第四章 信仰の都カルナボラス その12
コシブとアルケビアに呼ばれ、俺たちはパンと水をご馳走になった。
疲れ果てていた俺たちは皆、オリーブオイルをたっぷり浸したパンをがつがつと口に放り込み、水で流し込んだ。これほどに美味いパンは久しぶりだ。
食後、俺の寝かされていた部屋に自然と皆が集まる。椅子やベッドに腰掛けて、ただ黙っている時間がしばらく流れる。実際はごく短い時間だったのかもしれないが、俺には退屈な航海の中での丸一日のように長く感じられた。
「まさかスレインが……」
ようやくリーフが重い口を開いた。スレインについては誰もが話したいことだったが、口にしてはいけない雰囲気があった。
この一言を合図にその場にいた全員がため息をついた。
「チュリルも心配だ。どうなるのだろう?」
リーフが続けると、ひと呼吸おいてマグノリアが答えた。
「恐らく処刑される。神に……いや、真正ゾア神教に背いた者は例外なく死の裁きを受けるのだ」
聞いてリーフが勢いよく立ち上がった。
「なんとしても助けなければ。チュリルがいないと今頃処刑されていたのは私の方だったかもしれない。今こそ恩を返す時だ」
ゆっくりとマグノリアも立ち上がる。
「無論だ。私もこの命にかえてでもチュリルを助け出す」
マグノリアとリーフが互いに目を合わせて頷いた。二人は本気だった。真正ゾア神教云々よりも、ただチュリルという一人の人間を救い出したい。そのような熱気が溢れていた。
「私も賛成です。チュリルさんがいなくては真実は埋もれてしまいます。それに神の名を騙って処刑を行うような所業、私は許せません」
「その通りです。我々は真実を確かめる必要がある」
「僕もマホニア様と同じです。この力が何なのか、知らねばなりません」
マホニア司教も椅子に座りながら力強く言った。それに呼応して付き従う二人も相槌を打つ。
一方の俺はかなり冷めていた。立ち上がって加わろうという気は起こらず、床に目を落としていた。
どうして俺はこんなことになったのだろう。
冷静に考えれば商売さえできればそれで満足なのに、どういう因果か俺は真正ゾア神教に追われる身となってしまった。
リーフを拾ったのはまあいい、そのあと奇岩の谷ではリーフがいたから助かったようなものだから、リーフには感謝し切れないほどの恩を感じてはいる。シシカでリーフとスレインを助けたのも王室の指輪と交換したようなものだから納得がいく。
だが、ここまで面倒事に巻き込まれるとは思ってもいなかった。真正ゾア神教内部のゴタゴタのために何度も死にかけている。
リーフたちはチュリルを奪還せんと意気込んでいるが、それはつまり自分たちから敵陣に乗り込んでいくのと同じ、死ににいくようなものだ。
本当に、どうしてこんな目に遭わねばならないのだろう。今すぐに真正ゾア神教から距離を置くのが俺にとっては最善の答えでないのか?
