第四章 信仰の都カルナボラス その8
「これでよし、香辛料はこの町で売るといいよ」
マグノリアの眠る部屋とは別の部屋にて、俺は羊皮紙に筆を走らせるチュリルに向かい合って水を飲んでいた。
約束は約束だからな。物価の情報はきっちりと教えてもらおう。
香辛料はもちろん、陶磁器や宝石といった高級品から食糧や麻布といった日用品までびっしりと地域ごとの相場が記されたリストの作成には随分と時間がかかった。
陽は沈み、長い一日が終わった。
スレインと追いかけて行ったセチアはまだ帰ってきていない。結構な時間が経ったのだが、どこかで泣き暮らしているのだろうか?
俺はチュリルから羊皮紙を受け取り、その内容にざっと目を通す。
見れば見るほど役に立つ情報だ、絶対に商売敵に漏らしてはならない。
「世話になったね。ありがとうよ!」
チュリルに見送られて部屋を出ると、廊下はもう数日で真ん丸になろう月の明かりだけで照らされていた。
さあ、俺の仕事はこれで終わりだ。早く帰って酒でも飲んで眠ろう。
そう頭の中では言葉を出しながらも、俺はこの宿を出ようと思えなかった。
どうしても気がかりで足が思うように動かないのだ。いつの間にやらマグノリアの眠る部屋の前に来ていた俺は、呼吸を整えてドアノブに手をかけた。
部屋の中でマグノリアは起きていた。ただじっと天井を見つめている。
「……オーカスか。何か用か?」
ぶっきらぼうな物言いだが、底からは計り知れない知的な印象も醸し出す、そんな声だった。
俺は椅子に座り、机の上の杯に水を注ぐとすぐさまぐびぐびと飲み干した。そして別の杯にも水を注ぎ、それをマグノリアに突き出した。
「マグノリアさんよ、タイミング逃しちまったから今訊くが、どうしてあんたは捕まっていたんだ?」
「さっきも話しただろう、教団から金を盗んだからだ」
マグノリアは気怠そうに答えるが、俺にはそれがどうも信じられなかった。
この男は絶対に何かを隠している。商人の直感がそう教えてくれている。
「あんたは嘘が下手だな。俺は商人だ、いろんな人種の何千何万もの人間の顔を見てきた。本気か本気じゃないかなんてちょっと顔を見りゃすぐにわかる。あんたがそんな理由で投獄されていたなんて真っ赤な嘘、もっと込み入った事情があるはずだ。あのチュリルって娘も。それにセチアだって、記憶喪失な上にオーランダーに殺されかけて、どう考えても普通じゃない。真正ゾア神教には何か重大な秘密がある。俺もセチアと関わっているから無関係ではいられない。どうか真実を話してくれないか?」
空間を沈黙が包んだ。しかしすぐにマグノリアは俺の顔に目を向けると、さっきよりも小さな声で尋ねた。
「セチアとスレインには話さないでくれるか?」
「ああ、約束する」
ふうと息をつき、マグノリアはゆっくり話し始めた。
「私はかつて隣国ムサカの兵士だった。当時ムサカの政治は不安定で国力は地に落ち、民は貧困に喘いでいた」
ムサカ国の問題については聞いたことがある。
パスタリア王国とタルメゼ帝国という二大国家に挟まれたムサカは周囲に比べれば弱小国で、常に両国の侵攻に怯えている。ゆえに王室は軍事を重視し、強い兵士の育成を国策として両国に対抗してきた。
その成果も実りムサカの軍隊は西方諸国でも抜群の統率を誇ると言われるようになったが、そのツケは重税として民に回り、民の多くは慢性的な貧困に苦しんでいる。さらに王室の後継者争いのゴタゴタで施政が停滞し、民の不満は爆発寸前であるとも伝え聞いている。
マグノリアは続けた。
「ある日、パスタリアからプラート様が来られた。貧民街で演説を開いたプラート様は、ゾア神から授かった新たなる預言に従い、現世での救済を実現しようと話された。その崇高なる意志に感銘を受け、多くの者がプラート様の下に付いた。たまたまその場に居合わせた私も民が窮状を脱せられるのならとプラート様に仕え、ついには兵長の役を頂くまでに至った。ゆえに私は今まで救済の名目で数多くの作戦に加わり、多くの僧や貴族を殺し、偶像を破壊してきた」
マグノリアが猛獣のような太い腕をゆっくり持ち上げ見せつける。
「まさか、シシカモスクを消しちまったってのは」
「そう、私のこの力だ。私は触れた物体を消滅させる力を授かっている」
確かにシシカでサバサンドを売っていた男から聞いた。大男がシシカモスクの壁に触れただけで消し去ってしまったと。あれはマグノリアの能力だったのか。
この男があの荘厳なモスクを。ふっと殺意に近い感情が湧き上がったが、俺は拳に力を込めて耐えた。なんとかその感情はすぐに治まり、平静を取り戻す。
「一ヶ月ほど前だった。私は少数の仲間たちとシシカに潜り込んでいた。布教と、アラミア教が国教から外された際に暴動を鎮めるためだ。その中にはセチアとチュリルもいて、各地の建物の構造を把握するために、二人に貴族の屋敷やモスクに潜入させて地図を作らせていた」
「ああ、チュリルの能力なら潜入は得意だろうな」
「しかし問題が起こった。シシカモスクの地下室を調べているとき、二人は妙な書物を見つけてしまったのだ。アラミア教の教典は唯一『アラミア白書』のみのはずだが、モスクの地下にはそれよりも厳重に『ゾア神の独白』と書かれた古い書物が収められていたのだ」
俺は椅子から立ち上がった。自分の耳を疑った。今ゾア神と言ったか?
