第五章 大聖堂 その6
オーランダーの炎を逃れた俺は礼拝堂から別の部屋へと続く扉をくぐり、その奥に古い石造りの階段を見つけ、ひとまずそこを昇ることにした。
二階建ての礼拝堂に、さらに上へと続く階段。ここは大聖堂のシンボルでもある鐘楼につながっているのだろう。
ゾア神教の都カルナボラスで最も高い場所。毎日朝夕決まった時刻になると僧侶が鐘を鳴らし、一日の始まりと終わりを報せている神聖なる空間だ。
待てよ、鐘楼といえば。船の中で見た見取り図を思い出し、走りながら思索を巡らす。
もしかしたら勝ち目があるかもしれない。
俺は階段を駆け上がった。後ろからオーランダーも追いかけてきているようで、カツカツと石を踏む音がやや遅れて上ってきている。
階段はかなりの高さまで続いていた。両側を石の壁に挟まれた通路はすれ違うのも不可能なほどに狭く、少し上っては折れ、また少し上っては折れを繰り返す螺旋構造だ。あとどれほど走り続けねばならないかすらわからない。
壁際には小さな窓が開けられており、外の空気が吹き込んでいた。ちらりと覗いてみるとカルナボラスの街並みが見える。屋根瓦の海がどこまでも続き、そこいらで背の高い塔や聖堂が頭を出している。
既に周りの建物よりもはるかに高い所まで上ってきているようだ。
もうしばらく走り続けるとようやく壁にぶち当り、大人なら誰もが頭をひっこめねばくぐれないほどの小さな木製の扉があったので、急いでそこを突破した。
扉を抜けると突如、ごうっと風が吹き込んで俺の身体を押し返したが、なんとか外に出てすぐに扉を閉めた。数本の細い柱で支えられた屋根が目に付き、周囲を見回せば同時に東西南北に広がる街並みと、青海のかかった遠くの山までも堪能できる。そして頭のすぐ上に、都中へとその音を響かせる大鐘が吊り下げられていた。
ここは鐘楼のてっぺんだ。ここからの景色を見られるのは本来僧侶だけで、俺のような商人はまず関わりすら持てないのだが、こんな形で見ることになるとは複雑なものだ。
手すりから身を乗り出して下を覗き込むと、兵士たちが広場に集まっていた。だがそんなものには目もくれず、おれは「あるもの」を探した。
そしてお目当ての「それ」が目に入ると、バクバクに跳ね回る心臓を押さえ、風に運ばれてきたばかりの澄み切った空気を肺の中いっぱいにまで吸い込んだ。
そうこうしている内にオーランダーが俺に追いつく。木の扉の隙間から黒い煙が上がり、火が漏れ出している。
「こんな木の扉で私の炎を防いでいるつもりでは、よもやあるまいな?」
全くない。オーランダーならこんなちゃちな木材、すぐに焼き崩すだろう。
俺の考えた方法がうまくいくかどうか、そんなのわかったものじゃない。だがとにかく試してみる他ない。俺は扉のすぐ脇に身を隠すと、剣を握り直した。
「どこだ商人!」
ついにオーランダーが扉を焼いて蹴破って姿を現した7。
同時に俺は「どりゃあ!」と声を上げて横っ面から飛び出して剣を入れた。とっさにオーランダーは飛び散る火の粉に身体を変え、煽られてよろけた。
間髪入れずに二発目。またも切られた部分から火の粉を撒き散らして煽られるオーランダーが腰を手すりにぶつけた。
そこで俺の意図を読み取ったのだろう、オーランダーはふふんと憎たらしい笑いをこちらに向けた。
「なるほど、ここから私を落とすつもりか。しかし残念だが私は地面に衝突する瞬間に全身を炎に変えておけば、落下でのダメージは全く受けないぞ」
その通りだ。俺の意図はオーランダーを剣で煽ってここから突き落とすこと。だが、火の玉になればオーランダーの身体は地面にぶつかっても傷ひとつつかない。でもそんなものは想定の範囲内だ、策はそれだけでない。
「そう思うなら下を見てみな」
俺はもう一度剣を横に引いて追撃の準備に入る。今度こそ仕留めなくてはならない。
言われるがままに下を覗き込んで、オーランダーは「は!」と叫んだ。この大聖堂は鐘楼のすぐ脇に地下から汲み上げた人工の泉がある。
古代帝国時代に作られた水道から水を引いている結構な大きさを誇るもので、普段は信者が礼拝前の手洗い場に利用したり、旅人が馬に水を飲ませるのに利用している。
そしてこの位置から落下したならば、オーランダーの体はまっさかさまにその泉に落ちる。そのことにようやく気付いたオーランダーの顔面は一瞬にして蒼白になった。
