第五章 大聖堂 その7
「スレイン、すまなかった」
リーフは倒れ込んだスレインに駆け寄り、血に濡れたその手を握り締めた。
スレインは髪の毛や衣服から煙を上げ、ピクピクと痙攣を繰り返している。しかしリーフの手の温もりを感じてか、親友の手をぎゅっと強く握り返したのだった。
驚くリーフだが、スレインは目を開けることもなく、震える口をゆっくり動かした。
「いいのよ、セチア。あなたと出会えただけで私は満足よ。現世は虚しいし、悲しいことばっかり……でも、私の人生で一番楽しかったのは、真正ゾア神教に入って、あなたと出会ってから、それからずっとだった」
舌がうまく動かないのか、弱々しく、発音も悪い。リーフはスレインの手をさらに強く握り締め、その言葉の一語一語を真剣に聞いていた。
「すべてゾア神の導きによって私はここまで来て、そして倒れた。プラート様が本当に神から預言を授かったのかどうか疑わしいってことはわかっていたわ。でも、それでもセチアと私を引き合わせてくれたのは真正ゾア神教。あなたとの出会いを神に感謝して……」
スレインはリーフが握り締めていない方の腕を伸ばし、床に散らばった水瓶の破片の一つに触れた。そしてその欠片を掌の中に包み込むと、やがてぴくりとも動かなくなった。
「スレイン……!」
リーフは両手でかつての親友の手をつかみ、それを額に押し当てた。顔は見えないが、すすり泣く声が俺の耳にも届いた。
過去の記憶が無いとは言え、スレインはリーフをオーランダーから逃がしてくれたり俺に逃走の協力を頼みに来たりと必死に面倒を見てくれた相手だ。リーフにとっては命の恩人であり、かけがえのない親友だった。
実に後味が悪い。リーフには聞こえないように小さく舌打ちして、帽子をかぶり直した。
そんな時だった。礼拝堂の吹き抜けから、一階にいる兵士の声が聞こえたのだ。
「オーランダー様がやられたぞ!」
「なに、それは本当か?」
「間違いない、外にいた兵からオーランダー様が鐘楼から泉に落下して、消えてしまったとの報告があったんだ!」
「ふぬおお、罪人ども許すまじ!」
どうやら俺たちにはかつての仲間の死を悲しむ暇も与えられていないようだ。
手すりから頭だけを出して一階を見下ろすと、さっきよりも多くの兵士が礼拝堂に集まっていた。
最初はオーランダーの指示通り二階には上らず、祭壇の下敷きになった仲間の救助に奔走していたようだが、報告を聞いていきり立った兵士たちは我先にと礼拝堂奥の扉を目指した。あの扉の奥には二階への上り階段がある。
「まずいな、兵士たちが上ってきたぞ」
背後でスレインの亡骸に寄り添うリーフには振り返らず、じっと一階を見つめたまま俺は呼びかけた。
「見つかる前に急いで逃げるのが良さそうだね」
返ってきたのはリーフのものではない、別の声だった。慌てて後ろを振り向くと、うずくまるリーフのすぐ傍らで、ずぶ濡れのチュリルが背中と腕を上に伸ばしていた。骨がポキポキと鳴っている。
「チュリル、いつの間に?」
「ずっと意識はあったんだけど、体が言うことを聞いてくれなくてさ。スレインについては残念だったけど、今は悲しんでいる場合じゃない。さっさとここを逃げ出さなくちゃね」
左右の手の指を絡めて前に突き出しながらチュリルは答えた。この娘はスレインに対してリーフほどの思い入れは無いのか、それとも宿で騙されたことを根に持っているのか、妙にサバサバとしている。
筋肉を緩めて肩を落とすと、そのまましゃがみこんだリーフの手首を掴み、真っ赤に染まった目を覗き込んだ。
「ほら、透明になって逃げるよ。私に触れていな」
リーフに呼びかけた後、チュリルは俺の方もちらりと見た。
一般の兵士程度ならチュリルの能力で十分に欺けるだろう。
