第一章 砂漠の交易路 その4
「いやはや、オーカスの旦那にはどれだけ感謝しても感謝しきれないよ」
小太りの商人は馬車の上で手綱を握りながらにこにことほほ笑みかけていた。
「お礼はまだ早いぜ。仕事が終わってから、あとでたっぷり酒でも飲ませてくれや」
俺はアコーンに跨って男の横を歩いていた。アコーンの後ろには縄で6頭のラクダが一列につながれ、そのさらに後ろを髭もじゃの男の操る馬車が続いていた。
太陽は西の大地に沈みかけ、砂漠の表土は燃え滾る火炎のように真っ赤に染まっている。その一方で東の空を見てみると、すでに紺色の宵闇が迫り、空には無数の星の砂粒が輝き始めていた。
「そろそろ祈りの時間じゃないのか?」
小太りの男が座る御者台の後ろから、ひょこっと頭を出したリーフが言った。相変わらず赤いスカーフを頭にかぶっており、ここらの女とも見間違えそうだ。
「そうだな、ここらでしばらく休もう」
小太りの男が馬車を端に寄せて停めたので、アコーンも立ち止まった。すぐさま、後ろに続いて歩いていたラクダたちもピタッと足を止めた。
小太りの男と髭もじゃの男は馬車から降りると、細かい砂の舞う地面に各自絨毯を敷いた。人間の男一人寝転がることもできないほどの小さなものだが、これは野外での祈りの際に跪いて太陽を拝むためのものなのでこの大きさで十分なのだ。
二人の男は絨毯の上で伏せると、沈みゆく太陽に向かって何度も何度も上半身を起こしまた伏して祈りをささげる。赤い空に二人の黒いシルエットが切り抜かれたその光景は、実に神秘的だった。
少し時間を戻そう。食堂でこの二人に出会った俺は儲けの機会を嗅ぎ取り、個室に二人を招いて話を聞いてみたのだった。俺とリーフが二人の男と対面する形で絨毯の上に座り込み、互いに金属製の杯を持ってアイランを酌み交わした。
「私たちは三人で東方から珍しい酒や食料を仕入れていました。明後日、セリム商会本部のあるサルマの街で領主様のご子息の結婚式が行われます。ほんの一月前に決まった急な話でした。商会はその後援を行うことになり、急いで宴のための食料を遠くから仕入れることとなったのです」
小太りの男は深いため息をつきながら話した。目の下には真黒なクマができている。ここ最近、ろくに眠れていないのがすぐにわかる。
「近年のタルメゼ帝国の衰退は商会にも打撃になってる。海運拠点はシシカに限られ、東への進出は内海経由になるから時間がかかりすぎる。海に面した南の国々とは国交断絶状態だから、砂漠の陸運に頼るしかない。在庫もとっくに尽きているし、酒好きの領主様のためにも、珍しい酒を俺たちが集めねえといけなくなったんだ。それがあいつのせいで……」
歯ぎしりして、髭もじゃ男が床の絨毯を拳で殴りつけた。焦りと怒りと、やるせない想いとが渦巻いているようだ。
領主家の結婚式。これは確かに逃したら大ごとだ。サルマの街は内陸の交易路の拠点で、海沿いの領地を多く失った現在のタルメゼ帝国にとってはシシカに次ぐ商業都市だ。2000年前には人が住んでいた痕跡が見つかっており、長い歴史の中で多くの旅人を見守ってきた。
現在の領主は皇帝陛下の甥で、挙式する子息とはその長男だ。皇帝の血縁ゆえ家格はそこらの王侯貴族でもはるか及ばない。近隣の領主も参列者として招かれるために、否応なく商会は最高のもてなしを期待される。
「事情は大体わかった。幸運にも俺は急ぎの用ではないし、ラクダを操るのも自信がある。あんたらに同行するのも可能だ」
組んだ両手で顎を支えながら、俺は言った。
「ほ、本当によろしいのですか?」
二人の男の目が輝いた。ここで俺はわざと険しい表情を浮かべた。
「だが、普通なら三日はかかる街まで二日で行くとなると、負担も大きい。それに夜には盗賊も出るし、安全に街までたどり着けるかどうかもわからん。それなりの見返りをもらえないと、割に合わないな」
男たちは言葉に詰まったが、二人で顔を見合わせて頷くと、すぐさま小太りの男が話を続けた。