「ちょっと待て、ゾア神だって? なんでゾア神の名前が全く無関係のアラミア教のモスクから出てくるんだ?」
以前セチアにも話したことがあるが、アラミア教とゾア神教はすこぶる仲が悪い。別々の唯一神を信じるあたりや、互いに地域が隣接していることが要因なのだろうが、かつて宗教を巡っての戦争も起こったほどに両者の仲は険悪だ。交易のために開かれているタルメゼ帝国でも、表立っての宗教の話題はタブー視されている。
そんな状況で、どうしてアラミア教のモスクからゾア神に関する資料が出てこようか。
「当然不思議に思った。二人は書物を持ち出し、文字の読めないセチアのため、宿でチュリルが読んで聞かせたのだ。その内容は衝撃的なものだった。我々は昔からアラミア神とゾア神とは無関係の別物だと聞いていたが、実際はそうではなかった。アラミア教は開祖ダクティラが授かったアラミア神の預言を基にアラミア白書としてまとめたものだとされているが、実際はアラミア神の預言はそれまでのゾア神の預言を踏まえて、神から新たに下されたものだと記載されていたのだ」
「そんな、ゾア神の預言を踏まえたって、つまりはアラミア神とゾア神が同一の存在だとでも言うのか?」
今の今までずっと別々の神だと思っていた存在が同じ神のことだった。そんなことを聞かされて驚かないわけがない。
「そうだ。1200年前、開祖ダクティラが預言を受けた時代はまだゾア神教も一部の部族にしか広まっておらず、時の皇帝から迫害されてもいた。あくまで私の推測だが、別の土地で新たな名前を神が使ったのは当時の民の印象に配慮したのだろう。アラミア神はアラミア白書に戒律を記して表向きは唯一の教典とし、独白については門外不出の真実とするよう警告を出したのではないだろうか。このことは恐らくアラミア教の高僧にしか知らされていない」
俺は色々と思考を巡らす。今までの東方の旅の中で知ったゾア神とアラミア神の特徴を思いつくままに想起した。だが、すればするほど、マグノリアの説明に納得せざるを得ない。明らかにゾア神教とアラミア教は、他の俺が東方で見てきた信仰の形態と違いすぎる。
「確かに、ゾア神教とアラミア教は共通点が多い。どっちも唯一の創造神を崇拝する一神教だし、神の姿は人間には認識できないとされている。その神の言葉を伝える預言者という存在も。俺の見てきた東の国にはいろんな偶像が信仰の対象とされていたのに、アラミア神の教えにはそういったものは無い。新しい預言だと考えたら、色々と説明がつくぜ」
思えば1000年以上もの時代の中で、互いに争いを続けながらも壊滅までは至らなかったのは、この両者が同じ神を崇拝しているからかもしれない。
いわば兄弟げんかのように、憎み合いながらも放ってはおけないような存在で、高僧同士が最後まで徹底的に叩きのめさないようストップをかけていたのだろうか。
「とにもかくにも、二人はアラミア神とゾア神が同じ存在であることを知ってしまった。このことでプラート様がゾア神より授かった預言の、アラミア教を異教としてすべて破壊するという内容に矛盾が生じたのだ。我々は旧教の聖人像は破壊しても聖堂そのものは破壊しなかった。しかしアラミア教は異教ゆえに僧侶は身分をはく奪し、モスクは瓦礫一つまで消し去らねばならない。この矛盾が世に知らされてしまってはプラート様の預言の正統性が崩れ去り、単なる狂言になる」
マグノリアの巨大な拳に力がこもった。
「そんなことがあったのか。まさか、俺も衝撃だよ」
「私も驚いた。私は二人にそのことを口外しないよう言いつけ、書物もこの力で消し去ったが、それらはすべてプラート様の知るところとなり、私は本部からチュリルとセチアを殺すよう通達を受けた」
