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絶望の商人と奇跡の娘  作者: 悠聡
第一部 救済の神託
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第五章 大聖堂 その8

「何事です?」


 プラートは手を引っ込め、ゴホゴホと咳き込んでいた。


 途端リーフはぽかんと口を開けて元の何も考えていなさそうな面に戻った。今復元されたばかりの過去の記憶はすっかり抜け落ちたようだ。


「マグノリアです、マグノリアが戻ってきました! それもたくさんの仲間を引き連れて!」


 一階から兵士の声が届き、周りの兵士がどよめいた。


 吹き飛ばされて、ステンドグラスに突っ込んだあのマグノリアが戻ってきただと? あの男は不死身か?


 それにたくさんの仲間だと? 何のことかさっぱりだ。


 チュリルとリーフの顔が一気に明るくなる。プラートも震え上がり、「なんと、まだ死ななかったのですか?」と驚いていた。


 そしてその刹那、二階の床にビシビシと亀裂が走る。


 慌てた兵士たちが一斉に走り出したので、プラートは床に転んでしまった。


「壁際に寄れ、崩れるぞ!」


 俺とリーフ、チュリルはプラートに吹き飛ばされたおかげで元から壁際に貼り付いていたので、すぐさま壁に穿たれた蝋燭立てや装飾にしがみつくことができた。


 瞬く間に亀裂は壁際にまで伸び、そして次の瞬間には床がガラガラと崩れ始めた。


 崩落に巻き込まれた兵士たちが次々と姿を消していく。瓦礫にのみ込まれたり、床に叩きつけられたりとその後はどれも無事では済みそうにない。


 しかし肝心のプラートは僧侶に連れられてどこかへ逃げたのか、それともすでに瓦礫にのまれたのか、どこにも姿は見えない。


 俺たちは激震に耐え、壁に必死で食らいついた。


 ようやく轟音が鳴り止むと、壁際に僅かな足場を残して二階の床、特に俺たちの周りはすっかりと抜け落ちていた。なんとか落下を免れたわずかな兵士たちも、今にも崩れ落ちそうな床に倒れ込んで荒い呼吸を繰り返している。


 恐らくマグノリアは上に兵士がいると気付き、一階の柱を何本かえぐり消したのだろう。二階の床が抜け落ちたのは支柱を失ったからだ。


「チュリル、リーフ、今の内に逃げよう!」


 俺は立ち上がり、今にも崩れそうな足場を慎重に、かつ足早に渡った。後ろからチュリルが「逃げるって、どこへ?」と追いかけながら声をかけた。それにリーフが続く。


 一階はまだまだ兵士たちも多く正門からの脱出は難しい。しかし俺は思い出していた。先ほどのオーランダーとの戦いの中で、イチかバチの脱出路を発見したことを。


「鐘楼だ、窓から下の泉に飛び込むぞ!」


 オーランダーを突き落としたあの鐘楼。塔を昇る階段の途中、周囲の家屋の屋根よりも低いくらいの高さの位置にも何箇所も窓があった。そこから外の泉に飛び込めば、怪我することなく聖堂から脱出できるのではないか?


 ちらりと後ろを振り返る。リーフは目をキラキラさせていたが、チュリルは苦笑いを浮かべていた。とは言え他のアイデアが浮かばないのか、それともただ反論する気力も起きないのか、素直に俺の後ろについていた。


 床の大部分が崩れ去り、さらによく見えるようになった一階に目を移す。「わあ、すげー」と子どものような味気ない感嘆を漏らさざるを得なかった。


 一階の礼拝堂の中央に、全身から血を噴き出しながら孤軍奮闘するマグノリアがいた。革鎧は既に壊れてたくましい上半身をさらけ出し、ズボンや髪の毛も血と埃で汚れている。


 しかし四方を取り囲み、さらに一斉にとびかかってきた兵士たちを槍のひと振りでなぎ払い、突進してきた巨漢の兵士には顔面に拳を叩き込む。何十人もの兵士が挑んでは次々とやられていく。兵士たちの攻撃ではマグノリアの体に触れることすらできない。


 その後ろからついてくるのは群集。平民の男に老婆、兵士や子連れの母親まで、ありとあらゆる人間がマグノリアを先頭にして大聖堂に流れ込んできたのだ。


「真正ゾア神教に正義はあるのか!」


「罪なき少女たちを処刑するなど、許せませんわ!」


「神を冒涜しているのはお前たちだ!」


 口々にそんなことを叫びながら押し寄せる群集。武器を持たなくとも圧倒的な人数となれば兵士には手も足も出まい。そもそも教団の兵士が罪なき一般人を傷つけてはならない。


 聖堂の一階に残っていた兵士たちは武器を捨てて皆奥へと引っ込んでいった。完全に戦意を失っていた。


「何だこれは。どうなってやがる?」


 群集の最後尾、腰の曲がった老人に寄り添いながら、白いローブと黒髪の男がゆっくりと大聖堂に入ってくる。


 そしてその者はくるりとこちらを振り返った。マホニア司教だった。


 司教は優しく微笑むと、再び老人に手を貸しながら瓦礫の散乱した大聖堂の一階を歩き始めた。


「そうか、マホニア様が民衆に呼びかけたんだ、真正ゾア神教の間違いを」


 わずかに残った足場を飛び移りながら、チュリルがぼそっと呟いた。


 あのマホニア司教はサルマの町でも貧民から絶大な支持を受けていたように、このカルナボラスでも慕われていたのだろう。


 一階は既に落ちたも同然だが、階段まで戻る道は閉ざされている。やはり鐘楼から泉に飛び込むしかない。


 鐘楼に続く扉をくぐると、ここは崩落した礼拝堂とは異なり、石造りの床には紙一枚分の隙間すら開いていなかった。ここは二階の床とは違う柱が支えている構造なのだろう。


 そのまま俺たち三人は鐘楼を昇った。螺旋階段を少し昇ったところに外につながる窓があり、覗き込むとその下にちょうど聖堂脇の泉が位置している。


「ここからならちょうど飛び込める」


 俺はすぐ後ろにいたチュリルの腕を掴み、窓に手足をかけるのを手伝った。身軽な動きで体の半分を外に出したチュリルはくるりと俺たちを振り返ると、にかっと笑った。


「それじゃあ、あたいからお先に失礼させてもらうよ。透明になれば泉に飛び込んでもしばらくは逃げていられるだろうしね」


「ああ、すぐ追いかけるよ」


「待っているよ!」


 そう言うとチュリルは窓から外に飛び出した。チュリルの小さな身体はまっすぐ泉に向かい、ザブンと白い水柱を作って落下した。


 すぐ近くを歩いていた兵士が音に気付いて泉を振り向いたが、透明になって水の中に潜ったのか、泉が大きく波立っている以外に変化はない。兵士は首を傾げながらも、すたすたと正門の方へ走り去っていった。


 ほっと息を吐いた俺は「次はお前だ」とリーフに手を伸ばす。


「待ちなさい!」


 よく通る男の声が俺たちの動きを停止させた。プラートだった。二階が崩落した際に姿を消していたプラートが、鐘楼に続く階段をズンズンと昇り始めていたのだ。


 先ほどの余裕を振りまく笑みはなりを潜め、顔を真っ赤にして怒りに狂っている。


「聖堂をここまで荒らして、生きて帰れるとお思いですか? もう許しません、私が直々にあなた達を地獄に叩き落としてさしあげましょう」


 背中を怪我しているとは思えないほどに足取りが軽い。このままではリーフが窓に足をかけている間に追いつかれてしまう。


「間に合わない、逃げよう!」

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