第四章 信仰の都カルナボラス その9
「セチア、聞いていたのか?」
「悪いね、ついさっきみんな帰ってきたところでさ」
セチアの後ろから小柄な影がひょいっと飛び出した。チュリルだった。そして最後に部屋に入ってきたのは最も気品漂わせる立ち方のスレインが続いた。
「私だって感付いていたわ。マグノリアさんは何かを隠しているって」
俺はため息をつくと、床板を鳴らしながら三人に詰め寄った。
「どこまで聞いていたんだ?」
「全部さ。本当、最初っから」
そうチュリルが答えたので俺は肩を落とした。内緒にするつもりだったが仕方ない。
マグノリアはセチアに向き直った。だが視線はセチアの目とは反らされていた。
「セチア、今話した通りだ。すべては私の判断が招いた事態だった。君に詫びる言葉もない、本当に申し訳なく思う」
随分と弱々しい。それをセチアはただじっと聞いていた。顔は闇に隠れて見えず、どんな表情をしているのか一切わからない。
「本当に、どうにかしてセチアの記憶を戻してあげてくださいよ!」
唐突にスレインがマグノリアに掴みかかった。窓からの星明かりに照らされたその顔は、見たこともない恐ろしい形相だった。
今にもマグノリアの首を絞め落とさんとしているが、当のマグノリアは一切の抵抗を諦め、手も出さずにただ苦悶の表情だけを見せていた。
「よせ! 怪我人に乱暴するな」
俺はスレインを後ろから掴んだが、どうあっても首にかけた手を放さない。チュリルが腕をつかもうとするが、逆にスレインの蹴りに弾き飛ばされてしまった。華奢な女とは思えない力に、俺は背筋に寒さを感じた。
「記憶を奪うなんて、セチアを殺したのも同然なのよ。教団だけじゃなくて、家族も、友達も、私のことも、すべて忘れさせるなんてあまりにもひどすぎるわ!」
このままだと本当にマグノリアを絞め殺してしまう。なんとかしてスレインを止めなくては。俺はさらに力を込めたが、それでもスレインの細い腕がマグノリアの首筋を離れることはなかった。
「そんなことはない。申し訳なく思うのは私の方だ」
いつもと調子の変わらないセチアの声。ふとスレインの力が緩み、なんとか引き剥がすことができた。俺とスレインが息を切らし、チュリルは床に座り込んでぶつけた腰をさすり、マグノリアは咳き込んでいる。
そんな中でただ笑みを浮かべて立ち尽くすセチア。この時どういうわけかセチアは笑っていたのだった。
一切の恨みや悲しみといった負の感情を感じさせない、晴れ晴れとした爽やかな笑みを。
「わかっているの? あなたは過去を消されたのよ。それってつまり、かつてのあなたという存在が消えてしまったのと同じことなのよ!」
息を切らしながらもスレインは声を荒らげて怒鳴り散らす。友人の激しい語調にも、セチアはただ澄んだ瞳の微笑みを返していた。
「そうかもしれない。でも、かつての私はプラートに従って死のうと考えていたのだろう? それなら記憶だけ忘れて命が長らえたのは幸運なことじゃないか。仮にその時マグノリア様に手を下されていなくとも、その後で自分から命を絶っていたかもしれないのだからな。今私は死にたいなどとはこれっぽっちも思っていないし、人ふたり分の人生が送れると考えたら、なんだか得した気にもなれるぞ」
「脳天気だねセチアは。そういうところは記憶を失っても変わらないんだねえ」
チュリルが立ち上がり、皮肉交じりに感心した。
「私はセチアであってセチアではない。そもそもそんな嘘八百並べて神を騙っていた神団に傾倒していた昔の自分が恥ずかしい。そんな過去は捨てるべきだ」
「そうだね、思わぬ幸運で長らえた命だ、好きに使いなよ。髪だってバッサリ切っちゃったことだしさ」
「そうだ、せっかくだし名前も変えようかと思う。過去の自分と決別するために」
「おお、そりゃいいじゃないか」
セチアとチュリルがハハハと笑い飛ばすが、スレインは未だに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
「セチア、名前は親からもらった大切なものよ。そう簡単に捨てるものじゃないわ」
「そうなのだが、私は親のことを覚えていない」
