第一章 砂漠の交易路 その5(挿絵あり)
食事を終え、俺たちは再び歩き出した。
馬車に陶器製のランプを吊るし、その僅かな光で地面を確かめながら慎重にラクダを率いる。
隣を歩く布を張った馬車からはリーフと小太り男の笑い声が聞こえる。小太り男の見た目通りのまあるい人柄を信じて正解だった。見るからに偏屈そうな髭もじゃ男の馬車に入れていたら、こうも会話は弾まなかっただろう。
「これから進む奇岩の谷とはどんな場所なんだ?」
リーフの声だ。俺も奇岩の谷を通るのは初めてだ。この質問には興味がある。
「その名の通り、奇妙な形の岩がどこまでも続く砂漠だよ。天を突き抜けるような巨大な岩石が何万本もそびえ立っている。針のようにとがった岩の上に、別の巨大な岩石が乗っているのもある。世界のどこを探してもここまで奇妙な光景とはなかなか出会えるものじゃないよ」
それは雨の少ない砂漠だからこその絶景だろう。
この荒野の大地は砂が固まったような岩がゴロゴロしている。冬に雪が積もる以外はずっとカンカン照りの灼熱にさらされるのだ。岩石と言っても所詮は砂の塊、水が表面を伝えばいつかは崩れ去る。風と太陽の力でゆっくりと削られた結果、尖塔のような奇跡の造形が出来上がったのだろう。
そしてこういった入り組んだ地形では見通しが悪く、洞穴などの隠れ場所もそこら中にできる。ならず者にとっては絶好の狩場になる。
かつてタルメゼ帝国が繁栄を極めた頃には見張りや討伐に兵を使って治安を維持することもできただろうが、今のように斜陽国家となってしまってはそれに人員を割くこともできない。
だからこそ、この危険地帯を脱ければ大金が転がり込むわけだ。夜も動けるだけ動いて、さっさとこの奇岩の谷を越えてしまおう。
平坦だった道も度々岩山に阻まれ、いよいよ奇岩の谷に近付く。ここらには民家も無いのか、地上に明かりはどこにも見えず満点の星々が俺たちを見下ろしていた。頭の真上を天の河が横切り、馬車から頭を出したリーフはすっかり見とれていた。俺にとっては毎晩見てきた星空も、記憶を失ったリーフには物珍しい景色なのだ。
「もう少し歩けば街道沿いに洞窟があります。昔は住居だったのですが、今は誰も住んでいません。結構広いんで、私たちも休憩によく使うんですよ。今晩はそこで休みましょう」
小太り男が提案した。俺も昼まではずっと歩いてきたので疲れはだいぶたまっている。いつもなら日没とともに休むところを今日はかなりオーバーしたんだ、みんな眠気と戦っているに違いない。
「そうだな、アコーンも疲れているし休ませよう。明日は陽の昇る前から歩き出すから、夜更かしはやめとこうぜ」
そう答えると男は指で小さな丸を作ってほほ笑んだ。
大きな岩山をもう一つ迂回すると、確かにその斜面に洞窟がぽっかり口を開けている。馬車を降りた男たちが火を起こしている間に、リーフは軽食の準備、俺はアコーン以外のラクダたちを近くの灌木に括り付けた。アコーンに紐は必要ない。勝手にどこか行ったりしないことは相棒である俺が一番理解している。もし同じように括り付けていたらすごく不機嫌な顔して唾でもかけてくるだろう。
俺が三人の傍に戻った時にはすっかり焚火が出来上がっており、洞窟の入り口付近を明るく照らしていた。
洞窟の奥を覗き込むと真っ暗で、思った以上に深い。テーブルのような水平な岩石も置かれて、昔住居だったという話は本当のようだ。
「この洞窟は大昔、ゾア神教の信者が隠れ住んでいたらしいんですよ」
洞窟の入り口で突っ立っている俺を見て、小太りの男はリーフから受け取ったピクルスをかじりながら教えてくれた。ピクルスは先ほどの村で購入したもので、長旅の貴重な栄養源だ。
「何、ゾア神教はここでも信じられていたのか?」