俺がチュリルの手を握り、ちょうどチュリルを中心に三人で手をつないでいる状態になる。
息を整え、チュリルが能力を発現させた。
周囲からは俺たちの姿がぼやけて周囲に溶け込み、ステンドグラスで色付けられた太陽の光で床に映し出されていた影も消えてしまった、そんな風に見えたに違いない。
しばらくしてどたどたと兵士たちが駆け上がってきたが、俺たちの姿が見えないのに困惑した様子で、きょろきょろと辺りを見回していた。「どこにいる?」「もう逃げたのか?」と話しながら行ったり来たりする様はなんとも滑稽だった。
「そう言えばチュリルとかいう小娘の能力は透明になることだったな。案外透明になってどこかに隠れているのかもしれん。そこらを槍でつついてみろ」
なかなかに鋭い兵士もいるようだ。俺の手に知らず知らずに力がこもってしまったのが伝わったのか、チュリルが手を握り返し、そっと耳元で囁いた。
「安心しな。あたいらが何をしているかバレたとしても、どこにいるかがわからなけりゃ意味がないさ。気にせず進むよ」
歩き回る兵士たちを慎重にかわしながら、俺たちは石畳を踏んで移動した。兵士とは絶対にぶつからないように、三人で壁に沿って横歩きをする。何人もの兵士とすれ違い、その度にほっと息を吐いた。
慌ただしく駆け回る兵士たちを尻目に、もうすぐで階段のある部屋に入ろうとしたところで、コツコツと何者かが階段を昇る足音が聞こえ、俺たちは動きを止めた。
「どうです、まだ見つからないのですか?」
痺れを切らしてプラートが上ってきたのだった。背中が痛むのか、両脇を白いローブを着込み月桂冠を被った僧侶に抱えられている。歩けはするがかなり無理して痛みに耐えているようで、普段の端正な顔は歪んでいた。
「はあ、どうもあいつら透明になって隠れているようで。恐らくまだ近くにいるとは思うのですが、何せ見えないものですから手こずっております」
近くにいた兵士が落胆した様子で話す。
「なるほど、普通の人間には難しいでしょうね。それでは私が……」
そう答えるとプラートは目をつむり、呼吸を整える。
何をするつもりだ? 互いの姿は見えないが、俺たちは三人ともじっとプラートを見ていた。
「はっ!」
叫び声とともにプラートが目を見開いた。その瞬間、プラートの周囲の景色が捻じ曲げられ、同時に大男のタックルを受けたかのような衝撃が俺たちを襲う。
「うわあ!」
俺たちは三人そろって後ろに弾かれ、石壁に叩きつけられた。手を離したことでチュリルの能力も解け、俺たちの姿は兵士からも視認できるようになってしまった。
「おお、あんな所に!」
背中をさする俺たちを兵士たちがすかさず取り囲み、剣だの槍だのそれぞれが持っている武器をあらゆる方向から突きつけられる。
そしてすぐさま鎧を着込んだ兵士たちが一本だけ道を開けた。その先には不気味な笑みを浮かべるプラートが、僧侶の肩を借りて立っていたのだった。
「チュリルのその力はゾア神が私を介して与えた力なのです。神の力を宿した私に、あなたの透明化能力が見破れないとでもお思いで?」
唇の端から流れ出た血の筋を拭っていたチュリルが露骨なまでに舌打ちした。
これは非常にまずい。これだけ多くの兵士に、未知数の力を持つプラートが相手ではここを抜け出す方法も何一つ思いつかない。
「さて商人オーカス、あなたはただの人間だというのに私たち相手によく戦いました。その直向きな姿勢、まるで昔の私を見ているようです」
お前なんかと一緒にされてたまるか。俺は背中の剣に手を伸ばしたが、すぐさま近くの兵士が槍を鼻先にまで近付けたので俺は手を落とし、代わりにキッと睨みつけた。
「あなたは現世において救いを差し伸べてくれない神に、どうしてそこまで身を任せることができるのですか? 旧来のゾア神教を信じて、救われたことがありましたか?」
