第五章 大聖堂 その5
扉の奥には二階に続く階段がある。間もなくリーフとチュリルが礼拝堂をぐるりと囲む吹き抜けの反対側から姿を現し、俺を見るなりすぐに駆けつけた。
「オーカス、無事か?」
息を切らしながらリーフが尋ねたので、少し胸を張って言い放った。
「ああ、伊達に商人やってねえよ。とにかくどこでもいい、出口を探そう」
俺は適当に見つけた扉を蹴破った。
その扉は外、それも正門の真上のテラスにつながっていた。ここからは聖堂前広場を一望できる。
広場ではコシブ達の奮戦によって倒れた兵士たちの他、パニックに陥った平民の信徒があらゆる方向へと逃げ回っている。その流れに逆らいながら、都中の兵士や僧侶たちが駆けつけており、早い者は既に門の前で槍を構えていた。
これだけ囲まれては逃げられない。ここから飛び降りるのは無謀だ。
「だめだ、他に逃げ道を探そう。裏口とかは無いか?」
「そんなもの、この大聖堂には無いわ」
突然、どこからともなく女の声が聞こえた。
「危ない!」
すぐさまリーフが後ろから俺の腕を掴み、ぐいっと引いた。一見華奢な腕なのに恐ろしい握力。意表を突かれた俺はよろけて何歩も下がってしまった。
それがラッキーだった。次の瞬間には今の今まで俺のいた場所に槍が突き立てられていた。
床石の隙間に突き刺さり、柄をウィンウィンと振動させる投槍を見て、一瞬にして全身から血が抜けた感覚が走る。
そしてすぐさま人影がすぐ上の瓦屋根から飛び降り、テラスに着地する。
飛び移ったその人影は朝の太陽を背にしてはいるものの、輝くブロンドの髪の毛と白い衣服を着込んでいた。その姿を見て、リーフはわなわなと震えた。
「スレイン、お前……!」
スレインだった。脇に東国の意匠を凝らした水瓶を抱えたスレインが一歩一歩コツコツと床を踏みながら俺たちに近付いてくる。
「セチア、私のたった一人の、対等に接してくれた友達。上流階級の出身だからと除け者にされていた私にも、いつも明るく優しくしてくれた」
スレインはリーフだけを見つめていた。抑揚の無い、下手な演劇のような口調だったが、それが余計に不気味だった。
「ス、スレイン?」
俺の声は少し震えていたかもしれない。剣を構え直し威嚇してみせたが、スレインの歩みは一切鈍ることがなかった。そもそも俺の剣が目に入っているのかすらわからない。
とにかく、これほどの得体の知れない相手を前にしたのは初めてだ。何か仕掛けようという雰囲気でもない。だがこのまま飛びかかっても、反撃の手段を隠しているのかもしれない。何を考えているのか一切読めない、そのせいで俺もリーフも間合いを保つことしかできなかった。
気が付けば俺たちは後ずさりして、全員が礼拝堂の中へと押し戻されていた。スレイン自身も扉をくぐったところで、ようやく次の言葉を発する。
「だから、あなたをゾア神の導きで安寧の地へ送り出す。それが私のせめてもの恩返し」
それを聞いて俺は理解した。こいつはリーフを殺そうとしている。それが神への反逆という罪を背負った親友を救う唯一の方法だとでも考えていることも。
話の通じる相手には思えなかったが、俺は震える口元をこらえて言い放った。
「スレイン、お前だって分かっているだろう。真正ゾア神教はプラートが神の名を騙って作った異端派だ。お前のその能力だって、悪魔の力なのかもしれないんだぞ」
「だから何だ、現世で生きる意味を失った私に救いを与えてくださった神であることに変わりはない、私が裏切ればそれこそ神に対する不徳でしょう!」
鋭い剣幕で返される。それを聞いたリーフが俺の前に出て、スレインに近付いていった。
「行くな!」
