓使いの黒髪の女が矢をこちらに引きながらじりじりと歩み寄っている。その後ろには傷だらけになりながらも、五人ほど兵士たちがついていた。
「な、仲間たちは?」
修道士の一人が腰を抜かす。女は笑い捨てると、長い舌を出して唇をなめ回した。
「大がかりなトラップと命も惜しまない特攻に私たちもなかなか苦労したわ。でも最後に勝つのはやっぱり強い者よ」
女の後ろでは兵士たちが興奮状態にあった。
「シルヴァンズ様、なんとおいたわしい……貴様ら、生かしてはおけん!」
「さあ、次は誰を射抜いてやりましょうか?」
女が弓を極限まで引き、弧がさらにしなった時だった。
「司祭アイビーよ!」
力のこもった男の声に、女は手を降ろした。叫んだのはシルヴァンズだった。
「司教シルヴァンズの命令だ、今すぐこの島から撤退せよ!」
際立った白い目だけを部下に向けたシルヴァンズは、死にかけとは思えない気迫に満ちていた。
「シルヴァンズ様……正気を取り戻されましたか?」
アイビーと呼ばれた女司祭はじっとシルヴァンズを見下ろしていた。それにシルヴァンズはゆっくり頷いて答えた。
「シルヴァンズ様が戻ってこられた!」
兵士たちが武器を投げ捨て、女の後ろから飛び出した。そのまままっすぐ司教に駆け寄り、取り囲む。
「お前たち、このような戦いに巻き込んですまなかった」
「いえ、司教が元に戻られただけで我々は十分です」
「神に楯突くカーラ様に従う義理はもうありません、今すぐ帰りましょう」
兵たちは涙ながらにシルヴァンズの術が解けたことを喜んだ。この者たちはラルドポリスのシルヴァンズの部下たちで、心身ともに司教によって鍛えられた猛者たちだ。あの統率も日々の訓練と司教への信頼によって実現していたのだろう。
「さあ、船へお連れします。私につか……?」
シルヴァンズに手を差し出した兵士の胸から血飛沫と矢が飛び出した。
後方ではアイビー司教が弓矢を撃ったのだ。
「な、なんてことを!」
そう言った兵士の口の中にまっすぐ矢が突き刺さった。目にも止まらぬ早撃ち。
「シルヴァンズ様がそのようになってしまわれた今、指揮権は司祭である私に移ったわ。預言者を騙る女を殺せばどんな願いでも聞き入れてもらえるのよ、こんな好機、逃すわけが無いでしょう」
「そんな勝手なこと許さない! シルヴァンズ様は退けと言われたのだ、私はしたが……」
立ち上がって反論した次の瞬間には、兵士の額には深々と矢が刺さっていた。
「残念ながら私はカーラ様の言う現世での救済にも神の意向にも興味は無いの。今まで地べたを這いずり回って生きてきたのだから、何不自由ない生活にあこがれても別にいいじゃない」
「なんと身勝手な。あなたはシルヴァンズさんや兵士の皆さんのお気持ちが分からないのですか?」
二階のナズナリアが強く咎めた。アイビーの矢がナズナリアに向けられたその直後、近くにいた修道士が飛びかかった。
だが女司祭はすぐさま狙いを目の前の修道士に定め直し、その喉を撃ち抜いたのだった。
「言ったでしょう、神がどう考えているかなんてどうでもいい。プラート様とカーラ様にに預言を下したのは本当にゾア神だったのか皆気になっているようだけれども、私にとってはそれだってどうでもいいことだわ。この腐り切った現世で生き抜いていくためには手段を選んでいてはいけないのよ」
「あんた、本当にそう思っているのか?」
アイビーが目を丸くしてこちらを見た。仲間をも殺す非情さと、神をも蔑ろにするこの女に、俺は感情を抑えきれなかった。
シルヴァンズを抱きかかえて座り込んだまま、顔を司祭に向けた。
「本当に神のことなんてどうでもいいと思っているのかって聞いたんだ。貧しくてひもじい時でも、あんたは一度も神にすがらなかったのか? 神の名の下に、多くの兵士があんたに従っていたのに、そいつらのことをどう考えていたんだ?」