あっけからんとセチアが答え、チュリルがふっと肩をすくめた。
「あんたは上流階級の出だからそう思うかもしれないけれど、セチアの親がどんな人だったか知っているのかい?」
随分と突き放した物言いだ。これに関しては知らないままでいる方が良さそうだな。
船の中でスレインが少し話したが、セチアは売り飛ばされそうになった過去があるそうだ。チュリルの発言からどんな親だったか、想像に難くない。
「新しい名前......そうだ、オーカスが私と初めて出会ったとき、私に呼び名を付けてくれたよな。リーフ、私はこれからリーフと名乗って生きていくことにするよ」
満面の明るさでそう言い放ったセチア。いや、この瞬間からはリーフと呼ぶべきか。
チュリルは腕を組んで俺の顔をしげしげと上目遣いに覗き込んだ。
「お、旦那もなかなかに洒落た名前を付けるじゃないか。案外センスあるんだねえ」
「よせやい」
こうも堂々と名乗られては少しばかり恥ずかしい。月明かりの下で良かった、俺の顔も珍しく紅潮していただろう。
「セチア、何と謝ればよいか……」
マグノリアはうつむき声を萎めているが、リーフはふふっと笑って答えた。
「謝る必要はありません。プラートに力をもらって、私はきっと浮かれていたのでしょう」
俺もマグノリアのすぐ横に立ち、肩に手を置いた。
「ほらほら、マグノリアさんも顔上げなって。どの神をどう信仰するかなんて、自分に一番しっくりくる教えを信じればいい。あんたにとって最も都合の良い教えをな。東方でいろんな信仰の形態を見てきた俺の言うことだ、間違いない」
「そうだよ、あたいたち誰も神様なんて見たことないんだ。どの教えが正しいか、誰が証明できるって言うんだい? プラートだって本当は神様から預言を授かったんじゃなくて、どこぞの悪魔からあんな力をもらったんじゃないかい?」
「そうさ、きっとプラートは神を名乗る悪魔に騙されているだけなんだよ。そんな奴らには関わらないのが一番さ」
俺がマグノリアの肩を揺らしていると、リーフは自分の手をしげしげと眺め始めた。
「となると私のこの力も悪魔からもらったものなのか? 嬉しいものじゃないな」
人外の力に憧れる様子をしばしば見せていたリーフも、今は自分の力を忌み嫌っているように見えた。やはり神から授かったものでないとわかると気分が悪いらしい。
俺はリーフの頭に肘を載せて体重をかけた。リーフは少し膝を曲げて沈んだが、持ち堪えてくれた。
「ずっと前から思っていたんだよ、祝福とやらを受けて手に入れた力が皆どうも戦いのためのものばかりだって。本物の神様ならこんな力じゃなくて、もっと人の役に立つ力を与えてくれるに決まってるさ。まったく何が真正ゾア神教だよ、全くの出鱈目じゃねえか。偽性ゾア神教にでも改名すべきだな」
「それじゃああたいらのこの力は旧教にとってみれば異端審問ものだね。即火炙りだ。もう他人様に見せつけるもんじゃないよね」
部屋全体に活気があふれる。そうだ、俺たちは真正ゾア神教なんて変な連中に関わってしまったばっかりに、こんなひどい目にあっているのだ。全てはプラートたちが王家を裏で操っているのが元凶だ。
口々に教団を罵り、連中に踊らされていたことを皆恥じているようだった。
「そんな、みんな間違っている……神様は本当に……」
ただ一人、スレインだけがうつむきながらぶつぶつと呟いていた。そんな親友に気付き、リーフはそっとスレインの肩に手を触れた。暗闇の中じろりと向かれたスレインの目が怪しく浮かび上がる。
「スレイン、一緒に逃げよう。お前も私たちと一緒に行動したのだから、大聖堂に戻れば始末されるのは明らかだ」
穏やかな口調だったが、スレインは再度うつむき、黙り込んでしまった。
俺たちもつられて笑うのをやめて黙り込んでしまったので、部屋がしんとした静けさに包まれてしまった。
しかしその静寂はすぐに打ち壊された。
部屋の外からドタドタと乱暴に駆け回る音が響き、凄まじい勢いでドアが跳ね開けられる。この宿の主人が息を切らしながらここまで駆け上がってきたのだ。
宿の主人は壁にもたれかかりながらも、急いで話し始めた。