そう言った時には、リーフはすでにスレインの両肩を掴み、互いの顔を近付けていた。
「スレイン、私はお前と戦いたくない。一緒に逃げよう、な?」
「ごめんね、それだけはできないの。いくらセチアの頼みとは言っても……」
作ったような笑顔。リーフはかつての友の豹変に恐怖を感じたようで、ぞっとした様子で身を引いた。
直後、スレインの持っていた水瓶の蓋が弾け飛び、中から透明な水が噴き出した。
それがまるで人間の、それも巨漢の大腕のような形に変形し、リーフの細い身体を胸のあたりで締め上げた。
かなりの力で締め付けられているのか、リーフは呻き声を漏らして床に膝をついた。
もはやスレインが俺たちと共に逃げるという選択肢は残されていない。
相手が誰だろうと構っていられない。切りかかろうと剣を振り上げたその時だ。
「お前の相手は俺だ!」
巨大な火球が俺の側方からまっすぐに突っ込んでくる。一階から追いかけてきたオーランダーだ。
くそ、よりによってこんなところで。俺は剣を向ける相手をスレインから火球に切り替えた。
大人一人なら全身を飲み込んでしまうほどの大きさの炎に横から剣を入れる。剣風に煽られた炎は大きく揺らめき、一瞬俺の背丈の二倍ほどにまで膨れ上がったが、すぐに人型に集まって、怪しげな仮面を被った司祭の姿に戻った。
人間の姿に戻っても腕を庇っている。先ほどの傷がまだ痛むらしい。
「貴様だけは私がプラート様に代わって抹殺する!」
瞳に憎悪の炎が宿っていた。ぞっとするほどの殺気。
ふと、背後の女性陣に目を遣る。
「リーフを離せ!」
ちょうどチュリルが素早い身のこなしでスレインに蹴りかかっていた。
しかしスレインはリーフを締め付ける太い拳の根元あたりから、植物のツルのような細長い水の鞭を繰り出した。
水の鞭は素早くしなり、前に突き出したチュリルの足に絡みつき、チュリルの小さな体を石造りの床に叩きつける。
すかさず第二の水の鞭が伸び、チュリルの細い首に巻きつき、そのまま締め付けた。
「あなたの能力は潜入には便利だけど、相手も祝福を受けていたら不利みたいね。でもまあ、あなたも真正ゾア神教のために色々と尽くしてきたわけだし、死んでもお情けで救ってもらえるんじゃないかしら?」
声を出すこともできず、目を白黒させるチュリル。女が女に振るう暴力など、目を背けたくなるほど悲痛な光景だ。
「チュリル! 待ってろ、今助けに」
「よそ見をするな、焼け死ぬぞ!」
振り返って隙を作ってしまった俺に炎の拳が襲いかかる。間一髪、直撃は免れたがオーランダーの炎が俺の上着の袖に燃え移った。
慌ててもう片方の手で火の上がる腕をバンバンと叩く。幸いにも小さな炎だったのですぐにおさまったが、袖が真っ黒に焦げて穴までできてしまった。
「くそー、俺の一張羅になんてことしやがる。上質の羊毛製で、金貨五枚も払ったんだぞ!」
俺は剣を頭上に振り上げ、オーランダーの頭をかち割るように斬りかかった。しかし刃が入った瞬間、オーランダーの全身が人型の真っ赤な炎に変質する。
俺の剣は巨大な炎を二つに縦から二つに両断はしたが、一切の手応えも感じらない。左右に分かれた炎は再び一つに集まり、白いローブ姿に戻るのだった。
「忘れたのか、私は体を炎に変えることができる。斬っても叩いてもかすり傷ひとつすら付けることはできんぞ」
今度は両腕を炎に変えて殴りかかる。が、俺にとって避けるのはそう難しくはない。
さっきから戦ってきた連中にも当てはまることだが、多くの兵士が戦闘に関して経験が浅いのだ。それは実戦の動きにも表れていた。
兵士の多くが元はそこらの貧民で、真正ゾア神教に改宗して初めて戦いに参加するようになったからだとマグノリアから聞いていた通りだ。