この場にいてはいけないような気がして、俺はそっと部屋を出た。狭い部屋だったにも関わらず、その場にいた者は誰も俺に気付かなかったのか、力強く言葉を交わし続けていた。
船底の厩で不機嫌な顔をしたアコーンの首を撫でながら、俺はため息をついた。
定期船の船底は貨物室に利用されており、普段は大きな樽や木箱といった荷物が置かれているが、隅っこにはこのような厩もある。当然今は俺たち以外誰も乗っていないので、船底にはアコーンと備蓄の食糧が僅かに置かれているだけだ。
「主人に会えて嬉しいみたいだ。お前は良い相棒に恵まれたな。俺がいくら引っ張ってもずっと踏みとどまっていたから、ここまで連れてくるのに上着を一着ダメにしたぜ」
いつの間にやら船乗りが上の部屋から降りてきていた。リーフもついてきている。
「あったりめえよ、俺とアコーンは互いに出会う運命の下に生まれてきたんだからよ」
「よかったな、アコーン」
リーフもアコーンの頭を撫でる。途端にこのラクダ、まんざらでもなさそうに口を開けやがった。
「事の次第は全部マホニア様から聞いている。真正ゾア神教にそんな秘密があったなんて、正直驚いたよ」
俺たちの後ろで、船乗りが話し始めた。
「確かに民の暮らしは良くなったけど、プラートがのし上がってから、本心ではずっと半信半疑で命令を聞いていた節もあったんだ。だけど目が覚めた、俺はプラートに従う義理なんて最初から無かったんだ。旧教の教えを守っていればそれで良かったんだ! オーカス、お前はこれからどうするもりだ? チュリルっていう娘を助けに行くのかい?」
ある程度こう尋ねられることは予想がついていた。リーフやマグノリアにとって俺は真実を知る数少ない人間だ。戦い慣れしている点からしても心強い味方に思えるだろう。だが、俺の本懐は真正ゾア神教の打倒でもチュリルの奪還でもない。
俺は振り返らずにアコーンの首筋を撫でながら答えた。
「俺はここでおさらばさせてもらう」
船室の時が止まった。物音が何一つしない。時間を置いて振り返るとリーフは言葉が出てこない様子でわなわなと震えており、船乗りも目を丸くしていた。
「チュリルを助けに行かないのか?」
船乗りの口からようやく言葉が続いた。信じられないとでも言いたげだ。
「申し訳ないが俺は一介の旅商人だ。僧侶でも神学者でもない俺に、これ以上命をかけて神団と戦う義理はねえ。チュリルのことは気の毒に思うが、勝ち目の無い戦に出向くほど俺は勇敢じゃない」
俺の本来の旅の目的は金だ。神に逆らい商売に勤しんでまで故郷を潤すのが俺の役割。
それを遂げずに倒れるのは神はおろか故郷をも裏切ることになる。結局は元の目的に戻るだけのこと、旅の途中で一時的に真正ゾア神教の連中に関わっていただけで旅の目的はまだ果たされていない。
「オーカスは奇岩の谷でセリム商会の商人を助けたじゃないか。それに野盗を倒したあの剣があれば、今回もきっと……」
リーフが俺の腕を掴み、顔を近づけるが、俺はそれを振りほどいた。
「リーフ、よく思い出せ。あの時は報酬をもらっただろう。絨毯三本だ。お前が真正ゾア神教と戦うのが使命だとしたら、俺は金を故郷に届けるのが使命。元々の旅の目的もすべては金のためだったんだぜ。お前とスレインを逃がしてやるときも指輪をもらった。損得がないと動かない、そんな人間なんだよ俺は」
「そんな、それじゃあどうして私を拾ったんだ、見返りを求めていたのか?」
リーフが震えながら尋ねた。目を何度もぱしぱしと瞬きしている。
「かもしれないな。あの時は暑さに参っていたし、俺の酔狂だったのかもしれねえ」
「お前も今は追われる身、故郷に戻るにしても、真正ゾア神教はそこら中にネットワークを張り巡らせている。すぐに見つかるぞ。それに今回の事件で関所や海路も警戒が厳しくなるだろう。ただの人間が神団から逃れるのは不可能だ」
船乗りの男が厳しい声で言い放つので、俺はため息をついた。