「今現在私たちは婚礼の酒以外ろくなものを持っておりません。ですが、親方に頼めばすぐさま報酬を用意するでしょう」
「セリム商会にとっちゃあんたへの報酬はたいした額じゃない。あそこは絨毯も名産だ。一流の職人が編み込んだ絨毯を現物支給してもいい。安くても金貨3枚の価値にはなる」
金貨3枚。荷物運びとしては破格の報酬だ。庶民が1ヶ月間まるまる働いてももらえるかわからない金額に相当する。
「よし乗った。すぐに出発の準備をしよう」
俺たちは杯を手に取ると互いに打ち付け合い、中身をそのまま飲み干した。
リーフは終始きょとんとしたまま、俺たちを眺めていた。
そのリーフに目配せをした小太りの男は、俺にちょいちょいと手を振ると、小さな声で尋ねた。
「オーカスの旦那、お連れの娘さんはどうされます?」
「ああ、ここに残すよ。女に夜道は危険だからな。あんたらの仲間の看病役でもしてもらうよ」
空っぽになった杯を指で弄りながら俺は答えた。当然だ、リーフを危険な目に遭わせるわけにはいかない。荷物を運び終えたらサルマからすぐに戻って来て、また拾えばいい。そう思って今後の予定を立てていた。このことはリーフには一言も話していない。
「それは嫌だ、私はオーカスについていく!」
横に座っていたリーフが立ち上がり、強く言い放った。座り込んだ俺を上から見下ろすその目には強い意志が宿っていた。この娘は本心から俺について来たがっている。
しかし年若い女の子にはこの行程は過酷だ。俺の返事は決まっていた。
「おいおい話聞いただろ。これから長い距離をろくに休まず歩くんだ。おまけに盗賊だって出るかもしれない。そんな危険なこと、お前にやらせられない」
俺は座りながら反論したが、リーフはすぐに「嫌だ」と返した。
「わがまま言うな。危ないって言ってるだろ」
俺も対抗して立ち上がり、今度は俺がリーフを見下ろす形になった。口もとがらせて威圧感を演出してみせた。おかげで座ったままだった二人の男は俺の図体のでかさを改めて実感したようで、少しばかりおののいてしまった。
だがリーフはその場に立ったまま、じっと俺の目を見つめていた。
「それでも私はオーカスといっしょにいたい。私が知っているのはオーカスただ一人なんだから」
静かに、力強く俺に向けられた二つの目は透き通っていた。その瞳に俺は言い返す気力を奪われてしまった。何を言っても曲げない硬い意志を感じ取ったのだ。
考えてみればリーフの気持ちもわからなくはない。記憶を失ってからろくに話したのは俺だけなのだ。心の支えとなる過去の経験を失った上に、心を許せる人間がまるでいないこいつと同じ状況にもしも俺も置かれてしまったならば、きっと孤独感に押しつぶされそうになる。
今ここで俺がいなくなったら誰がリーフの相手をするのだろう。
「あー、つまりだ」
俺はリーフの視線から目を反らし、適当な言い訳を探した。道中危険だからといった理由では、この娘は引き下がりそうにない。
「うん、お前に寂しい思いをさせちまうのは申し訳ねえとは思っている。でもな、これは大事な商売だ。急ぐからできれば身軽になりたいのに、アコーンだってお前を乗せたら遅くなっちまうだろ」
しどろもどろ、撫でるような口調でリーフに返した。だが、リーフは依然無垢でまっすぐな視線を送り返すだけだった。
「旦那、横から割り込んで失礼しますけれど」
小太りの男が立ち上がり、俺の肩に手を置いた。
「私たちは馬車を二台持っております。荷台にも酒を積んでいますが、お嬢さん一人くらいのスペースなら十分あります。どうでしょう、お嬢さんは私の馬車に乗せますので、旦那はラクダたちを先導してくださらんかな?」
「そうだオーカス、それならいいだろ!」
男の提案に便乗し、リーフが俺の腕をつかみながらキラキラと眼差しを向ける。
余計な事言いやがって。これじゃ反論もできねえ。
