第四章 信仰の都カルナボラス その11
「おい、目を覚ませ。オーカス、目を覚ませ!」
男の声だ。ゆっくりと目を開けると、安堵の笑みを浮かべた男が俺を覗き込んでいた。
「気が付いたようだな。いやあ、お前たちが追われていると聞いて心配していたんだ」
定期船で酒を飲み交わした若い船乗りだった。ベッドの上で寝かされているようだが、木で組まれた天井がかなり低い。
「安心しろ、ここは定期船の中だ。今は停泊中で客も船員も誰も乗っていない。お前たちがここにいるとは誰も知らないよ」
俺は上半身を起こした。同時に、服を脱がされて素っ裸にされていたことに気付き、慌てて布団を引っ張った。左肩の痛みは気にならない程度に引いていた。
「ああ、服なら乾かしておいたよ。すぐに着替えなよ」
船乗りは俺が着ていたズボンやシャツ、上着の一式を放って寄越した。机の上には大切な帽子も置かれている。
「すまなかったな。そうだ、リーフはどこだ?」
「お嬢さんなら別の部屋でお休みになっておられます」
前触れも無く部屋の扉が開かれ、別の男が入ってくる。乱れた黒髪に、白いローブを着た物腰の低い男。
「マホニア司教、まさかあんたに助けられるとはな」
今部屋に入ってきたマホニアはにこりと微笑み、両手を合わせて祈りを捧げた。
俺たち三人が運河を流されている時だ。
泳げない女を背負いながら何度も浮き沈みを繰り返していた俺は、とうとう意識が朦朧とし始めていた。それでもなんとか正気を保ち下流を目指す。
「もうだめだーブクブク……」
「おいしっかりしろ、港はもう近いぞ」
限界の近付くリーフに叱咤するが、俺も正直ギリギリだ。
目の前が真っ暗になりいよいよ俺自身も頭まで沈まんとしていたときだった。
「これに捕まってください!」
男の声とともに水面に巨大な何かが打ち付けられ、激しい水しぶきが飛び散った。
それは大木だった。緑の葉を大量に貼り付けた巨木が一本丸々、運河に倒れ込んできたのだ。
一体だれが、何故。理解できなかったが、全員藁にもすがる思いだった。
葉の茂る枝の一本をつかみ、沈みそうなリーフの身体を引き上げて太い幹と枝の間に挟み込んだ。
マグノリアも枝をつかむと、突如水面に浮いているはずの巨木が持ち上がり、俺たちの体も宙ぶらりんになってしまった。
「ふう間に合った」
闇の中からは男の安堵の声。
目を凝らしてみると、運河の畔に一人の男がこの巨木の根本側を持ったまま、水面にかざしていたのだ。男は直立しているだけで、何かしらの機材を使っている様子も無い。つまりこの男は一人の力で巨木と、人間三人の重さを支えていたのだ。
やがて木はほぼ垂直に持ち上げられ、俺たちは周囲の家の三階くらいにまで目線を高めたのだった。
「お前、何者だ?」
感謝するより先に口に出していたのは質問だった。
「ご安心ください、あなたたちを助けに来ました」
揺れる水面の月の光に当てられて、男の姿がうっすらと浮かび上がる。
太く力強い四肢とクマを彷彿させる丸い体型。だがその顔は純粋な少年のような、ふたつのつぶらな瞳の持ち主だった。
この男、どこかで見たことがあるな。
「兵士もすぐに追いかけてきます。コシブさん、ここは私が引き受けます」
物陰から別の男も飛び出した。片手に小さな松明を持った金髪の若い男だ。
「わかった、頼んだよアルケビア」
コシブと呼ばれた大男は俺たちの乗った巨木を抱えたまま走り始めた。俺たちの重さなど無きに等しいようで、バランスに苦労することも無く軽快に足を回している。
「このあたりにいるはずだ、探せ!」
宿からずっと追いかけてきたのだろう、鎧をガチャガチャと鳴らしながら走っている音が上流から聞こえている。兵士はもうすぐそこまで来ている。
「じゃあ、私も時間稼ぎをしますか」
アルケビアと呼ばれた若い男は懐から短い藁の束を取り出し、手に持っていた松明の炎を移した。たちまち炎は藁に燃え移り、火の粉を散らしながら闇夜に橙色の光を浮かべた。
アルケビアはその火の点いた藁を運河の傍の石畳の上にパラパラとまいた。
突如、弱々しく火の粉のようだった炎が一転、爆音を上げて巨大な火柱へと変貌したのだ。
渦を巻いた炎は石畳の上をあちこち走り回り、家の陰から飛び出した兵士は腰を抜かし、そのまま逃げ帰る者もいた。手近な桶で運河の水を汲んで消火に当たる勇敢な者もいたが、火柱は勢いを衰えず真っ赤な炎を天に吹き上げ続けたのだった。
こいつら二人とも祝福を受けている。そして思い出した、こいつらはマホニア司教に付き従っていたあの二人だ。
木につかまって運ばれたまま無人の港まで来ると、コシブは巨木をゆっくりと倒し、俺たちを地面へと下ろした。
そして持っていた巨木を運河の下流に向かって力いっぱいに放り投げた。まるで小石でも投げたかのように軽々と宙を舞った巨木は、回転しながら夜の闇に消え、随分と経ってからぼちゃんと着水する音が聞こえたのだった。
「こちらへどうぞ。司教がお待ちです」
ぐったりしたリーフを巨大な掌で抱きかかえ、コシブは俺たちを桟橋の先に停泊している船へと案内した。
「なぜお前たちが俺を助ける、あいつら真正ゾア神教は仲間だろう?」