「それじゃああんた、もしも故郷のクーヘンシュタットに行くことがあったら俺の金を届けてくれよ。俺はまたすぐに商売の旅に出るわ。次はそうだなー、南の大陸で砂漠の果てで商路を開拓するのも悪くないかな」
そこまで言うと船乗りは爆発した。普段の陽気そうな顔からは感じられないほどの怒気を振りまき、俺に詰め寄る。
「馬鹿言うな! お前がそんな奴だなんて、思いもしなかったぞ!」
「お前ら俺に幻想抱きすぎなんだよ、勝手に期待してくれんな。俺は所詮商人、地獄に落ちる身分なのさ」
「なぜ地獄に落ちる?」
俺と船乗りの間にリーフが割り込み、じっと俺を睨んだ。顔を近付けたままだったので少し体がすくんだが、俺はリーフの身体を軽く押しのけて立ち上がった。
「そりゃあゾア神教ではそうなっているからだろ。神学者たちもそう言っているんだし」
「オーカス、お前はどの神を信じるのだ?」
リーフも俺を睨みつけたまま立ち上がった。俺とリーフは互いに視線を交えてにらみ合う格好になる。
「何度も言わせるなよ、俺はゾア神教で育ったんだ。ゾア神に決まっているだろ」
ゾア神以外ありえない。例え商売に手を染め地獄に落ちようと分かっていても、ゾア神以外の神は異教だ。
一人の大人になるまで神は唯一神ゾアのみと教え込まれてきたのだ、その信心が五年程度の旅で揺らぐはずが無い。
「それならばどうして神の教えに背くような商人に身を落としながら、まだゾア神教を信仰しているのだ? お前は言っただろう、自分にとって最も都合の良い教えを信じればいいと。それなのにお前はゾア神教に固執している。それっておかしくないか?」
その言葉にムッと口を尖らせた。今すぐにでも頭を殴ってやりたい衝動に駆られたが、アコーンの方に振り返って怒りを抑える。
「とんだ言われようだな、そりゃガキの頃からずっと教典を読み聞かされてきたんだ、今更考え方を変えることなんてできねえよ」
「そうだ、お前は自分にとって都合の良いような教えなどまったく信じていないんだ!」
リーフの語気が途端に強くなった。
「お前はゾア神を信仰しながらも、今の商人という身分に引け目を感じているんだ。神はきっと自分を許してくれないだろう、きっと死後は地獄に落とされると!」
「うるさい、ハタチも迎えていない小娘に何がわかる!」
振り返り、大人気なく怒鳴る。
マグノリアにはどの神を信じてもいいとは言ったものの、東方の旅で見てきた様々な信仰も本心では滑稽な迷信にしか感じられないのは本当だ。
リーフの言うことがあまりにも図星で、俺がずっと目を背けてきた自己矛盾を嫌でも思い起こさせる。
表向きは死後の救済を諦めているが、しかしそれでもなおゾア神にすがろうとしている。他人には自分にとって都合の良い神を信じろと言いながら、自分はまったくそんなことをしていない。
だが、本心を指摘されると人は怒りを抱くもので、俺はリーフの声をかき消すように怒鳴ってしまった。
しかしリーフは強かった。
「まだ終わっていない、最後まで聞け!」
俺よりもさらにでかい声で反論する。船全体がびんびんと揺れたようで耳を押さえたくなったが、ここでそうするのは負けたようで嫌だった。
「お前は諦めている、商人という救われない身分からもう抜け出せないことにも。でもオーカス、ゾア神教の聖人ルトーの話を聞いたことはあるか?」
先ほどの怒号はどこへやら、子どもを諭すような柔らかい声でリーフは尋ねた。
何故その話を今引っ張ってくるのかとも思うが、俺は答えた。
「あれだろ、元は異教の海賊だったのが改宗して僧侶になったとかいう」
ルトーはゾア神教開祖セラタ直接の弟子の一人だ。かつて海賊だったルトーは寄港地でセラタの演説を聞き、今までの自分の行いを悔いて僧侶になったという逸話が残されている。
神の言葉を記した教典には記載されていないが、聖人に関する様々な伝承もゾア神教徒の間では一般常識として定着している。今日立ち寄ったカルナボラス港の聖堂にも船乗りのシンボルとしてルトーの像が飾られていた。教徒にとっては身分を問わず、聖人は身近な存在なのだ。