結局、これ以上の合理的な言い訳が思いつかないのとリーフの頑固さとで、俺は根負けした。男の馬車に乗せて何かがあったら最優先でリーフを逃がすという約束を交わし、同行させることになった。
なお病人の世話は宿の主人が近くの医者を紹介してくれたので、プロに任せることにした。
さて、旅の再開となると万全に準備を整えなくてはならない。水筒の水を満タンにして、食糧も近くの店で買い込む。その後俺とリーフはモスクの近くにある公衆浴場で身体を洗い、砂汚れを落とした。
この浴場は夕方の礼拝前にアラミア教徒が入ることが多いそうだが、ちょうど俺たちの入った時間は空いていたので好都合だった。ただ、こんな小さな村なのにいっちょまえに男女別の構造になっていたのが期待外れだったのは内緒だ。
空が徐々に赤みを含み始めた頃、準備を終えた俺は隊商宿の中庭でアコーンに荷物を結び付けていた。毛布など特に大きな荷物は小太りの男の馬車にリーフといっしょに積んでもらえることになったが、水筒や財布は肌身離さず持っておくべきだ。
「旦那、何ですかいその妙な荷物は?」
突如、後ろから様子を眺めていた小太りの男が俺が括りつけている荷物を指差しながら尋ねた。
確かに、白い麻布に包まれた細長い棒状の荷物をわざわざ馬車に載せず手元に残しておくのは一見すると不自然だろう。だが、このブツこそ俺が10年間、危険な旅商人を続けられた一つの証でもあるのだ。
「なぁに、砂漠には盗賊も出るからな。ただの護身用の武器だよ」
陽が沈めば宿は出入り禁止になる。俺たちは日没の前に宿を出て、夜の間も可能な限り歩き続けた。
俺は普段よりだいぶ身軽になったアコーンに跨り、酒樽や食糧を背負った六頭のラクダを率いる。それに小太りの男がほぼ並走し、最後尾を髭もじゃの男がついていく。
男たちが日課の礼拝を終えると、夕食を兼ねたしばしの休憩を取った。
馬車に吊るしていたランプから蝋燭の炎を移して小さな焚火を起こすと、リーフが慣れた手つきで料理を作った。男たちの持っていた燻製肉と先ほどロクム村で買ったオレンジを混ぜ、甘い匂いと酸味の効いた逸品が完成する。
「美味いなあ、君は良いお嫁さんになれるよ。うちの息子にも紹介したいくらいだ」
小太りの男が満面の笑みで肉にかぶりつくので、リーフも照れ笑いした。
「異教徒の嫁なんぞもらうものではない。冗談にしてもきつすぎるぞ」
黒ターバンに髭もじゃの男はリーフには一目も向けなかったが、アツアツの肉を頬張ると目を大きくして笑みを漏らした。この男はこの旅に女が同行すること自体快く思っていない様子だが、今の料理の味で少しは不満も治まったのではなかろうか。
「それにしてもオーカスの旦那、その背負っている代物、本当に使いこなせるのかい?」
小太りの男は肉を噛みながら俺の背中に括られた物を指差して尋ねた。
「ああそうだが、不安か?」
俺は背中に右手を回し、例の物体を触る。冷たい金属の感触と、滑り止めに巻かれた布の手触りが伝わる。
これは有事の際、俺が使う護身用の武器。人間の背丈ほどある両手剣だ。太陽も沈んでいつ盗賊が襲い掛かって来てもおかしくない時間になったと同時に、俺はアコーンに括り付けていた布袋からこいつを取り出し、すぐ抜けるよう背中に鞘に入った状態で結び付けた。
「いえ、オーカスの旦那は見た通り腕力に自信があるのはわかります。そこらの兵士よりも強いでしょう。ですがそんなに大きな剣を振り回す人間は出会ったことも無く、どう戦うのか想像もつかないのです」
小太り男が焦ったように弁解した。
「そう言えば私もその剣を見るのは初めてだ。ちょっと抜いて見せてくれ」
リーフもしげしげと俺の剣を見つめる。こいつは本当、好奇心のカタマリのような奴だ。
「いいけど、危ないから近付くなよ」
俺は皿を置き立ち上がると、道の真ん中まで歩いて出た。
そこで一呼吸置き、右手で背中の剣に手を伸ばすと、鞘から滑らせる要領で刃を抜いた。そして左手も回して柄をつかむと、両腕に力を込めて右斜め上から左方向に剣を振った。