「くどいわね。さっきも言ったけど回答はただ一つ、どうでもいい、だわ。ちょうど動ける兵士も残り少ないし、手柄はすべて私が独り占めにしようかしら。でもその前に、あんたの減らず口だけは塞いでおきたいわね」
女がこちらに向けて弓を引き、俺は覚悟を決めて目を瞑った。その時、腕で抱えていた司教の重みが無くなった。
ヒュンと矢の放たれた音がしたが、身体に痛みは走らない。おかしいなと思って目を開くと、そこには膝より下の失われた足を器用に立て、不完全な両腕を広げて俺を守るシルヴァンズ司教の姿があった。
胸には弓矢の先端が刺さっている。変化した鋼鉄は既に弓矢も防げないようになっていた。
「シルヴァンズ様!」
兵士も修道士も、皆の視線を受けるシルヴァンズ。その顔は痛みに震えていたが、勝ち誇ったように笑っていた。
「この者には預言者を守ってもらう責務がある。今ここで殺させはしない」
「……この黒焦げ人形が!」
女は完全にブチ切れた。休むことなく弓を引き矢を浴びせる。
胸、腕、頭。シルヴァンズは剣山のようになるまで矢をその身に受け続けた。腕は落ち、身体の各部からぼろぼろと黒い塊が落ちて積もる。だがそれでも倒れることは無かった。
ついに司祭が矢を使い果たすと、今度は腰の短剣を抜いてシルヴァンズに襲い掛かった。
シルヴァンズの目がきらりと光った。腰を曲げ、全身をばねにして女に飛びかかったのだ。脚を失いながらもこの躍動、完全に人間離れしている。
突然のことに女は対応できず、短くなった腕で腰をホールドされるとそのまま先ほどシルヴァンズが打ち続けた柱に背中からぶつけられる。
「ええい、放せ!」
血相を変えたアイビーは何度もシルヴァンズの肩に短剣を突き刺した。黒いすすのような破片をまき散らしながらも、司教の拘束はなお解けない。
女が暴れ、柱のヒビからぽろぽろと意志の破片が落ち始める。ついに、今にもへし折れそうな柱からミシミシと奇妙な音が鳴り始め、部屋の中にいた誰もが後ずさり始めた。
「皆、よく聞け」
シルヴァンズはもはや原型をとどめていなかった。細く残った腕と頭部、上半身だけがかろうじてかつての人間の形を思い出させてくれる。
「カーラ達は西のまだ真正ゾア神教を受け入れぬ国々を徹底的に潰していくようだ。既にエリア国には船で大軍が送られたと聞いた。他の国々も危ない」
初耳だ。俺たちがラルドポリスを離れ絶海のこの島に来ている間に、そこまで話は進んでいたのか。
「祝福を受けた戦士たちを擁する軍団だ、表からぶつかっても勝つ見込みは無い。だからこそリーフをゾア神の真なる預言者として喧伝し多くの者を従え、立ち向かうのだ!」
「そんな、危険すぎる! リーフを預言者として皆に知らせるなんて!」
「そうだ。だがこのままでは世界は戦乱に包まれよう。このような奇跡の力など、本来人間に与えられてはならない力なのだ。それを止められるのはリーフだけだ。私は彼女に賭けてみたい、そのためにはこの命も捨てようぞ!」
そう言い終えた瞬間、柱は倒壊した。石の天井が落ち壁が崩れ、俺たちは急いで逃げた。
女司祭の「きゃー」と切り裂くような叫び声が聞こえたが、それも崩壊の音に巻き込まれてかき消されていった。
轟音が止み、舞い上がった砂埃とそこら中に転がる巨大な石材に視界を塞がれながらも、俺は自分が隣の部屋に逃げ込んだことを知った。隣では修道士と兵士が重なるように倒れている。二人とも気を失っているようで、目が覚めたら驚くだろうな。
階段のあった吹き抜けは完全につぶれ、三角屋根に乗っかっていた瓦屋根が目の前一面に広がっていた。ここは礼拝堂とは別の柱で支えられていたようで、鐘楼にいた女たちは揺れこそはしたが無事だろう。
命を賭して俺たちを守ったシルヴァンズ。司教のことを思うと、俺は目頭が熱くなった。
「シルヴァンズ……リーフのことは俺に任せろ!」
安寧の地へと向かったシルヴァンズに、そしてゾア神に俺は祈った。




