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絶望の商人と奇跡の娘  作者: 悠聡
第一部 救済の神託
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第五章 大聖堂 その3

 俺たちは石張りの地下通路を必死で走った。狭く暗い通路で足音が響き不気味に聞こえる。


 後ろからはオーランダーと兵士たちも追いかけてきている。兵士は全員金属の鎧を着込んでいるためか、初めはガシャガシャという音がよく聞こえていたが、その音は徐々に小さくなり、コツコツと一人の身軽な足音だけが追いかけてきているのが聞こえていた。


 兵士の鎧は重くて速く走るのには向いていないようだ。唯一身軽なオーランダーが俺たちについてきている。


 オーランダーは何度か体の一部を炎に変えて殴りかかってきたようだが、運良く俺たちまで攻撃は届かなかった。


 机の置いてある小部屋を通り過ぎ、ようやく一階へと通じる階段にたどり着く。一人だけで塞げてしまうほどの狭い階段だ。リーフとチュリルを先に上らせ、俺は後から駆け上がる。


 しかしオーランダーはこの時を待っていた。階段の下まで来たオーランダーは、ぎらりと仮面の隙間から目を光らせ、片腕を巨大な炎に変化させた。


「これで終わりだ!」


 不気味な笑みを浮かべ、その猛火に包まれた腕を俺の背中めがけて伸ばしてきたのだ。


 俺は焦った。今は狭い階段を上っている最中で、横に避けることはできない。しかも階段のせいで距離も縮まっている。これほど狭くては剣も振れない。


 真っ赤な火球が今にも俺の体を呑み込まんとしていた。


 時間の流れが遅くなり、炎がゆっくり背中まで迫ってきているように思える。じりじりと背中が炙られ、服の所々から小さな煙が上がる。こんな状況で落ち着いていられようか。


 こうなれば我武者羅に抵抗するしかない。


 とっさに通路の脇に置かれていた樽を蹴り落とした。男なら片手でも軽々と担げるような小さな樽だ。


 階段を転がり落ちた樽は、オーランダーの炎にまっすぐ突っ込んでいく。


「小賢しい、そんなもの焼き払ってくれる!」


 オーランダーは巨大な炎の手で樽を握り締めた。樽の木材が黒く焼け焦げ、べきべきと音を立てて割れる。


 しかし同時に、ジューという音とともに、大量の湯気が上がった。


「ぎゃあああああ!」


 オーランダーが絶叫した。炎を引っ込めて元の人間の形に戻ると、オーランダーは先程まで炎に包まれていた腕をもう片方の腕で必死に庇い、うずくまっていた。


 赤い血がぽたぽたと滴り、石畳に斑模様を落としている。ひどく息を切らしながら、仮面の男は悶絶していた。


 今俺が蹴り落としたのは水の詰まった樽だった。そして合点がいった。こいつの体は炎、水をかぶれば炎は消える。


 もしかしたら、水はオーランダーにとって最大の弱点なのか!


「き、貴様! なんという真似を!」


 オーランダーの髪の毛が逆立ち炎を上げる。司祭は怒りに身を任せていた。次はより強力な炎で俺を焼き殺そうとしているのがすぐに感じ取れた。


 そんなことされてたまるものか。


「それならもう一つ、おまけのサービスだ」


 俺は同じように通路脇に並べられていたもう一つの樽も蹴りつけた。


「くそ、商人風情が!」


 吹き出す炎を引っ込め、転がる樽から必死でオーランダーが逃げる。


 ようやく鎧を着た部下たちが追いついたようだが、逆にオーランダーの逃走を邪魔してしまったようで下の方から物がぶつかる音と「ぎゃああ」と男たちの情けない悲鳴が聞こえてきた。


 急いでここを離れよう。さっさと階段を駆け上がり、礼拝堂へと向かう。


「おお、兵士たちが全滅している」


 礼拝堂に戻るなりリーフは感慨深げに言った。あちらこちらで椅子やら燭台やらがひっくり返った礼拝堂。しかしそれらよりもはるかに多くの兵士たちが床に倒れている。


 倒れた兵士は皆、鎧や武器がすっかり消え去って裸同然の格好をしているか、板金に巨大な動物のヒヅメの痕を残しているかのどちらかだった。


 そんな人の折り重なった中で、一人と一頭だけが立ち上がっている。マグノリアとアコーンだ。この男たちだけで何十もの兵士を相手にして、その進撃を食い止めたのだ。


「チュリルは無事だったか?」


 振り返ったマグノリアがチュリルに駆け寄った。アコーンは俺ににやっと笑いかけた。ラクダの笑っている表情なんて見るのは初めてだ。


「ああ、あんたが食い止めてくれたおかげでな。でも地下通路は使えない、オーランダーが待ち構えてやがった」


「それならば正門から逃げよう。この聖堂の中の兵士はあらかた倒し――」


「だめだ、キリが無い!」


 扉の無くなった正門から、どたどたと大人数が流れ込む。


 血にまみれ満身創痍のコシブとアルケビアが聖堂に逃げ込み、大勢の兵士たちが二人を追ってきたのだ。近くの詰所からも援軍が来たのだろう、広場は既に兵士で埋め尽くされていた。


 マグノリアは「また来たか」と呟くと、大軍に向き合い、腰を低く落とす。その表情は獲物を狙う狼のそれに似ていた。


 しかし天下無双のマグノリアもさすがに疲労がたまっているのだろう。大粒の汗が頬を伝い、肩が上下している。


 俺も加勢しよう。そう思って剣を握り直していると、背後からチュリルが叫んだ。


「マグノリアさん、祭壇の下だけ削るんだ!」


 チュリルは祭壇を指差していた。


 祭壇の下を削るとは、どういう意味だ?