「俺は現世での救いは求めない主義でな、自分の問題は自分で解決するよう教え込まれているんだよ。そもそも農民から商人にまでなっちまった俺が、ただ黙って救いを待っていられる性格に思えるか?」
吐き捨てるとプラートは感心した様子で微笑み返した。正直気味が悪い。
「ううむ、なんという反骨精神。いくら罪人とは言え、このまま死んでしまうのはさすがに惜しいです。せめてものはなむけに、私がこの真正ゾア神教を立ち上げた経緯をお聞かせしましょう。そうすればきっと心安らかに死を迎えられます」
そんなもの知ったこっちゃねえ、とでも言おうとしたが、口を開くと同時に周りの兵士全員が俺に槍を突き出したのでさすがに口をつぐんだ。
「私はこの都の貧民の家庭で生まれました。ロクに教育も受けさせてもらえず、読み書きもほとんどできません。毎日働いても働いても、悪徳商人やゾア神教の僧侶にお金を騙し取られていたのです。少し考えれば分かることだったのですが、当時は今日を生きるのに必死で、そんなことには露とも気付きませんでした。しかしある晩、寝床で横になっているとき、私は神の啓示を受けたのです」
「ほう、寝床でか。ゾア神教の開祖セラタは荒天の山頂だったのに、神ってのは随分と俗っぽい存在にまで成り下がっちまったんだねえ」
「黙っておれ、神への侮辱は許されんぞ!」
兵士の一人が怒鳴る。プラートは兵士と俺を見比べ、遊んでいる子供でも見るかのように「ふふっ」と笑った。
「一面の花畑に熟れた果樹の成る木々、気が付けば私はそんな所に立っていたのです。そこは安寧の地、神に従った者だけが死後導かれる救済の地でした。そして私はそこではっきりと神の声を聞いたのです。現在のゾア神教は腐敗している、新たに真正ゾア神教を作れ、そのために神の力を授ける、と」
プラートが拳をぐっと握り締めた。周りの兵士たちは皆、プラートの目をじっと見つめて微動だにせず聞き入っている。
「最初は夢かと疑いました。しかし念じてみれば実際に風が起こった時、私は自分が神に選ばれた預言者になったことを確信しました。私は仲間に神の祝福を与え、能力を授けました。そしてその能力を使い、ゾア神教が本当に腐敗しているのか徹底的に調べました。そして知ったのです、旧教がいかに汚れた存在であったかを。私は絶望しました。神は本来民を救うためにゾア神教を地上にもたらしましたが、人間は神の名を騙って己の欲を満たすようになったのです。そこでは元の崇高なる目的は忘れ去られています。私たち貧民は大飢饉で家族や友人を失ったというのに、権力者たちはそれ以上の搾取を我々から行っているのです。こんな所業、神が許すはずがない!」
兵士が口々に「そうだそうだ」と賛同する。今の隙に逃げてしまえないかとそっと足を動かしたものの、すぐ脇の兵士がギロリと目を光らせたので出した足を引っ込めた。
「私は神の意志を代行するために真正ゾア神教を立ち上げ、貧民を中心に支持を集めました。そして四年前、このパスタリア王室も教皇も意のままに操り、宗教も国政もゾア神の本来の教えに沿ったものに改革したのです。そう、すべての人間に現世でも救済を行うように」
随分とドラマチックな経歴だ。貧民には現世での救済なんて魅力的に映るだろう。だが、その啓示はゾア神のものではない。シシカモスク地下の文書がそれを証明している。
「あんたが聞いたのは神の言葉じゃない、そりゃきっと悪魔につけ込まれたんだよ。俺は知っている、あんたの授かった預言とやらが正当性を持たないことに」
兵士たちが「ふざけるな!」と言って槍を突き立てた。予想通りの反応に、俺は笑いを漏らしてしまった。
