第四章 信仰の都カルナボラス その10
「追え、あいつを逃がすな!」
階段を駆け上る俺の背後から兵士たちの雄叫びが聞こえ、ドスドスと足音もいっしょに上ってきた。
「これはまずいな、どこかで迎え撃たないと」
上の階にも下の階にも兵士はいる。このまま逃げ続けても挟み撃ちだ。
少しでも自分の有利な場所に逃げ込まないと。
俺は階段を昇り終えると、すぐさま右手の部屋に潜り込んだ。先ほどまでマグノリアが寝ていた部屋だ。
部屋の中には兵士がひとり、ちょうどベッドの下を覗き込んでいた。
部屋に踏み込んできた俺に気付くと、「何者だ!」と威勢よく立ち上がった。しかし俺の跳び蹴りの方が早く決まったようだ。
靴底を顔面に受けた兵士は目を白黒させながら床に崩れ、すっかり気を失ってしまった。
「旦那、何で帰って来たんだい?」
部屋の隅っこからチュリルの声がする。どうやら全員この部屋で透明になって固まっているようだ。
「話は後だ、お前らがここにいることがバレちまった。俺も混じらせてもらうぞ!」
チュリルの声のした方向に向かって走り寄り、何も見えない中適当に左手を探らせる。チュリルに触れれば俺も姿を消せるはずだ。
何回か手をあちこちに振り回すうちに、ようやく指先が何かに触れる感触を覚えると、ふっとセチア、スレイン、チュリル、そしてマグノリアの姿が目の前に浮かび上がった。
「みんな無事か……あ」
一か所に固まる皆を目視してようやく気付いた。俺が今手に触れているのはチュリルの胸、それもよりによって右の方をがっしりと鷲掴みにしていたのだった。
透明だったから仕方ないにしても、一気に冷たい空気が辺りを包む。その場の全員が凍り付いてしまった。
「……旦那、そこじゃなくてせめて別の場所を触ってくれないかな?」
頬を赤らめてじっとこちらを睨みつけるチュリル。その声にはいつもの張りは無かった。
「はいはい、失礼しましたー!」
俺は大粒の汗を流しながら慌てて手を頭の上へと移した。女性陣三人の俺を見る目は全員、便所のゴキブリに向けられるものと同じだった。
「オーカス殿、話は後で」
チュリルの右肩に手をかけているマグノリアに至っては平静を装っているものの、ぷるぷると震えている。
ちょっと勘違いするなよ、俺だってわざとじゃないんだ。そもそもチュリルって、どんな男でもこれはないわって首を振るレベルの垂直絶壁だぞ。
そんなことを言ったらマグノリアに指一本歯のひとかけらも残さずこの世から消滅させられるな。俺は何も答えなかった。
俺が透明になった直後、部屋の前を兵士たちが横切った。
「探せ、上に逃げたのは確実だ!」
何人もの兵士がこの部屋を覗き込み、中には途中でズンズンと入り込んで部屋の中を見回す者もいたが、今のところ誰も俺たちに気付いていない。
兵士が部屋から離れているタイミングを見計らい、俺はチュリルに小声で尋ねた。
「なあ、さっきサンタラムっていう気持ち悪い野郎に出会ったんだ。あいつは何者だ?」
「ああ、あいつの能力は質問を投げかけて、相手の真の答えを察知すること。『はい』か『いいえ』が答えの質問を投げかければ、大概の本心は見抜けるんだよ」
チュリルが言うと俺は唇を噛んだ。
「でも、透明になっていればきっと大丈夫だ。絶対に動いて物音立てるんじゃないよ」
今度は階段とは反対方向から駆けつける足音。やがて部屋に三人の兵士が入り、ベッドを剣で刺し、机を無意味に蹴り返す。
さすがにこの時は俺たち全員呼吸をするのもやめていた。少し息苦しくなり、舌の上に唾が溜まっていくのもわかったが、誰も飲み込もうとしない。
その後ろからひょいっと顔をのぞかせたのは、細身で丸眼鏡の男。件のサンタラムだ。
「サンタラムさん、もうどの部屋を探してもいません。ふっと消えてしまったようです」
兵士の一人がサンタラムに報告する。