ゾア神教という言葉に反応したのだろう、リーフが俺にピクルスを渡そうとしていた手を引っ込め、男の方へと向き直った。俺はピクルスをお預けにされ「ああ」と声を漏らしたが、リーフはこちらに振り返ることも無かった。
「そうだよ、古代パスタリア帝国は今のタルメゼ帝国まで領土を拡大していたんだ。ゾア神教を国教に認めたのが1000年ほど前で、ここも古代帝国の領土だった時代にはゾア神教が信じられていたらしい。今でもかつてはゾア神教の聖堂だったという建物は残っているし、モスクに作り替えられたものもあるよ」
「古代パスタリア帝国って何だ? 今のパスタリア国とは別物なのか?」
「お嬢さんは好奇心旺盛だねえ。そう、名前は似ているけど全く別の国だよ。古代パスタリア帝国は今から1600年前、お嬢さんの故郷のカルナボラスで興ったらしいんだ。帝国は周辺の都市国家を領土に収めると、優れた航海術を駆使して海を支配下に置いた。その後西方へと領土を伸ばし、全盛期には東は現在のタルメゼから西は大陸の最西端まで、さらに南の大陸の沿岸北部をも支配したと記録されている。当時の遺跡はそこら中で見つかっているよ。同時に国教だったゾア神教も各地に伝えたんだ。でもその後は強権的な支配に各地の王族が反乱を起こしたり、アラミア教勢力が侵攻したりして帝国はだんだんと力を失って、700年前にはついに崩壊したんだ。当時の皇帝は最期までカルナボラスに籠城したけど、そこを攻略したのが今日も続くパスタリア王国のご先祖様だよ」
「なるほど、ゾア神教が広まったのは古代帝国のおかげなんだな。でも、それとこの洞窟とどう関係あるんだ?」
「ここからもっと東の国でアラミア教が成立したのが今から1200年前。アラミア教国家のタルメゼ帝国ができたのは古代帝国全盛期の1000年ほど前だ。タルメゼ帝国は古代帝国に立ち向かい、100年以上かけてようやくこの奇岩の谷周辺まで領土を広げた。でもここはかつて古代帝国領だったから、人々は皆ゾア神教を信仰していた。当然と言えば当然だね、国教なんだもの。でも、今より信仰に対して厳格だった当時のタルメゼ帝国の皇帝はアラミア教への改宗を民に強要したんだ」
「改宗を強要? 民は相当嫌がっただろ」
「その通り、みんな最初は猛反発したそうだ。だから帝国は見せしめに信者を殺したり、村を焼いたりしたらしい。民の多くは改宗したけれど、一部の信者たちはこの荒野に逃げ込んで、洞窟を掘ってひっそりと暮らしていたらしいよ」
「くだらない。今となっては異教徒もどこかへ逃げ去ったのだ。本当はこんな所に長居はしたくないのに」
小太りの男が得意げに話している横で、髭もじゃ男が毒づいた。小太り男はそれを聞き流し、リーフは聞こえなかったのか、周囲をきょろきょろと見回していたが、やがてじっと洞窟の方へ眼を向けたのだった。
「そうか、だからここにゾア神教の名残があるのか」
物憂げな目でリーフが呟くいたので、俺はリーフに尋ねた。
「名残? 何か見えるのか?」
「ほら、あそこの壁面。太陽の紋章が彫られているだろ」
リーフが洞窟の中を指差した。その先にあるのは焚火で赤く照らされた岩肌、しかしうっすらとだが影が浮かび上がっている。掌くらいの小さなものだが、ゾア神教のシンボルマークである太陽の紋章が確かに描かれていた。
「本当だ、全然気付かなかった。お嬢さん、あんたすごいね」
小太りの男は目を丸くして驚いていた。本当、ゾア神教が絡むとリーフは雰囲気が変わる。
「でもまあ、予想通りゾア神教による反乱は各地で起こった。その度に鎮圧してはいたようだけど、皇帝は反省してアラミア教を国教としながらも他の宗教の存在も認め、さらに古代帝国と戦う西方の王族とも同盟を結んだために商人による交易も可能になった。おかげでタルメゼ帝国は長く東西交易の拠点として君臨することができたんだよ」
