第八章 太陽の都ラルドポリス その4
聖堂に帰った俺はリーフを理科の図書館に引っ張っていった。
とにかく目についた本を手あたり次第、手に持てるだけかき集めると机の上にどんと置いた。
「リーフ、これを読んでみろ」
なるべく色んなジャンルの本を集めたつもりだ。
その内の一冊に手を伸ばしたリーフは表紙を見て眉をしかめた。
「『10日間の喜劇』? なんだこれ、戯曲か?」
やはりタイトルは読めているようだ。パスタリア語で書かれたこの書物は比較的読みやすい内容だ。
だが読みやすいというのはあくまで識字階級にとっての話、民の大半が読み書きもおぼつかないこの国で、この書物を楽しめる者は限られている。
読み書きの手ほどきを受けたことが無いリーフに読めるはずが無いのだ。
だがリーフは本をめくると、しばらくじっと読み耽っていた。目が左から右へと動き、また左から右へと動きを繰り返している。明らかに一文字一文字を追っていた。
しばらくするとぷっと失笑した。
「貴婦人が屁をこいた? なんだこれ、笑わせるなよ」
読めている。しかも内容まで理解して頭に入っている。
「おい、こっちも読んでみろ」
俺は読んでいた本を取り上げ、別の書物を出した。かなり分厚い本だ。
「うーん、『セラタの預言第87段に関する10の考察』だと? 神学者の読むような本じゃないか」
そして紙をめくると、またも1ページ目から読み始めた。ふんふんと何度も頷き、時々「なるほど」と納得までしていた。
「オーカス、学者はこんなことも考えているのか。偶像崇拝を禁じても聖人像を崇拝しても良いのはなぜかと自問自答している。私はここまで深く考えたこと無かったから、すごいなぁ」
ここまで難解な内容も理解できているのか。いつの間にか俺の身体は汗ばんでいた。
「それならこれも!」
俺は乱暴に別の本を突き出した。これはさすがにどうだろう、内心では読めないでくれとも願っていた。
「んん『北方神話集』だって? パスタリア語とは違うようだな」
読めてしまった。リーフがこの文字を見るのは初めてのはずなのに。
「リーフ、これは俺の故郷アイトープ国の文字だ。文法もパスタリア語とはやや違うから、何も知らないお前が読めるはずが無い。それなのに……!」
俺は机を思い切り叩いた。乾いた音が食らい図書館に響き、ひゃっと声を上げてリーフが椅子から転げ落ちた。
「どうしてお前は読めるんだ! なぜ、いつの間に!」
俺はなぜ自分が怒鳴っているのかすらよくわかっていなかった。ただ、リーフに何かとてつもない事態が起こっている。そしてそれは平穏ならぬ、実に面倒なことだと確信していた。
「何の騒ぎですか?」
上から蝋燭を持った男が駆け下りてきた。神学者のラジローだ。
この聡明な男なら、もしかしたら理由が分かるかもしれない。
「ラジロー、これを見てくれ!」
俺は書物を強引に開け、リーフに読ませた。再び目を動かして読み耽るリーフ。ラジローは何が起こったのかを理解したようだった。
「つまりリーフさんが突然文字を読めるようになったと。それも異国の文字でさえも?」
「ああ、そういうことだ。こいつはつい昨日まで酒場のメニューでさえ読めなかったのに」
文字をじっと追っているリーフから本を取り上げ、また別の書物を渡した。今度は一枚の羊皮紙で、巻いて戸棚に保管されていたものだ。
「古い書物だなあ。うわ、これ右から読むのか、ええと『タルメゼ帝国司法概論』? ここには東方の書物まであるのか?」
ラジローも俺も言葉が出なかった。この書物は何百年も前に書かれたもので、東方の古代文字が使われている。これを読めるのは学者でも特別な教育を受けた者だけだ。
「これは最早神の奇跡としか言い表せません。今日、リーフさんに変わったことはありませんでしたか?」
「変わったこと? そんな頭を打って賢くなるなんてことは……」
ふと一日を振り返る。心当たりと言えば、あの時しかない。
「リーフ、お前今日火山で気を失った時、夢を見たとか言ってたよな! もう一度その内容をよく話してくれ!」
「ああ、いいぞ。確か、花畑だ。いろんな果物のなる木も生えていた。でもって、すごくきれいな小川……そうだ、女の人の歌声も聞こえていた。そして変な声、姿は見えないが、誰かが語り掛けていたような気がする。もっとあそこにいたい気分だったな」
けらけらと笑いながら話すリーフ。俺はキッとラジローを振り返って睨みつけた。
ラジローはうんと頷くと、つかつかとリーフの横に歩み寄って、ゆっくりと話し始めたのだった。
「リーフさん、あなたの見たその光景は死後導かれる安寧の地とまるでそっくりなのです。ゾア神教の開祖セラタが初めて預言を授かった時もその光景を見たと伝えられています」
リーフの笑いが止まった。代わりに「へ?」と大口を開け、点になった眼を険しい表情のラジローに向けていた。
「開祖セラタは元はある別の宗教の僧侶でしたが、やがてその教えに疑念を抱き始め、真の救済とは何なのか迷い、山で修行を始めます。何百日もの山籠もりの末、ついに山頂で倒れたセラタは神の啓示を授かったのです。その時に見た光景が、安寧の地だったと」
「そんな、それじゃあ私の聴いたあの声は?」
震えるリーフを見下ろしながら、ラジローは頷いた。
「おそらく、神の声でしょう。あなたは神より大いなる知恵を授かったのです」
ここでリーフは泣き崩れた。
目をこすりながら声を漏らすリーフを連れて、俺とラジローは夜の街に出た。月の光と家々から漏れる灯りを頼りに、狭い石畳の道を抜けて港に着く。
波の跳ね返る音が心地良い。陸から吹き降ろす涼しい風も心を安らげてくれる。
「落ち着きましたか?」
ラジローはすっかり萎んでしまったリーフの背中をさする。リーフは二度小さく頷いたが、手は目を覆ったままだった。
ショックだったろう。何の因果か、自分が神の預言者になってしまうとは。
歴史上これまでにもセラタを継ぐ預言者だと偽って世間を騒がせた者はいたが、いずれも嘘だとバレて火刑に処されてしまった。
だが今回のこれは疑いの余地が無い。全知全能のゾア神により、いかなる文字をも読める力を授かっているのだ。これを奇跡と言わずして何と呼ぶ。
開祖セラタもその生涯の中で振れるだけで病人を治しただの洪水を治めたといった奇跡を成し遂げてきたが、それと同様の事態が今目の前で起こっている。
「リーフ、辛いのはわかる。でもな、もう泣くな。預言者としての重責もお前なら果たせる。きっと―—」
「違う、違うんだオーカス!」
リーフは首を横に振りながら俺の言葉を遮った。
「私は神が……神が何と言ったのかろくに覚えていないんだ! 啓示を授かったのに、神の意志に報いれなかったことが悔しいんだ!」
俺は黙り込んだ。こいつの信心は大したものだ、自分が神の言葉を聞いたことを受け入れている。
しかしその内容がすっぽ抜けているとは、いかにもこいつらしいと言うべきか。
さらに夜が更けて、ようやく泣き止んだリーフを聖堂に連れて帰ったものの、俺は一睡もできなかった。
まさかリーフが。神はなぜあの娘にこうも試練を与え続けるのか。そして何の目的で今の世に預言を下したのか。
今夜はリーフもラジローも、皆ろくに眠れていないだろう。




