第八章 太陽の都ラルドポリス その1
小さな村をいくつか経由して二日、俺たちはついに西海岸へと到達した。
低木茂る高台から見下ろす海と緑の大地の境界に、雪のような白い家屋が密集した都市が発達している。これこそがラルドポリス、海風と太陽の都。
遠くには噴煙を上げるドニア火山の美しい円錐形もくっきりと浮かび、いかなる聖堂の壁画でもこの美しさを表現することはできまい。
「どうだい、美しいだろ? せっかくだし美味しいタコ料理屋も紹介してやるぞ」
「美しいのは認めるが、タコはいらない」
すっかり仲良くなった御者とリーフが和気あいあいと話していると、後ろからアコーンに乗ってついていく俺はどうも居心地が悪い。妙にイライラするような、何だろうなこの気分は。
市域に入るとこの都の面白さがより分かる。海に面した崖下のわずかな平地に町を拓いたものだから、斜面に沿って階段状に都市が発達しているのだ。
土地の狭さは高さで補うため、一階建ての家はほとんど無く多くは三階以上の高さを誇る。
そして近くの採石場から得られる良質な石灰岩を利用した、真っ白な建築群は太陽の強い光を反射して、本来日陰になる路地裏まで明るく照らしている。
この都に太陽の届かぬ場所は無い。
よく日に焼けた肌を晒して家の修理に励む大工、もぎたての柑橘類を樽いっぱいに詰めて売り歩く商人、幼い子供の手を引いて二人で歌を口ずさみながらあるく母親。
決して豊かではないが、皆活気に溢れている。今まで旅をしてきた中でもここまで住民の表情が明るい町は見たことが無い。
「シルヴァンズ様によってこの町は生まれ変わりました。皆、シルヴァンズ様を尊敬しています。私もここの生まれです」
タコ好き男は背筋を伸ばし、誇らしそうに話した。
案内された場所は町一番の大聖堂だった。ここにシルヴァンズは住んでいるらしい。
白一色の壁に鋭い三角の屋根が正面から見ると三つ。壁面に穿たれた穴にはかつて石造りの聖人が立っていたのだろう。
華美な装飾は控えめだが、神聖さ漂う気品ある外見だ。
そして聖堂前広場には市場が開かれ、買い物客で賑わっている。
アコーンを厩につなぎ、御者の男が鉄製の扉を開けると、聖堂に外の光が差し込んだ。
木造の立派な祭壇を拝み、こちらに背を向けて一人の男が立っている。
頭を丸く刈った俺と同じ程度の身長の男だ。袖を切った白い服を着て、筋肉で隆起した腕を見せつけている。
一見して、戦士としての訓練を受けた肉体だとわかった。マグノリアの友とは、故郷での軍人時代のことなのだろう。
「シルヴァンズ様、オーカス様とリーフ様をお連れして参りました」
男はくるりと振り返った。猛禽のように鋭い目つきだが、怖いとは思えない不思議な雰囲気を漂わせている。
「よくやった、ありがとう」
シルヴァンズが微笑むと、部下たちは満面の笑みで「はい!」と返した。
「ラルドポリスへようこそ、オーカス殿。私はシルヴァンズ、この町で司教を務めている」
深々と頭を下げる。元ムサカの軍人だけあって動きには無駄が無く洗練されている。
「ああ、オーカスだ。そしてこっちがリーフ」
「司教様、初めまして」
リーフはぺこりと頭を下げた。聖職者を前にした時だけ礼儀正しいのはいつものことだ。
そんなかしこまっているリーフを見て、司教はハハハと笑った。
「セチア……いやリーフ、私と君は前にも会っている。マグノリアとともに酒を飲んでいた時、同席していたからな」
「そ、そうだったのですか! 失礼をお詫びします」
「そんなに堅苦しくならなくともよい。前のように……とは言っても覚えていないと思うが、フランクに接してくれた方が私としても気が楽だ。疲れただろう、ちょうど信者の貴族からもらった菓子があるので、一緒にいただこうではないか」
シルヴァンズが聖堂の奥へと俺たちを誘う。
だが、リーフは固まって立ち止まっていた。
「おいどうしたんだよ、俺たちも行くぞ?」
顔を覗き込んでやると、ダラダラとよだれが流れ出て床にしたたり落ちていた。菓子の一言でノックアウトされちまったようだ。
聖堂奥の小さな食堂。家財を最低限に並べた質素なこの部屋で、俺たちは極上の味覚を堪能した。