運河の水流は俺とマグノリアの体力も大分奪ったようだ。身体が重い。だが俺は一歩一歩靴底を地面にこすらせながらも、巨大な背中に向かって問いかけたのだった。
コシブはこちらを振り返ると、その穢れなき瞳をまっすぐに向けて言うのだった。
「神は不正を許しません。我々はいかなる事態に遭っても、正しき道に従うのです」
そこでようやく安心したのか、俺はついに地面に崩れた。
「マホニア司教、教えてくれ。何であんたが俺たちを助けるんだい? 俺たちは真正ゾア神教を根本から否定する秘密を知ってしまったんだぞ」
すっかり乾いた服に袖を通しながら、俺はベッド脇に座り込んだマホニア司教に尋ねた。
「だからこそです。真実はいかなるものか、私は知らねばなりません」
司教の眼は俺に向いていたが、そこに映っているのは俺の姿ではなかった、ここではないどこか遠い場所、はるか昔の出来事を思い返していた。
「プラートと私はカルナボラスの貧民街で育ちました。プラートは私の友でした。彼が神より啓示を受けた時、最初に彼を信じたのは私でした」
司教はマメと細かなキズでぼろぼろになった手を膝の上に置き、ゆっくりと話し始めた。
「預言を授かるたびに私は仲間を集め、プラートの教えを広めました。ついには神にはたらきを認められ、最初に祝福を受ける者に選ばれたのです。ですが……」
司教は手を握りしめ、ぐっと力を込めた。細い肩も震えている。
「いつしかプラートにとって私は邪魔者になっていたようです。いえ、もしかしたらゾア神から預言を受けていたというのも嘘だったのかもしれません。私は私なりに神に報いてきたつもりです。ですが、アラミア教とゾア神教の関係が明らかになった今、サルマの町を破壊してしまった私は今まで何に仕えてきたのでしょう?」
静かだが、マホニアは声を荒げていた。
「異教徒とはいえ多くの犠牲を出してしまった我々が地獄に堕ちるのは覚悟できています。ゾア神に貢献できるためなら私はすすんで汚れ役を引き受けましょう。ですが、今まで仕えてきたものが神ではなかったら、今までの私の行いは何の目的があったのでしょうか?」
マホニアは額から汗粒を流し、全身を震わせていた。しばらく部屋の中には司教の息遣いだけが聞こえていた。
汗を拭った司教は虚ろな眼をこちらに向け、再び話し始めたのだった。
「私はプラートの友であり真正ゾア神教の司教ですが、それ以前に一人のゾア神に仕える人間です。私は本当に神に仕えてきたのか、真実が知りたい。あなたたちはその真実を知る鍵です、殺されて闇に葬られるなど、それこそ神への冒涜でしょう」
「オーカス、言われた通り荷物を持ってきたぞ」
船乗りの男は俺の大きなカバンと荷物一式を背負い、よっこいせと床に降ろした。
「あのアコーンていうラクダ、連れてくるの苦労したんだぞ。何度地面に引きずられたことか」
「すまないな、あいつは俺の言うことは聞くんだが、あまり知らない奴にはいつもあんな態度なんだ」
俺の荷物は大聖堂近くの宿屋に置いてきていた。すっかり顔がバレている俺が今外に出たら、兵士たちに捕まるのはわかり切っていた。
荷物とアコーンを船乗りに頼んで運んできてもらったのだが、随分と苦労したようだ。服が土埃で汚れている。
「そういえばリーフっていう娘も目を覚ましたみたいだ。さっき隣の部屋の前を通ったら音がしてたよ」
「本当か? おい、リーフ!」
俺は立ち上がり、マホニアと船乗りの脇をすり抜けて部屋を飛び出し、狭い廊下を走り抜けた。
「リーフ、無事か?」
勢いよく隣の部屋の木の扉を開ける。
そして俺は硬直した。リーフの細い肢体が露わになっている。
ちょうど着替えの最中で、下着姿のリーフがベッドの上でシャツを着ようとしていたのだった。
「い、今入ってくるな!」
顔を真っ赤にしながら手元にあった金属製の小皿を投げつける。
こんなリーフの表情初めてだな、などと思っている余裕はない。慌てて急いで扉を閉めると、扉の向こうからカーンと甲高い音がした。
無事なようで本当良かった。ここでリーフが無事でなかったらきっと後悔していた。何に対しての後悔か、そこまではうまく自分の言葉で表現はできなかったが、俺は心より安堵していた。
だが待て、あの船乗りは俺の服を脱がしてくれたが、もしかしてリーフも……。
そんな邪推をしているとあの気楽そうな船乗りにだんだん腹が立ってくる。真実は知らぬが花、気にしない気にしないと唱えてこの気持ちをなんとか鎮める。
しばらくして「入っていいぞ」とリーフの声が聞こえたので、俺はまた扉を開けた。リーフはすっかり乾いた緑色のシャツと白いズボンを着込んでいた。
「リーフ、平気そうで何よりだ!」
「せっかく生きながらえた命だ。こんな簡単に死ぬわけがないだろう」
泳げないのに幸運なやつだ。武術は達人級でも泳ぎだけは苦手というギャップにも苦笑いできるほどの心の余裕を俺はようやく感じていた。
「本当に、マホニア殿と船員に感謝しなくてはな」
俺の後ろにぬっと巨大な影が迫った。振り返ると、すっかり立ち歩けるようになったマグノリアがその太い腕を見せつけていた。
「マグノリアさん、もう歩けるのか?」
「ありがとう、もう大丈夫だ」
足の傷口も新しい包帯ですっかり覆われている。この人は多少の怪我ではまったく動じないようだ。




