第七章 山脈を越えて その1
カルナボラスはパスタリア半島の東沿岸に位置している。ここから西へ向かうには、陸路で半島を横切るのが一般的だ。
ブドウ農園に挟まれた石畳の道を抜けると、やがて一面の小麦畑に出る。
その小麦畑の真ん中を突き抜けるのもこれまた石畳。前へ前へとひたすらに伸びたこの石畳もまた、地平線からわずかに頭を出す山々へと続いていた。
パスタリア半島では大きな町同士は大概、このような街道でつながっている。
「すごいな、いくら歩いても畑と道だ」
アコーンに跨る俺の背中で、リーフもぽかんと口を開けてはるか彼方の山を見つめていた。
「この半島はずっとこんな感じさ。大昔から人が入っていたから、畑も道も拓かれ尽くしているんだよ。てかお前はこの国の出身だろ、何感心してんだよ」
俺が肘で小突くと、リーフはむっと頬を膨らませた。
「仕方ないだろ、私はこの風景を見た記憶を失っているんだぞ。パスタリアの歴史だって、ろくに教えてもらったことは無いのだからな」
村の僧侶から読み書き計算を習う機会に恵まれた俺とは違い、リーフは本当に教育を受けたことが無い。教典は何度も読み聞かせられたので暗記できたそうだが、読み書きとなると母国の文字もおぼつかないのだ。自分の名前も書くことはできない。
「すまんかったなあ、じゃあこのオーカス先生がラクダの背中で講義を開いてやるよ」
得意げの俺に、リーフは「よろしく頼む」と返した。
はるか昔、この半島には各地で都市国家が興り、互いに争いながらも切磋琢磨して独自の文化を築き上げていった。
そして1600年前、歴史は大きく動き出す。
現在のカルナボラスに位置する都市国家のひとつが周辺の都市国家を次々と落とし、ついに半島全体を統治下に置いたのだった。
それこそが後の古代パスタリア帝国。歴史上最大の大帝国であり、大陸西方の文明を飛躍的に発展させ、均質化した大元である。
このパスタリア帝国がゾア神教を国教に認めたため、支配下にあった地域にはゾア神教が津々浦々まで浸透するのだが、今は重要じゃないな。
攻め落とした都市国家の数が増えて圧倒的な武力を持つようになれば、周辺の都市国家は次々と戦わずして支配下に入った。そのためこの半島には都市国家の時代から形を変えず残っている町も多くあり、そういった人口密集地同士は自然と街道が生まれ、馬車も行き交いやすいようにと石畳が敷かれた。
そんなことが千年も続き、やがてパスタリア半島には世界でも類を見ない網の目のような街道網が完成した。当時の石材や建造物は今でもバリバリ使われている。
「とまあこんな歴史があってだな」
べらべらとしゃべりながらふと後ろを振り向く。
「ぐー……」
リーフはとろんとした顔で眠っていた。食い物の話には目を輝かせるのに、こういった話は苦痛のようだ。
「こいつ、よろしく頼むとか言っておきながら! おい、涎垂らすんじゃねえ、おニューの服が汚れるだろうが!」
今度は強く小突いたが、起きる気配は全く無い。
それにしてこんなに熟睡しているのに、手はしっかりと俺の肩にひっかけられている。器用な奴だ。
南北に長いパスタリア半島は北の大陸から連なる大山脈の終着点でもある。ゆえに半島を横断する際に山越えは避けて通れない。
その苦労は長い歴史の中で誰もが感じていたようで、山を削って平坦にならされて整備された街道も少なくない。
俺たちの通るこの道もそういった街道のひとつだ。遠くから見れば急峻な山岳地帯なのに、いざ近付いてみると谷間が大きくえぐられ、高い崖に挟まれた街道が貫き通されている。
乾燥地帯に棲むラクダは山岳地帯には弱いのだが、ここは軽い坂道程度なのでアコーンには何の妨げにもならない。
「リーフ、ここを抜けると村だ。今日はそこで休むぞ」
「何という村だ?」
リーフは道の脇に自生しているキイチゴをすれ違いざまに摘んで口に運んでいる。アコーンの背中なのに、本当に器用な奴だ。
「アンチャレ村だ。小さな村だが、豚肉の塩漬けが名物だぞ」
「肉だと?」
リーフの手がピタッと止まり、口の端から涎の筋が光った。
「わかりやすい奴だな。それから涎は拭いておけ」
これといったトラブルも無く山道を抜けると、眼下には平野が広がっていた。
ここは山脈の中に開けた盆地で、山越えする旅人の中継地点となっているのだ。
盆地の中央には三日月形の湖があり、その畔に簡素な石積みで覆われた小さな村が見える。それがアンチャレ村、山と湖の幸に恵まれた平和な村だ。
「おっちゃん、この動物は何だい?」
村に入るなり小さな子供が寄って集りアコーンを取り囲んだ。カルナボラスからそう離れていないものの、ここまでラクダが来るのは珍しいようだ。
煉瓦、石壁、木造。小さな村だが家々には統一感は無い。山と湖の豊かな資源でこの村が潤っている証拠だ。皆清潔な服を着て目が活き活きとしている。
村の奥まで入っても子供たちは離れない。それどころか他の子どもや大人まで集まり始めて、もはや旅芸人にでもなった気分だ。
「おっちゃん、この動物でっかいね!」
「ねえおっちゃん、こいつはオス? メス?」
「ねえねえおっちゃん、このラクダっていうのは美味しいの? 燻製にしないの?」
いくらなんでも興味津々過ぎる。食う方向にまで持って行くな。
それからお前ら、おっちゃんて呼ぶのはやめろ。
そしてこの小さな村にも例に漏れず、小さいながらも清廉な雰囲気の聖堂が建てられている。湖畔に三角屋根が佇むこのロケーションはシンプルながらも実に良い構図だ。
「今日の宿はここだぞ」
聖堂の前でアコーンから降りるとリーフは首を傾けた。
「言い忘れていたな。この聖堂は旅人のために部屋を貸し出しているんだ」
聖堂脇の厩舎にアコーンをつなぎ、荷物を背負った俺は聖堂の扉を開いた。
中はやはり質素そのもの。削りだした石そのものに覆われた壁の隙間は泥が詰められ、天井近くの採光窓だけが頼りなので真昼でも手元が薄暗い。当然、ステンドグラスのような贅沢な物はあるはずも無い。
そんな100人も入らない小さな礼拝堂だが、祭壇には聖人像が置かれている。ただしこの作りかけの木彫りの像を立派と呼ぶかは人によるだろう。
真正ゾア神教の支配はこの村にもおよび、かつてここに飾られていた聖人像は破壊された。しかしプラートの死後、マホニアたちによって極端な教えを改めた連中は聖人像の創出を認めた。
この木彫りの聖人像も、つい最近村の誰かが造り始めたのだろう。床には木の削りカスが残っている。
「おや、旅の方ですかな?」
礼拝堂の奥の扉から白いローブの老人がひょこひょこと飛び出した。服装は真正ゾア神教の僧侶だが、元は旧教の僧侶だったのだろう、長年の穏やかな生活によって丸く磨かれた人格が醸し出されている。
「ああ、一晩ここで泊めてもらいたい。いくらだ?」
懐から硬貨の入った布袋を取り出すと、老人は「善意で結構ですよ」とほほ笑み返す。
実はこういうのが一番厄介なんだけどな。
俺は銀貨を三枚取り出し皺だらけの手に置いた。