「仲間が知らせてくれたんだが、教団の奴らが街中の家を一軒一軒調べている。しかもかなりの数だ。多分あんたらを探している。ここもやばい、さっさと逃げな!」
「しつこい奴らだねぇ」
チュリルは文句を垂れながらもマグノリアに手をかけてベッドから起き上がらせていた。
リーフも肩を貸したので、巨体はよろよろとふらつきながらも両足で立つことができた。
さて俺はどうしたものか。ここにいれば仲間と見なされてひっ捕まえられるのは確実。となると選択肢はひとつ。
「それじゃあ俺はさっさと逃げるぜ、あばよ!」
帽子をかぶり直し、宿の主人の脇をするりと抜けて部屋を出る。長居してしまった、アコーンも心配だし元の宿に戻らないとな。
「ありがとうオーカス、また会おう!」
「達者でな旦那ー」
背中からリーフとチュリルの声が聞こえ、俺は走りながら振り返らずに片手を振った。
だが階段を降りている途中、屋外へ通じるドアが勢い良く開かれた。
あっと叫ぶ間もなく、何人もの教団兵が室内に流れ込む。
「宿の主人はどこかしら?」
実に艶めかしい声だ。およそ10名の教団兵に続いて、声の主が部屋に入る。
クネクネとした官能的な腰の振りに、ぴっちりとボディラインを強調する白い衣服。何もかもが完璧だった。
ただ惜しむらくは、これを全て男がやっていることだろう。
白粉を塗りたくった肌にどぎつい口紅、チークもばっちりな細身の男だ。どんぐりの帽子そっくりに黒髪を切りそろえ、細長い顔に乗っけられた鼻眼鏡と、人を小馬鹿にしたようないやらしい目つきが一度見たら忘れられないような特徴を放っていた。
き、気持ち悪い奴だな。こんなのでも真正ゾア神教じゃあ兵を率いられるのか?
ふと、階段で立ち止まっていた俺とこの変態の眼が合ってしまった。
その途端、この男何を思ったのか顔を赤らめたのだ。
「あら、いい男。ガッチリして凛々しくて、私好みのタイプだわ。あなたが宿の主人?」
全身を寒気が走る。トドーマの吹雪の方がよっぽどマシだ。
「ち、違うぜ。俺はただの旅の商人だ」
「あら本当のようね。ねえいい男さん、私たちある人を探しているんだけど、この宿にセチアとスレインていう小娘と、それにマグノリアっていうとってもいい男、いなかったかしら?」
やっぱりこいつらの狙いはリーフたちか。俺は疑われていないようでラッキーだが、ここは適当にごまかしてやろう。
「セチア? そんな奴ら知らないな。この宿に泊まっている奴の名前なんて知らないぜ」
「本当に知らないの?」
男の眼が妖しく光った。ふふっと笑っているあたり、まるでこちらの真意を既に察知しているようだ。
「お客さん、何の騒ぎだい?」
わざとらしく宿の主人も降りてくる。
「おいおい、僧侶がセチアとかいう奴を出せってさ。ご主人、心当たりあるかい?」
俺も主人の演技に乗ってやる。んーと首を傾げる主人。
「今日の宿泊客にそんな名前の人はいなかったな」
目が泳いでるぞ。この宿の主人、演技下手すぎだろ。
「本当のこと言いなさいよ、嘘は良くないわ」
「知らないと言っているだろ、他の客のことなんてどうでもいいだろ!」
「う・そ・つ・か・な・い・の。私はあんたたちの心なんかお見通しなんですからね。いるんでしょマグノリアたちが。客室かしら?」
息が止まりそうになったが、きっとカマかけているだけだ。否定し続ければ問題ない。
「だから知らないと言うに! そもそも誰だ、マグノリアとは」
俺は声をさらに荒げ、壁に握り拳をドンと打ち付けた。
だが、男はさっと短い前髪を払うと気にも留めぬ様子で周囲の兵たちに命令を下した。
「客室を調べなさい。それと、このいい男と宿の主人、嘘ついているわ。惜しいけど、捕まえて神の裁きを与えましょう」
兵士たちが階段に殺到した。
「うわ、お前ら何をする!」
俺は蹴りで応戦するが、脚を掴まれてそのまま階段を引きずり降ろされてしまった。
さすがの俺でもこの人数が相手では分が悪い。愛刀の大剣は元の宿に置いてきているし。
二人がかりで床に伏せられた俺の背後では、残りの兵士たちが階段を駆け上がっていく。なぜ俺が嘘をついているとバレたのだろう?