「入念に探すのよ。もう処分されたはずだけど、姿を透明にできる能力を持った娘がいたわ。セチアも生きていたことだし、もしかしたらあの娘も生きていて、マグノリアの脱走に関わっているかもしれないわよ」
チュリルが唾を飲み込んだ。幸い兵士にもサンタラムにも聞こえなかったようだ。
言葉遣いも見た目も気持ち悪いが、かなり頭の切れる男のようだ。
「ですがそれだとキリがありません。もうここにはいないと考えるしか」
「うーん、確かにさっき全部の部屋を見回ったんだけど、どこにも誰もいなかったわ。あのいい男も消えちゃったみたいで、ざ・ん・ね・ん」
俺の背中をぞわっとした感触の何かが走った。だが声を漏らさぬよう必死で耐えた。
サンタラムは部屋の中を見回した。唇に人差し指を当てて随分キュートなポーズだが、こいつがやるとすべてが逆効果に作用している。
「ところであなたたち、今日の私のメイク、結構決まっていると思わない?」
突然の質問に俺以外も力が抜けただろう。サンタラムはじっと兵士を見つめていた。
「へ、メイクですか? そりゃ当然いつもお美しいですが、今日は特にバッチリと。特にそのチークが」
この兵士は何を言っているんだ? こんなの人前で褒めろと言われたら自分から棺桶に突っ込んでいった方がマシなくらいに気持ち悪いわ。
「あら、ありがとう。あなたは本心からそう思ってくれているみたいね。でも、そこにいる四人は私のメイクがお気に召さないそうよ」
サンタラムがこちらににやりと笑みを浮かべたので、兵士たちは一斉に「は!」と持っていた剣や棍棒を突き出した。
「ち、バレたか」
チュリルが能力を解いて姿を現し、すぐさま兵士の一人に蹴りを食らわせた。
素早く伸びた脚は鳩尾に入ったようで、蹴られた兵士は「うげへ!」と腹を押さえる間もなく大きくのけぞり倒れた。後ろにいた兵士二人もそれに巻き込まれ、三人が一様に倒れた様は実に滑稽で吹き出しそうになってしまった。
「ここにいたわ、とっ捕まえなさーい!」
サンタラムが部屋の外に出て一階に向かって叫ぶ。すぐに大勢が駆けだしたようで、建物全体が揺れている。
「捕まえられるなら捕まえてみやがれ!」
こうなりゃ自棄だ。俺は先ほど拾った剣をサンタラムに突きつけた。リーフはマグノリアの身体を支えながら部屋の隅へと移動し、スレインはそのすぐ近くで白磁製の水瓶を抱えている。
「ひい、あなたたち物騒じゃないの! 私は実戦苦手なんだから、さっさとおとなしく捕まりなさいよ!」
サンタラムはそう言うと、慌てて部屋を飛び出した。入れ替わりに何人もの兵士がなだれ込んでくる。扉が狭いので一斉には入れないが、部屋の外には少なくとも十人以上が押しかけているはずだ。
「さあ、これだけの人数だ。観念しな!」
棍棒をパンパンと自分の掌に打ち付けながら、大柄な兵士が前に出る。ここにいる兵士の中ではどうやらこいつがリーダー格で、腕に自信もあるようだ。
姿勢を低く落としたチュリルの姿に、一目で武術の心得のある者と理解したのか、大柄な兵士も身構える。
突如、チュリルの姿が掻き消えた。
大柄な兵士は「あれ?」と目を細めるが早いか、顎を上に向けて飛び上がった。
姿を消したチュリルが小さな体格を活かし男の下顎にアッパーカットを浴びせたのだろう。天井近くまで飛び上がる男の姿に驚く部下の兵士たち。
その内数名も早速チュリルの攻撃を受けているのか、次々に「ぎえっ」と情けない断末魔を上げてばたばたと倒れていく。
スレインを固めたときはかなり手加減していたのだろう。目にも止まらぬ速業に、姿を消す能力を使って戦っている。そこらの男でも太刀打ちできないほどチュリルの格闘術は優れていた。
俺も負けじと剣を振るうが、見えない敵に恐れをなしたのか、兵士たちがすくみあがっていて、なかなか俺に飛びかかろうとしない。
どうもこいつらは兵士の割にすぐ戦意を失う。もしかしたら本職の騎士や兵士ではないのか?