鞘に収まっているよりも実際の刀身の重厚感はまるで違う。一振りでブオンと鈍く空気を切るような音がして、同時に煽られた空気で風が巻き起こる。剣風で焚火の炎が大きく揺れて火の粉が舞い上がると、並んで座っていた三人は「おおっ」と歓声を上げた。
刃渡り150センチの鋼鉄製。重さは20キロ近くある諸刃の剣で、柄に赤い布を巻いている以外これといった装飾の無い無骨な造形だ。
並大抵の男では振り上げることすらできないが、大柄で訓練を受けた者ならばなんとか使いこなすこともできる。太陽の下では白銀色に磨かれて鏡のように周囲の景色を映し込むのだが、今は夜。刀身が焚火の微かな光を反射し、大剣が燈色に輝いていた。
俺が長い旅を乗り越えてこられたのも、この剣のおかげだ。盗賊や獣に襲われてもこれを武器に乗り切ったこと、掛けで腕自慢の戦士と戦い勝利して金を貰えたこと、別の隊商の護衛としてしばらく旅に同行したこと……。数え切れないほど、俺はこの剣に何度も助けられている。
そしていつも俺が剣を抜いたとき、周りの人間は好奇の目を俺に向けるのだ。ちょうどさっきの三人のように。
あまり人に見せつけるものでもないのだが、やはりこういった反応には得意になってしまうのが人間というものだ。
「俺の故郷ははるか西のアイトープ王国、その森林地帯の寒村クーヘンシュタットだ。そこでは男は皆戦士として育てられ、両手剣を使いこなせて初めて一人前になる。正確には分からないが、1000年近く前にゾア神教が流入した時には既にいくつもの流派が存在していたらしい」
尋ねられてもいないのに、つい口から漏れ出てしまった。
「これは驚いた。オーカスの旦那の剣は、長い歴史の中で磨かれてきたんですね。旦那は身体だけでなく武器もビッグスケールだなぁ」
「俺なんてまだ人並みさ。あっちじゃあ俺より頭もう二つ分飛び抜けてる奴だって珍しくない。代々ガタイの良い民族で、男も女も皆でかい」
実際に、俺たちの民族は近隣の他の民族に比べ背が高く筋肉質な輩が多い。言い伝えに過ぎないが、はるかな昔、俺たちの祖先はアイトープ国よりもさらに北方の雪国からやってきた屈強な戦士たちだったそうだ。それが海の精霊の導きで海を渡り、森の女神の導きで土の精霊と契約して定住したのが現在の俺の故郷だという。
ゾア神教が流入し国教に認められると、教団と王家は元々その土地に根差して伝わっていた土着信仰を唯一神ゾアの教えに反する異教だとして排斥を行ってきた。見せしめに村ひとつを焼き払ったこともあるほど、その弾圧は激しかったという。
しかしクーヘンシュタットの村々では今なお木材を伐採する冬の季節になれば、森の女神に感謝する祭祀が1000年以上ひっそりと続けられている。俺たちにとっては神の教え云々以前に、生活に密着した習慣として森への信仰が染みついているのだ。大剣に関しても同じで、戦士だった頃の風習がそのまま残っているのだろう。
「オーカス以上の大男がいたら、そいつの剣はきっともっと大きいんだろうな」
少しばかり故郷のことを思い出していたところでリーフがけらけらと笑ったので、俺は目の前の砂漠に引き戻された。
「ああ、村で一番でかい奴はこれよりさらにでかい剣を振り回していたぞ。だが剣というよりほとんどナタみたいな分厚い鉄の刃物って言った方がよっぽどしっくりくる代物だったぜ」
ちょっと調子に乗りすぎたかな。俺は剣を鞘にしまい、三人の側に戻ってまた座り込んだ。
「その剣があればサルマへの道も安心ですな。ここから先は奇岩の谷、洞穴がそこら中にあって盗賊のアジトもどこかにあるなんて噂されているんですよ」
小太りの男がさらっと言うと、リーフが俺の剣から目を離して振り向いた。
「盗賊? 会えるのか?」
「会えるか会えないかより、会いたくないと言うのが正解だ」
俺は苦笑いしながら皿の上にまだ残っていた肉を口に放り込んだ。