スケールのでかい話だ。大昔から力のある国家同士が火花を散らしてきた土地柄か。
確かにタルメゼ帝国領内はゾア神教信者の俺にも寛容だった。さらに東ではアラミア教徒以外は入国すら認められない国もあると聞くし、ここを中継しなければ俺が東方へと出る方法は全く無かった。
「そうか、歴史と宗教は絡み合うものなんだな」
リーフがぎゅっと拳を握る。何か感ずるものがあるのだとう。
「……お嬢さん、その手から何か汁が垂れているんだけど、大丈夫かい?」
小太りの男が指摘すると、俺は慌ててリーフの手を覗き込んだ。力強く握られた拳から、ドクドクと液体が溢れ出ていたのだ。
男の話に耳を傾けていたせいですっかり忘れていたが、確かあいつが握っていたのは……。
「おい、それ俺の!」
リーフははっと我に返り握り拳を見つめると、ゆっくりと震える指をゆっくりとほどいていく。
掌に乗っかっていたのは、胡瓜のピクルスだったものが、絞られて水分が抜けてくしゃくしゃの麻布みたいになった姿だった。
洞窟で眠った俺たちは翌朝、予定通り陽の昇る前から出発した。
空に青みがかかり地上に光が注がれるにつれて、奇岩の谷もその奇妙な出で立ちを俺たちの前に現した。
なるほど、奇岩の谷という呼び名は実にぴったりだ。山裾に何百本も並んだ円錐状の巨岩が天を貫き、その上には別の岩石が帽子のようにちょこんと乗っている。今にも落っこちそうで危なっかしいことこの上ないが、小太り男が言うには大地震でも起きない限り落下することは無いそうだ。
岩肌も白から赤、中には桃色まで多くの様相を呈し、高台から見れば一面に広がる岩の大森林が大地を埋め尽くしている。
リーフはその奇岩の数々を飽きることなく見つめていた。殊に奇妙な形の岩を見つけては「あれは怒った人間の顔に見えるな」だの「獲物を捕まえた鷹そっくりだ」などと指差して笑っていた。
「お嬢さん、あの岩は我々も猫の立ち姿と呼んでいるんだよ。この谷を抜ける道しるべに使っているんだ」
小太りの男は親切にもリーフの相手をしていた。サルマで生まれ育ったという男はこの周辺の地理や伝承に詳しく、傍らで聞いている俺にも時間の流れを早く感じさせた。
太陽が昇ると俺たちは足を止め、男たちは祈りをささげた。そして再び奇岩の回廊を歩き続け、何も起こることなく正午を迎えた。昼食を終えると男たちは頭上の太陽に本日二度目の祈りをささげた。
急ぐのだからいちいち立ち止まらない方が良いのに、という野暮な突っ込みは控えておいた。これがアラミア教徒の風習であり、命をかけてでも神に捧げる誇りなのだ。
午後、一日で最も暑い時間になる頃、俺たちは岩の割れ目のような峡谷に差し掛かった。二台の馬車がかろうじてすれ違えるほどの狭い道の両側に、ほぼ垂直のざらざらとした砂岩の岩肌が迫っている。先頭に小太りの男とリーフの乗った馬車が、その後ろをラクダを引き連れた俺、そして最後尾を髭もじゃの男が一列に並んでゆっくり行進する。
太陽の光も差し込まない薄暗い谷の底は吹きだまりになっているのか、枯れ枝や落ち葉、風化した砂が地面のあちこちに積もっている。昼間だと言うのに不気味な空気が漂う、さっさと通過したくなる空間だった。
その時だった。突然、上の方から地鳴りのような音が聞こえたのだ。
「な、何だこの音は?」
先を行く小太りの男は馬車を止め、上へと顔を向けた。
なんと、岩がこちらに転がってきている!
峡谷の両側の斜面から、大小様々な大きさの岩石が何十個も、すさまじい轟音を伴って滑落しているのだ。
「危ない、戻れ!」
俺が叫ぶと男は馬を後退させた。間一髪、先ほどまで馬がいた場所に大きな岩がなだれ込み、進路を塞いだ。
しかしまだ地鳴りは続いている。
しまった、後ろか!