「そうだ、ルトーは海賊ゆえに盗みや殺しの罪も犯したはずだ。しかしゾア神の教えに従い布教活動を続け、ついには死後安寧の地へ誘われたという。本来なら地獄に落ちてもおかしくはないのに、だ。つまりゾア神は現世のある時点での身分よりも、最終的にどれだけ神に貢献したかで死後の救済を与えてくださるのだ。今のお前なら商人として地獄に落ちるだけかもしれないが、真正ゾア神教と神の名を騙り、旧来のゾア神教を脅かす異端集団と戦った信者として神に貢献すれば、お前にも死後の救済は約束されるのではないか?」
何も言えなかった。
確かにそうだ、俺は商人になったその日から死後は地獄に落ちるものだとばかり考えていた。
商人になってから、いつも頭の片隅には後悔が燻っていた。金ができて免罪符も購入したが、それでも俺の心配事を払拭するにはまだまだ足りなかった。今でもたまに、夢で地獄の炎に焼かれる自分の姿を見ることがある。
「そもそも私が覚えている限りでは教典に商人が地獄に落とされるとは書かれていない。罪人は落とされると書かれているが、商人を罪人とする記述はどこにもない。神学者が教典をどう解釈してそんな風に言ったのかは分からないが、それも所詮は数ある解釈の一つだ。教典を良いように解釈して利益を得る者たちもいると、お前も言っていただろう? 商人が地獄に落ちるというのも、そういう一部の人間にとって都合の良い誤った解釈でないかと考えたことはなかったか?」
しばしの沈黙。言い返す言葉が思いつかなかった。
指摘された通り、神学者の解釈が正しいという保証はない。200年ほど前に神学者が提唱したことが初出とされるが、それ以前に商人を罪人とする解釈があったかどうかはわからない。
そうだ、あまりにも簡単なことだ。今は商人で地獄に落とされるかわからない身分だが、死ぬ前に神に何かしら貢献すれば神は決して俺を見捨てることはない。それだけで俺はこの無限の苦しみから解放される。
俺は顎をさすり「あー」とバツが悪いような反応しかできなかった。こんな小娘に諭されるのは悔しいが、リーフのおかげで俺の中の闇は一気に晴れ渡ったのだった。
もったいぶって、ようやく重々しく口を開いた。
「考えたこともなかったぜ、俺は死んだら未来永劫地獄の業火で焼かれる身分かと思い込んでいたようだ」
リーフの表情がぱあっと明るくなる。
「そうだろう、お前は自分が商人であることを恐れる必要は無い。神はきっと死後の救いを与えてくださる」
そうだ、何も心配することは無い。俺の信じるゾア神を悪用しているのは真正ゾア神教だ。あんな輩に俺の信じる神を踏みにじられるのは納得がいかない。
そして神は常に俺を見てくれている。それに応えるために、神様でも俺を安寧の地へと招かざるを得なくなるような、そんな献身をしてやろうじゃねえか。
「わかった、協力しよう」
死後の救済のために、とは心の中でつぶやいた。
俺はシャツのポケットから一枚の紙を取り出した。水を吸ってくしゃくしゃになったそれは、商人になって初めて得た金で買った免罪符だった。ずっと肌身離さず持っていた、神への許しを乞う書状。
こんなもの、ただのまやかしだ。神はこんな紙切れごときで信徒を選びはしない。
俺は免罪符を両手で持つと、そのまま引き裂いた。船乗りは呆気にとられていたが、リーフはすべてを理解したかのような顔をこちらに向けている。
引き裂いた免罪符は近くの蝋燭の炎にさらし、真っ黒な灰に返す。免罪符は床に黒いゴミとなって散らばり、俺はそれを踏みつぶした。
今、俺は過去と決別した。
そして改まってリーフに向き合い、胸に手を当て、敬礼のポーズをとったまま跪いた。
「ゾア神に誓う。俺は神に仇なす勢力に立ち向かうとな」
「そうだ、それでこそ私の知るオーカスだ!」
リーフが俺の首筋に抱きついたので、俺は軽く背中をさすってやった。
ずっと黙っていたアコーンがぶふんと嘶いて、俺の背中に頭を擦り付けた。
「お、アコーンもやってくれるのか?」