このオーランダーに関しても例に漏れず、能力自体は凶悪だが、格闘に関しては素人に毛が生えた程度のようだ。相手が次にどんな手を打ってくるか、幼い頃から戦いを叩き込まれた俺にはある程度読める。
「へっ、さっき水をかぶってひいひい言っていたのは誰だったかなあ?」
ステップを踏むように後退しながら炎の拳をかわす。今の一言が挑発に取られたのか、オーランダーはムキになり、どんどん攻撃のリズムが加速する。しかしその分動きも単調になり、避ける分には余裕が出てくる。
「祝福も受けていないただの人間が、神の力をこの身に受けた私に敵うはずがない」
「そうだ、神の力だな。でも、あんたの力は本当にゾア神から授かったものなのかい? そんな保証がどこ
にある。悪魔の力だったらどうするんだ?」
「そのようなことがあるか。悪魔ごときがこれほどの力を人間に与えるわけが無かろう」
「それじゃあ神様からもらったその力ってのは一体何のために使うんだ? もしかして俺みたいな何の能力も無い普通の人間たちを支配するためか? それって結局は特権と教典の都合の良い解釈で皆を支配していた、お前らの毛嫌いしている旧教とやっていることは何ら変わりなくねえか?」
旧教と同じ。その一言がオーランダーを突き刺した。
「私たちはあのような下衆どもとは違う! 民の救済、そう、これは神の意思に基づいた全人間の救済なのだ!」
「全人間の救済が目的なら、旧教の連中はどうなんだ? あいつらを倒してこれで全人間が幸せって考え方じゃあ、連中は人間じゃないみたいじゃないか。人間を救うために人間を倒すなんて、おかしな力を神は与えてくださるんだな」
「連中が人間などとは思っておらん。あいつらは神を騙る虫けらだ、蛆虫だ! 真なる神の力の前に屈しようと根絶やしにせねばならぬ存在なのだ! こうなって初めて、民は神の力の前に等しき人間として幸福を得られるのだ!」
「さっきから神の力、神の力って。あんたはプラートの授かった預言じゃなくて、本当は神からもらったその力で民を支配しようとしているだけじゃないのか?」
「そんなわけがあるか! 貴様のような賤民に何がわかる!」
絶叫のような怒号。オーランダーが全身を炎に包み、そのまままっすぐ突っ込んできた。
「おおっと、怒らせちゃった」
あっさりと読める動き。少し身を横に移してやると、オーランダーは坂道を転がるチーズのようにそのまま一直線に俺の脇をかすめていった。
しかし真正ゾア神教では人は皆平等と謳っていたのに俺のことを賤民と呼ぶとは、この男はようやく本心をさらけ出したようだ。俺はにっと笑ってやった。
ふと既に距離の開いてしまったテラスの方向に目を向ける。炎の拳をかわしている間に、俺は反対側の壁際にまで追い詰められてしまっていた。
水の鞭を首に巻きつけたチュリルがビクビクと痙攣しながら倒れている。それをゴミでも見るかのように高圧的に見下ろすスレインが目に入り、俺の背筋が凍りついた。
「そもそもあなたがセチアに変な書物なんか読み聞かせるからこんなことになっちゃったのよ。それでも死後の救済を受けられるなんて、神は許しても私が許さない。せめて苦しみながら惨めたらしく死になさい!」
チュリルが「ぐ、ぐるじ……」と声にならぬ声を上げて首に巻きついた水に手をかけるが解けることはない。顔を真っ青にして、目が白くひっくり返っている。
「ス、スレイン、やめろ!」
リーフは巨大な水の手に身体を掴まれながらも、必死に力を込めて解こうとしていた。しかし水の腕はオーランダーの炎と違い、物体が通り抜けることはできないようで、血抜きの寸前、紐に吊るされた動物のように、暴れ回れど拘束を解くことはできなかった。