 マグノリアは一瞬考えた後「任せろ」とだけ言ってだっと走り出した。チュリルの意図を汲み取ったらしい。


 敵兵に背を向けたマグノリア。俺には何をしたいのか全くわからなかった。


 マグノリアは壁に立てかけられた巨大な祭壇に片手を当てる。


 普通の建物の五階くらいの高さはありそうな祭壇は、天井近くまで伸び、壁一面のほとんどを覆い尽くしており、真ん中にでかでかとプラートの肖像が描かれている。その祭壇の下側に沿って手を添えながらマグノリアは祭壇の端から端まで一気に駆け抜けた。


「みんな、壁際に寄っときな!」


 チュリルが俺とリーフの手を引いて、柱に取り囲まれた礼拝堂の壁際まで俺たちを誘導する。アコーンも早足で俺たちについてきた。


 逃げるコシブとアルケビアも互いに顔を見合わせ、今まで走っていた絨毯の上から左右に別れ、両者とも壁まで駆け寄ったのだった。


 マグノリアが反対側の壁まで走り抜けたとき、俺はようやく何をしたかったのかがわかった。


 マグノリアが手を当てていた祭壇の下側だけがぽっかりとえぐれるように消え去っていた。重厚な木製の祭壇の根元部分、重みを支える部分が無くなったと言っていい。


 祭壇は巨木を切り出す時のようにみしみしと音を立てて、少しずつ傾く。その方向は祭壇の前、つまり押し寄せてきた敵兵がたまっている正門の方向だった。


 祭壇にはめ込まれたプラートの肖像画が兵士たちを睨みつけながら倒れ掛かる。兵士たちは阿鼻叫喚の大混乱だった。


「祭壇が倒れてくるー!」


「なんて罰当たりな!」


「に、逃げろー!」


 口々に叫びながら入り口へと後退する。だが焦っているせいかあちこちで転んで躓いている。


 やがて祭壇は容赦なく兵士たちにのしかかった。聖堂全体が倒壊するかのような轟音と震動。そりゃあ建物の中で小さな建物が崩れたようなものだからな。


 ばりばりと木材が破壊される音、兵士たちの叫び声とともに、礼拝堂に砂埃と木片が舞い上がる。俺たちは顔を腕で覆って飛びかかる木屑から顔を護った。


 飛び散る物が無くなって目を開くと、砂埃で白く霞んだ礼拝堂に、華美な装飾の施された前面と違って、ただ木を貼り合わせただけの祭壇の背面が礼拝堂の床を覆っていた。


 祭壇はうまい具合に正面に倒れ込み、逃げる兵士たちを押しつぶしたのだ。


「よし、みんなぺしゃんこだ!」


 俺はぐっと手を握った。祭壇の下から「うう」といった唸り声があちこちから聞こえるので多少不気味だが、今はそんなことにかまっていられない。


「皆無事のようだな」


 土煙の中から巨大なマグノリアのシルエットが現れる。倒れた祭壇を踏んでこっちに駆けつけてきたようだ。


「ああ、おかげさまでな」


「マグノリアさん、凄いな!」


 リーフの目がいつになく輝いていた。本当にこの娘は。


「さあ、早く逃げよ……?」


 チュリルが言いかけたまさにその時、開かれた正門から突風がどうっと聖堂の中に吹き込む。


 砂埃が吹き飛ばされ、霞んだ室内に元通りの太陽の光が差し込む。同時に床に散らばった木片や瓦礫も一斉に巻き上げられ、俺たちの体をびしびしと打ち付けた。


 凄まじい強風だった。


 東の国で体験した豪雨を伴う大嵐。地元の住民は台風と呼んでいたが、それに匹敵するような大風がこの室内を吹き荒れる。温暖で気候の安定しているカルナボラス周辺では起こり得ない風だ。


 俺は帽子を押さえながら必死で踏ん張り、マグノリアは身をかがめている。


 コシブとアルケビアは壁に捕まって耐え、リーフとセチアはうずくまったアコーンの陰に隠れているが、身動き一つ取れない。


「聖堂を荒らすのはあなたたちでしたか」


 高らかに響く男の声。柔和ながらも神々しい、耳に快い声色だ。そしてこの声は、つい最近も聞いたことがある。


 風の吹き込む正門から、どういったわけか悠然と立ち歩いたまま男が入ってくる。吹き荒れる風もその男の周りだけそよ風ほどに弱まっているようで、長い金髪と白い服の裾だけがひらひらとはためいていた。


 女かと見紛うほどの白い肌と艶のある金髪、こいつの顔は忘れるわけがない。


「プラート!」


 俺は叫んだ。


 祭壇が倒れ木屑の飛び交う礼拝堂の入口で、真正ゾア神教開祖プラートが貼り付けたような微笑みを浮かべてゆっくりと闊歩していたのだ。

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