「うーん、本当見れば見るほどいい男ねえ。でもあなたがいけないんだから、嘘ついていた罰よ。私は審問官のサンタラム、嘘は一発で見破っちゃうんだから」
俺を見下ろしながら、このサンタラムと名乗る男は気持ちの悪いウインクを飛ばした。
そうかこの男、プラートによって祝福を受けているな!
「さあ援軍を呼ぶわよ。この宿よ、ここに隠れているわー!」
サンタラムは外に向かって大声で叫ぶ。嫌に響く声だ、近隣の兵士には耳を塞いでいても届いたに違いない。
叫び終わるとサンタラムは自分の頬をぺちぺちと叩いて、もう一度俺に向き直った。
「それじゃあ私はマグノリアたちを捕まえてくるわ。また後で会いましょう、いい男さん、チュッ」
別れ際に投げキッスを飛ばして階段を駆け上がる。
宿の主人も別の兵士に捕まり、外へと連れ出されてしまった。
上の階には兵士が既に踏み込んでいて、外には兵士がすぐに集まってくる。そして俺もこのままでは牢屋送りだ。
そんなことさせるものか。俺は力を込めた。
後ろ手に固められた腕に全神経を集中させ、肩に、腕に、何倍もの血流を集める。
「お、おいなんだこの馬鹿力?」
「う、動くなよお!」
背中からのしかかっている兵士二人がかりでも俺の腕を抑え込むことはできなようだ。左右の片腕ずつで兵士の両手を引っ張りながら、俺は腕を床まで着かせた。
あとはこっちのものだ。腕の力と背筋で一気に起き上がる。
足場が動いたものだから背中に乗っていた兵士二人は後ろに転び、俺はついに自由の身となった。
「なんだこのバケモノ!」
兵士二人も素早く立ち上がると、腰に差した剣を抜いた。細身の片手剣で、刀身はピカピカに磨かれている。
だがこの程度の相手にひるむ俺ではない。懐から護身用のナイフを取り出し、相手に突き出して牽制した。
兵士二人は俺の気迫に圧されたのか、一歩下がったものの、そこで踏みとどまる。
「あいええええ!」
しばしのにらみ合いの後、兵士の一人が唐突に剣を突き出した。
だが、扱いがどう見ても素人のそれだ。左胸を狙っているのは目の動きだけで分かった。突き出された剣を避け、俺は相手の左側まで流れるように潜り込んだ。
あっと目を開いて俺を見つめる男に、容赦なく顔面パンチを叩き込む。
床に倒れて悶える兵士。もうひとりの兵士が慌てて俺に襲い掛かるが、今度は狙いすらろくに定めない破れかぶれの剣裁きだ。
振られた剣をナイフで受け止めると、俺は思い切り力を込めて押し返した。
相手の剣は手から離れ、床にガラガラと音を立てて転がる。慌ててしゃがみこんだ相手を俺は見逃さなかった。
顎に膝蹴りを食らわせた。兵士は鼻から口から血を吹き出し、そのまま白目をむいて倒れてしまった。
こういう喧嘩は久々だ。奇岩の谷で盗賊に襲われたとき以来かな?
勝利の余韻に浸りながら背中の筋肉を伸ばしていると、不意に誰かが「おい、お前何をしている?」と尋ねてきた。
なんと、もう他の兵士が駆けつけてきたのだ。それも外にはまだまだたくさんの兵士が押し掛けている。
「おい、こいつらは何だ? お前がやったのか?」
兵士は床で伸びている二人の兵士と俺を見比べ、俺の手に持ったナイフが目に入ると有無を言わさず剣を抜いた。
これはまずい。俺はとりあえず床に転がる兵士の剣を一本拾い上げると、そのまま階段を駆け上がった。