「さあ、その首の骨をへし折ってあげるわ!」
「だめだー!」
絶叫の後、リーフの体から火花が飛び散った。バチバチと閃光がほとばしり、近くにかけられていたプラートの絵画が落下し、壁の隅の燭台も倒れる。
さらにスレインの力で腕や鞭に形を変えていた水も白く光り輝いた。
その光を受けてスレインは「きゃあ!」と悲鳴を上げて手を引っ込めてしまったので、脇に抱えていた白磁の水瓶を床に落としてしまった。
ガシャンという耳を痛めそうな音が響き、小さな白い破片が周囲に飛び散る。同時に、形を保っていた水の塊が一瞬にして元の液体に戻ってしまったので、床に落ちるなり水滴となってまき散らされたのだった。
雷の力が水を伝わったのだろう。スレインは手をさすりながらうずくまり、ずぶ濡れになったチュリルは目を閉じたまま仰向けで倒れていた。
「チュリル、目を開けろ、チュリル!」
リーフはすぐさまチュリルに駆け寄り、頬をぺしぺしと叩いていた。何度も何度もに名前を呼ぶが、一向に反応はない。
「お、お父様……」
スレインはスレインで息を荒げ、真っ赤になった手を震わせながら散らばった白磁の破片を必死に集めていた。
そして、特に大きな破片を拾うと、それをぐっと握り締めた。相当強く握り締めたのか、掌から真っ赤な血がどくどくと流れ出している。
そしてスレインは静かに立ち上がる。リーフもその様子に気づいたのか、掌から流れ出る血を見るなり動きを完全に止めてしまった。
「セチア、せめてあなただけは苦しまないように安寧の地へ送ろうと思っていたのに。でもそこまで拒絶するのなら、私も手段は選ばない!」
スレインの手から流れ出た血が集まり、一本の真っ赤なナイフへと姿を変えた。果物包丁よりも粗末なくらいの小さなナイフだが、殺傷能力は十分だ。
スレインは自分の血液で作ったナイフを振り回し、そのままリーフにぶつかってきた。
リーフは間一髪のところでうまく回避している。横に後ろに、先ほど俺がオーランダーの拳をかわしていたのと同じように身軽に足を運ぶ。
「や、やめろ、そんなことしているとお前も死んでしまうぞ!」
それでもリーフはかつての友の身を案じているようだった。スレインの掌からは今でも血がぽたぽたと流れ落ち、床に血痕を落としている。
さらに、ナイフが先程よりもだんだんと大きくなっている。体から無理矢理に血を抜き取って刀身に変化させているようだ。スレインの表情にも怒りと苦痛が入り混じっている。
しかしこのままではリーフも、倒れたままのチュリルも危ない!
すぐにも駆けつけたいところだが、俺の背後からはまたも全身を炎に包んだオーランダーが両脇に腕を広げて俺に抱きつこうとしていたのだった。
「死ね、地獄に落ちろ!」
オーランダーが炎の抱擁をしかけてくる。
女の子なら自分から喜んで飛び込んでいくところだが、こんな暑苦しい野郎に抱きつかれてたまったものじゃない。俺は全力で駆け出し、炎の及ばない距離まで逃げた。
「司祭のくせに、そんな汚い言葉使っちゃだめでしょーが!」
「神を脅かすものにかける情など微塵も無い」
しかしこのままではやられるのも時間の問題だ。どうにかしてこの状況を打開せねば。そのためには、オーランダーに勝てる場所に移る必要がある。
あいつは剣や槍ではまず倒せない。しかし、炎になっている間は水をかぶればダメージを与えられる。コップ一杯の水でもいい、この場であいつにぶちまけられれば、少しは足止めにもなるだろうが。
「待て、逃げるな!」
俺は走り出した。リーフたちも心配だが、まずはオーランダーをどうにかしなくては。