「み、水場だと? 水はまずい、水はまずいんだ!」
「そーら落ちろ、ふん!」
俺の剣がオーランダーを切り裂いた。煽られていくつかの小さな炎に分裂したオーランダーの体は、再び集まったときにはすでに半分以上、手すりから身を乗り出していた。
どれほどの運動神経の持ち主でもこの状態から復帰するのは不可能だ。手すりからずり落ちたオーランダーは、頭を下に向けてまっすぐ泉へと突っ込んでいった。
「ほのおおおおおおおおお!」
槍のように加速しながら落ちていく間にも、何度も何度も全身を炎に包んでは戻しを繰り返す。
最後に泉に落ちて水しぶきを上げた瞬間、全身を炎が包み水面から白い湯気が噴き上がった。同時に巨大な水しぶきを伴う爆発が起こり、鐘楼にもびりびりと振動が伝わったので俺はよろけて膝を床に着いた。
しばらくして湯気の晴れた水面を見てみると、オーランダーが常に身に付けていた仮面だけがプカプカと漂っていた。
「か、勝った……」
へろへろと腰を下ろした。思った通りに進んで良かった。本当に、もしも失敗していたら火だるまになって塔から突き落とされるのは俺の方だったかもしれない。
安堵と高揚の入り混じった心境を楽しみながらも、ふとリーフたちの姿が頭を過る。
あいつらを助けに行かねば。立ち上がり、焼け崩れた木材を踏んで小さな扉をくぐった。
急いで鐘楼の長い階段を下り、礼拝堂の二階へ戻る。決着はまだ着いていないようだった。
リーフが軽い身のこなしでスレインの血のナイフをかわしている。ナイフは既に短めの剣ほどの長さにまで成長していた。
しかしそれは同時にスレインの体にも相当の負担をかけている表れでもあり、スレインのただでさえ白い肌はもはや石灰かと言わんばかりの青白さにまで変わり果てていた。刃を振る速度も緩慢で、へろへろと力ない。
その攻撃をリーフはかわしながらも、いまだ倒れたままのチュリルから離れた場所へとスレインを誘導していた。二人の戦いの場は、水と白磁の欠片のぶちまけられたテラス前からは大きく移されていた。
「諦めろスレイン!」
両手で剣をブンブンと振りながら呼びかけると、スレインはこちらを見るなり震えた。
「オーカス、なぜ生きているの? オーランダー様は?」
「もうあっちの世界に着いている頃かな。まあ安寧の地にも行けるみたいだし、あいつにとっては本望じゃないか?」
その一言でスレインのナイフはさらに変形した。体内からさらなる血液が絞り出され、一本の長い鞭へと、血のナイフは姿を変える。
スレインは鮮血のムチで石畳をバシンと叩く。さすがのリーフも驚いて飛び上がった。
「あなただけは絶対に許せない! 私の大切なものを何もかも奪っていく!」
スレインは攻撃の対象を俺に変えた。真っ赤な鞭が空を切り、元の何倍にも伸びる。
俺は剣を構えて鞭を受け止めた。しかしそれがスレインの狙いだったのだろう、鞭は剣に絡まり、回転しながら俺の手を叩く。
体を駆け巡る激痛にも俺は歯を食いしばって耐えた。ここで剣を落とそうものなら、すぐに鞭で絡め取られてしまう。
俺は剣を大きく横に振った。真紅の鞭は解け、空中に投げ出される。
しかしスレインの能力は伊達ではなかった。普通なら床に落ちるはずの鞭は空中でさらにひるがえり、俺の背後にまで回り込むと、あっと言う間に俺の体を締め上げた。俺は完全に腕を封じられた。
「捕まえたわ!」
勝ち誇るスレイン。この戦いで相当疲労していたのだろう、普通ならば察知できることなのに、背後の異変には一切気付いていないようだった。
すでにリーフが背中に回り込んでいた。
「へ、セチア?」
後ろからスレインの肩に手を当てるリーフ。ふうっと息を吸うと、二人の身体が閃光に包まれる。
パンという何かが破れたような音が響いた。発光はほんの一回だけだったが、その間にスレインの体、特に髪の毛や衣服から黒い煙が上がっていた。
スレインの手から、血で真っ赤に染まった白磁の欠片がこぼれ落ちた。白い欠片は床にぶつかってさらに細かく小石ほどの大きさにまで砕け散る。
そしてリーフの攻撃を背後からまともに受けたスレインの身体はゆっくりと前に倒れ、受身を取ることもできず石畳に叩きつけられた。
その瞬間、俺を縛り上げていた赤色の鞭はただの鮮血へと崩れ落ち、俺の上着と床に紐状の赤黒い痕を残して元の血液へと戻ったのだった。