アーモンドに赤白青色とりどりの糖蜜を掛けて固めたこの菓子のことを司教はコンフェッティと呼んだ。舌に乗せた瞬間からコーティングされた蜂蜜が溶け出し、ナッツの風味と合わさって喉の奥まで温かくなる。
貴族はこんなものを食べられるのか。平民の俺たちとは大違いだな。
「私はこのまま人生終わってもいい。幸せな気分のまま死ねるならそれで」
リーフに至ってはこんな有様で、さすがの司教も笑いを堪えるのに必死だった。
「これを作った職人は私も顔見知りでな、今度会った時に女の子が絶賛していたと伝えておこう。さてオーカス殿、貴公をここに招いた理由だが……」
コンフェッティの甘味のせいですっかり忘れていた。俺はすぐさま目を細め、司教を見据える。
「マグノリアは元気かね? カルナボラス大聖堂での戦いについて、どんなことがあったのかじっくり聞いておきたい」
「なぜそんなことを? マグノリアさんを呼べば良かったんじゃないか?」
「ふふ、あいつは故郷に帰ってしまったのでな。真正ゾア神教はムサカ国でも民に支持されていたが、プラート様の死後、旧教の一部の僧が蜂起したらしい。混乱を治めるためにも、彼には故郷に帰ってもらわねばならなかったのだ」
シルヴァンズの眼は温和な聖者のものから、いつの間にか軍人のそれに変わっていた。
「モスク地下の文書の発見により、真正ゾア神教は正統性を失った。だが、本当にそうなのだろうか。貴公らに見せたいものがある、こっちに来てくれ」
司教は席を立った。感激の涙を流しながらアーモンドを口の中で転がしているリーフの腕をつかみ、司教を追う。
食堂の奥のさらに狭くて暗い廊下を抜けると、地下へ続く階段が待ち受けていた。
まさか、またも地下牢か?
カルナボラスでの嫌な思い出が脳裏に浮かぶが、この先から漏れ出る空気は乾燥しているのに冷涼で、あの時とはまるで違う。
長い長い階段を降りた先には、蝋燭の薄明りに照らされた空間が広がっていた。
「私は知りたい、神の真意を。そのためにプラート様にもここの存在は黙っていたのだ」
狭い階段を降り切って、俺とリーフは言葉を失った。
地下に広がっていたのは大図書館だった。
軽く十メートル以上の高さの壁一面すべてが本棚に埋め尽くされ、何十もの梯子が壁に掛けられていた。
広間には巨大な机が置かれ、ざっと見ただけで十以上の人間が本を読み耽ったり羊皮紙にペンを走らせている。彼らは俺たちの存在など意に返さないようで、書物の世界に浸かっていた。
そして奥にはまだ無限に空間が広がっているような闇が続いている。世界中の本がここに集まっているようだ。
「プラート様は旧教の文献の多くを焚書として消し去った。だが、それは正しいことだとは私には思えなかった。ゾア神がなぜ預言をプラート様に下したのか、神が考えを改めたのか、明らかに酢る必要があると思ったのだ。ここには近くの大学から密かに持ち出した資料を中心に、神にまつわる文献が保管されている。私は神学者を匿いながら、秘密裏に神の真意を解き明かそうとしていたのだ」
司教の眼にろうそくの炎が映り、赤く揺らめいている。その姿はある種恐ろしかった。
「そして発見された『ゾア神の独白』だが、実は発見以前からアラミア教とゾア神教の共通点に着目し、二神は同じ存在が名前を変えただけではないのかと考えていた神学者がここにいたのだ」
「まさか、そんな?」
俺は冗談っぽく笑ったが、司教の顔は変わらない。嘘ではないようだ。
「私だってまさかとは思った。だが、モスクでこれが発見された以上、その真実は見過ごせなくなってしまったのだ」
司教は机の上に置かれた一冊の書物をそっと手に取ると、表紙を俺とリーフに見せつけた。
金粉で施されたアラミア文字の装飾。リーフには読めないが、俺には何と書かれているのかすぐにわかった。
「『ゾア神の独白』……まさか本物か!」
「そう、マグノリアは消滅の力で消し去ったと周りには伝えているが、正確には私に送っていたのだ。東方の土産と言って珍しい食器の入った箱の底に隠してな。私は友に託されたのだ、この書物をもって神の真意を明らかにするように」
司教の言葉には力がこもっていた。友情と使命感に燃える軍人の姿がそこにあった。