「何とでも言いなさい。さて、次はセチアにお話です。スレインから聞いたのですが、あなたの記憶はマグノリアが消したのでしたっけ? それでは私がその記憶、元に戻してさしあげましょう。忠実だった頃の記憶が戻ったならば、あなたもこの暴動の罪深さがわかるでしょう」
プラートが掌をリーフに向けて目を閉じた。
すぐさま異変が現れた。何の前触れもなく頭を抱え、リーフは床に崩れた。
「うわああああ、頭が痛い!」
抱えた頭をぶんぶんと振り回す。全身も激しく震え、悪魔が乗り移って体だけを支配しているかのようだった。
「何をしているんだ!」
チュリルが叫ぶと、プラートがふふっと笑って返した。
「記憶を戻しているのです。私たちとともに真正ゾア神教の仲間として活動していた頃の、愚直なまでに神の言葉に従順だった頃の記憶を」
ずっとプラートに反抗的な態度をとってきた俺だったが、この時ばかりは懇願の心地だった。
「やめろ、そんなことしたら」
リーフが自殺してしまう。喉元まで出かかっているのにこの言葉は出てこなかった。
記憶を失う前のリーフは真正ゾア神教に全てを捧げてきた。かつては教団から死ねと命令されても素直に従おうとしたほどの信奉ぶりだ。今のリーフとはまるで違う。
もしもその頃の記憶が戻ってしまったら、命令に背いた挙句、聖堂を荒らし、多くの信徒を傷付けてきたことを悔いて自ら命を絶つに違いない。
俺自身は最期に自分の信じるゾア神教に貢献できればそれで良い。しかしリーフとチュリルの二人はなんとしても生きて返さねばならない。ここでリーフに死なれては、俺やマグノリアの戦いが全て無意味に帰する。
「なんだ、頭だけじゃない、胸が締め付けられるみたいに苦しくなってきたぞ」
目に光が失われている。絶望と後悔に打ちひしがれた娘の顔がそこにあった。
「それが罪悪感という感情です。捧げてきた神に逆らったことへの罪悪感が、あなたの記憶が戻ってくるのと同時に無意識から発せられているのですよ」
「う、ああ、そ、そんな、私はなんと罪深い……」
顔を両掌で覆い、しくしくと泣き始めた。俺の知っている能天気なリーフからは全く想像もできない姿だった。
記憶を取り戻し、命令に逆らって生き延びていること、大聖堂を荒らしたこと、そして親友のスレインに手をかけたこと。今までの行いが全てのしかかっていく。その表情は斬頭台にかけられる囚人のように深く絶望に沈んでいた。
「おいやめろ、やめるんだ!」
俺はリーフを抱きかかえようとするが、その瞬間に兵士が棍棒で背中を殴りつける。
痛すぎて声も出ない。指先の力も失って床に倒れ込んだ俺に、すすり泣くリーフ、覚悟を決めたのか諦めたのか物憂げ顔のチュリル。そして満面の笑みをたたえるプラート。
どう見ても手詰まりだった。申し訳ないが、二人を生きて返すという目的は達成できそうにない。
でも、ゾア神教を信じて異端派に一矢報いた俺たちだ。きっとゾア神は俺たちを見守っていてくれたはず。
死んだ後はきっと安寧の地へと誘われるだろう。そこでは世界中の果物が食えるみたいだし、飢饉の時に死んだ村の連中と久しぶりに宴会でも開こうかな。
もうマグノリアはあっちに着いている頃だろうか。あの男とは一度酒を飲み交わしたいと思っていた。
リーフやチュリルも一緒にやって来るかもしれない。そうなったら宴会の仲間に入れてやろう。飢饉で死んだ村の連中も快く迎え入れてくれるはずだ。
そんなことを考えていると徐々に意識が遠のいていく。リーフの泣き声もどんどん小さくなっていき、ついには静寂と完全な闇が俺を包んだ。
しかしまさにその時。床が上下に激しく揺れ、俺は叩き起された。
揺れだけではない、山が崩れたかのような轟音が礼拝堂に轟き、吹き抜けから舞い上がった砂埃が一瞬にして二階までも包んだのだった。