振り返ると髭もじゃ男の操る馬車の少し後ろ辺りにも、岩が転がり込んで積もっていたのだった。退路まで塞がれた。多少の障壁も人間ならよじ登ることも可能だが、馬やラクダは足場が悪ければ進むこともできない。車輪のある馬車ならなおさらだ。
「ど、どうしたんだ!」
馬車から慌てて顔を出すリーフ。目の前にうず高く積まれた岩を見て、唖然とした。
「お嬢さん、馬車に隠れていなさい!」
小太りの男が叫ぶと、リーフは急いで馬車に引っ込んだ。
こんなに岩がピンポイントで落ちてくるなんて尋常じゃない。これはきっと盗賊の仕業だ。女のリーフが見つかればどんな目に遭わされるか、容易に想像がつく。
俺はアコーンにまたがったまま背中の剣に手をかけた。同時に、両側の急斜面を何かが滑り降りてくるのが見えた。
盗賊たちだ。ターバンを巻き、上半身裸の見るからに凶暴そうな連中が十人ほど、岩肌に足と手を添え、砂埃を舞い上げながら急斜面を滑り降りてきているのだ。皆が皆、片手に曲刀を持っている。平和な解決策は鼻から考えていないようだ。
なんて災難だ。盗賊の襲撃に遭うなんて滅多にないのに、よりによって急いでいるこんな昼間に襲い掛かってくるなんて。
斜面から降り立った盗賊たちは二手に分かれて俺たちの前後の道を塞ぐように並んだ。前方には5人の男が割り込み、その中でも一際大柄な男が一歩前に出た。
大男は小太りの商人に剣先を向け、鋭い声で話し始めた。
「金目の物と積み荷、それに馬とラクダ、全て置いてけ。そうすれば命だけは助けてやる」
小太りの男は「ひぃ」と小さな悲鳴を上げた。
「この荷物は大切な物だ。貴様ら盗賊ごときに渡すわけが無い!」
後ろから声がした。髭もじゃの男だ。馬車を取り囲まれて剣を向けられているのに、大した度胸だ。
「なるほど、それほどまでに大切なものか。何を運んでいるのだ?」
「貴様らに教える価値など無いわ」
盗賊の頭に言い返す髭もじゃ男。頭は顔をしかめたがすぐに不敵な笑みを浮かべ、突き出した剣を降ろしたのだった。
「そうか、教えてはくれぬか。ならば仕方ない、者ども、すべて奪い尽くせ!」
頭の号令に合わせて、手下の盗賊たちは次々にとびかかった。
俺はすぐさま剣を引き抜いた。鈍い金属音が谷に反響する。
「積み荷を降ろせぇ!」
盗賊のひとりが小太りの男に曲刀を突き出し脅した。しかし御者台から立ち上がった男もなかなかのもので、馬用の鞭を振り回して応戦する。滑らかにしなる鞭が地面を打ち付け、鋭い音が狭い峡谷を突き抜ける。盗賊は馬車から離れ、二人は互いに武器を構えてにらみ合った。
だが、その隙に別の三人の盗賊たちが馬車の後方へと回り込む。小太り男のいる前方に注意をひきつけ、後ろから乗り込んで積み荷を奪うつもりだ。
いけない、馬車に隠れているリーフが見つかる!
「させるかぁ!」
俺はアコーンと他のラクダをつないでいる紐をナイフで切り離した。すぐさまアコーンは全力で駆け出し、盗賊に突っ込んでいった。
俺たちに気付いた盗賊のひとりはアコーンに向かって曲刀を構えるが、そこを俺がアコーンの上から両手剣を思い切り振り下ろした。
俺の振った剣は盗賊の頭を叩き割った。両手剣の重さと俺の腕力、そして剣の長さで生まれるてこの力。それら全てが脳天にのしかかり、盗賊の頭蓋は真っ二つに砕け、声を上げることもなく倒れた。硬いスイカが潰れたかのように、辺りには血と脳漿が飛び散った。
「お前、何てことしやがる!」
馬車の後ろに手をかけて、今にも飛び乗らんとしていたふたりの盗賊がこちらを振り向き、仲間の変わり果てた姿を見るや否や絶句した。そして激しい憎悪のこもった目を俺に向けると、手にした曲刀を高く振り上げた。
あとは想像の通り、恨みに駆られた盗賊たちは俺とアコーンめがけてまっすぐに向かってきたのだった。
突進する二人を迎え撃つため、俺は血の滴る両手剣を振り上げた。それを見てか盗賊たちは大口と目を開け、振り上げた剣を降ろして立ち止まってしまった。
ヒトコブラクダの体高はおよそ2メートル。アコーンはその中でも特に大柄で、そこらの人間では地面から飛び乗ることさえできない。そこに俺の座高が合わさり、地上の人間から見れば俺の剣はまるで空から斬りつけられるように見える。
ふと後ろに目を向けると、髭もじゃの男も鞭を振って盗賊二人を相手に御者台を死守している。しかし馬車にはすでに盗賊が侵入していたようで、髭もじゃ男の背中側から現れた盗賊が商人を羽交い絞めにする。
あのおっさんも助けに行かないと。だが、まずはリーフのいる馬車を守らなくては。
俺は目の前の二人の盗賊めがけてアコーンを走らせた。男二人は左右に避けて道を開けるが、これは俺が真ん中を突っ切る際に横から攻撃を加えるつもりだ。そんな隙、与えるわけにはいかない。
俺はすれ違いざまに右の男に向けて剣を振った。俺の剣は男の首に入り、噴水のような血飛沫とともに男の頭が宙に舞った。
そして左に避けた男にはアコーンが前脚を胸に突き刺した。男は口から血をまき散らして後方へと吹っ飛ぶと、岩肌に背中を叩きつけられてそのままピクリとも動かなくなった。
あっという間に俺とアコーンで三人の盗賊を倒してしまった。実戦は久しぶりだが、俺の腕はまだまだなまっていないようだ。