「くそ、この小娘が」
顎をさすりながら大柄な兵士がゆっくりと起き上がる。なかなかに骨のある奴だ。
「もう許さん、とっ捕まえてあんなことやこんなこと、でぎやあああああああ!」
威勢良く立ち上がったと思ったら、両腕が背中側のありえない方向へと曲げられている。見るからに痛々しい。
大柄な兵士は握っていた棍棒をぽろりと落としてしまった。背後に回ったチュリルが固め技をかけているのだろう。
だが兵士の中にもそれを見破った者がいた。
兵士の一人が「そこだな!」と棍棒を振りかぶり、大柄な男の背中に向かって打ち付けたのだ。
が、既に察知したチュリルは男の背後を離れたのか、棍棒は虚しく空を切り、大柄な兵士の背中を力いっぱい殴打する。大木がへし折れるのと同じ音が狭い部屋の中に鳴り響く。
「ぎべえええええええ! 馬鹿者、どこ殴っとるぅ!」
革の鎧で守られているとは言えものすごく痛そう。この大柄な兵士、敵とは言え少し哀れに思えてきた。
殴りつけてしまった兵士は倒れ込んだリーダーに慌てて駆け寄るが、すぐにチュリルの足払いでも食らったのだろう、ふわっと宙に浮き上がったかと思うとすってんころりんと頭から床に突っ込んでしまった。
「こうなりゃ先にこいつらを始末するぜー!」
チュリルのことは諦め、姿の見える俺たちを狙い、三人の兵士がそれぞれ棍棒を持って俺に殴りかかる。
だが俺が剣を向けただけでこの兵士たちは動きを止め、互いに武器を向けてのにらみ合いへと発展した。
先ほどから気になっていたのだが、どうもこの兵士たちの動きは戦い慣れていない素人のそれで、無闇矢鱈に武器を振り回すだけなのだ。
無駄が多く、簡単に動きが読めてしまう。俺は剣を振り回して牽制するが、この三人にはそれで十分と言えた。実際に俺は相手の攻撃をすべてかわし、常に一定の距離をとることができた。
しかし一対三ではやはり分が悪い。あっという間に部屋の隅、すぐ後ろにマグノリアとそれを支えるリーフ、そしてスレインがいる位置まで追い詰められる。
どたどたと足音だけがこちらに向かってくる。どうやら応援の兵士がきたらしい。これ以上人数が増えるのは実に厄介だ。
足音を聞きつけてかずっと部屋の隅にいたスレインも戦線に飛び出した。そして抱えていた水瓶から水を取り出し、球状にまとめ、細長い縄状に変形させる。
これは助かると思い俺は「その水でこいつらを縛ってくれ!」と叫んだ。
スレインは手を前に突き出して水の鞭を飛ばした。しかし手元から伸びた水の鞭は、三人の兵士の間をすり抜け、その後方で大きく振られた。
あれ? と疑問に思っていると、すぐに「きゃあ!」と黄色い悲鳴が響く。
バチンという音と甲高い声が聞こえた。そして透明化が解けて姿の見えるようになったチュリルが兵士のすぐ後ろで倒れている。
スレインの水の鞭はチュリルを打ち付けたのだった。
「何をするスレイン!」
俺はスレインに目を向けて怒鳴ったが、それが良くなかった。隙をついて一気に近付いた兵士が棍棒を振り上げ、俺の左肩を直撃した。
「くあっつ!」
骨の髄から砕けるような激痛に気を失いそうになったが、なんとか粘って立ち続けた。しかし手に力が入らず、とても戦えるような状況ではない。
俺は急いで後ずさり、マグノリアに半ば寄りかかるような姿勢になった。
突如のスレインの行動に、その場にいた兵士たちもぽかんと口を開けていた。スレインは兵士たちを背にして俺たちを凝視した。
なんとも言えない表情だった。怒っているわけでもなく、殺気があるわけでもなく。今にも泣き出しそうな、悲しそうな、そんな表現がぴったりな目だった。
「ごめんなさい、私はどうしてもプラート様に、ゾア神に逆らうことはできない」
再び水の鞭を作ってこちらに飛ばすスレイン。
リーフは支えているはずのマグノリアをぎゅっと強く掴んだ。
ひとかたまりになった俺たちの目と鼻の先まで水の鞭が伸びたまさにその時だった。俺の背後から巨大な拳が飛び出し、水の鞭を掴んだ。
マグノリアの手だった。マグノリアの大腕が空気をえぐるように振るわれ、その巨大な掌に触れた水の鞭は消えてなくなり、やがておびただしい量の水滴となって床にばしゃばしゃと散らばっていった。
マグノリアの消滅の力がスレインの能力を打ち消したのだ。
目を開き驚くスレイン。これが最後のチャンスだ。
「逃げるぞ!」
手負いの男ふたりと女ひとりでは勝ち目がない。俺はマグノリアとリーフをつかみ、窓を蹴り破った。
窓の外は二階だが、運河に半分突き出た構造だったのが幸いだった。俺たちは窓から外に飛び出し、夜闇の中黒い水面に身を投じた。
頭の先まで水に潜るも、すぐさまぷはっと水から顔を出して呼吸する。マグノリアとリーフも無事ついてきているようだ。
この運河は思った以上に流れが速い。泳ぐのは苦手ではないが、服を着たままでしかもマグノリアをかばいながらではすぐにも水底に沈みそうだ。
「流されるな、どこか岸に上がるぞ!」
「いや、むしろ下流まで逃げよう。この流れに乗ってここを離れるんだ」
マグノリアの提案にそれもそうだと納得する。少ししんどいが、俺たちは流れに身を任せることに決めた。
「よし、それじゃあさっさと泳いで逃げようぜ!」
「オーカス、ここまで来て大変なことに気付いたんだ」
あっぷあっぷと何度も水から頭を出し入れしながら、リーフが必死に言った。
「私は記憶だけでなく、泳ぎ方も忘れてしまったようだ」
ぶくぶくと沈んでいくリーフ。俺はそれを慌てて引き上げた。
「それ、元々カナヅチなだけだろがー!」
リーフも水だけは苦手のようだ。