「どうしてバレたんだ?」
「密偵の仕業だろう。プラート様は情報収集のために各地に密偵を送り出していると聞く。彼らは普通の人間にはできないほどの速さで情報をプラート様に伝える能力を持っているそうだが、その正体はプラート様と側近しか知らない。チュリルのように姿を消せる者がいるように、情報収集に適した能力を持つ者がいて、各地で敵味方問わず反乱の兆しが見られないか常に目を光らせているのだ」
密偵か。仲間同士も監視する目的で組織されているなら、誰が直接プラートと通じているのかわかったものじゃない。
オーランダーやマホニアがカルナボラスに到着していたのも、密偵の働きのおかげだろう。
「もしかしたら俺たちの今の居場所も筒抜けかもしれないな」
しばしの沈黙。マグノリアは頷いて「否定はしない」とだけ答えた。
「命令を受け取って、あんたはどうしたんだ?」
「私にはわからなかった。プラート様の命令が果たして本物のゾア神からのものなのか、そもそも秘密を知ったからと言って殺すほどの罪になるのかと。私は二人を呼び出し逃げるよう勧めた。チュリルはすぐに姿を暗ましたが、セチアはプラート様の意向に背くわけにはいかない、自分を殺して欲しいと頼んだのだ」
まさかあのセチアが。
底抜けに楽観的なあの娘が自分を殺して欲しいとまで言い出すとは、想像もつかない。以前はそれほどまでにプラートに心酔していたのか。
「でもセチアは生きている。しかも記憶を無くして、だ」
俺が尋ねるとマグノリアは口をつまらせた。
「私は消滅の力を応用してセチアの記憶を消した。秘密のことも真正ゾア神教のこともすっぽり忘れてもらおう、ゾア神から離れた土地で新たな人生を歩んでもらおうとしてな。神団に帰依した女の証である長い髪も切っておいた」
シシカでスレインと初めて会ったとき、セチアを見るなり「戒律を忘れたの?」と言っていたのをふと思い出す。真正ゾア神教の女は髪を長く伸ばさねばならないのだ。
「その後部下のに気を失ったセチアをどこか遠くの街へと連れて行くよう頼んだのだ。その者は催眠の能力の持ち主で、セチアを眠らせてはるか東へと旅立った。だが、途中で野盗にでも襲われたのか、部下はセチアを残してどこかに消えてしまった。そこにオーカス殿が通りかかって、セチアを拾ったというわけだ」
よくよく思い出す。
俺がセチアを拾ったのは突然眠くなって、目を覚ましてからだ。あの時はアコーンもすぐに眠ってしまった。
まさか、俺もその部下の催眠にかかったのでは?
そしてどういった事情かはわからないが、セチアを任されたのではないか?
そこまで話すとマグノリアは黙り込み、俺は深く息を吐いた。
「だいたいはわかった。あんたも大変だったんだな」
「私はその後暴動を鎮圧し、この力でモスクを消滅させた。私は自らの手でゾア神の聖域を消し去ってしまった。しかし、真正ゾア神教はこれを正義とする」
勇ましい男であるはずのマグノリアの声から嗚咽が漏れ始め、徐々に詰まっていく。
「私にはわからない。プラート様の命令は神の命令も同じ、それを反故にした私は神に背いた罪人。それに、セチアとチュリルに対しても申し訳ないことをした。私が不甲斐ないばかりにあの娘たちを再びここへと呼び戻してしまった」
この男の苦悩は計り知れない。旧来のゾア神教や同一の存在であるはずのアラミア教の施設も破壊し、真正ゾア神教のプラートの命令にも背いたのだ。
つまり全ての信仰に背き、その罪を一身に背負っている。そして同時に自らの行いのせいで、いずれの神にも死後救われることが無いことを自覚しているのだ。
兵士と商人と身分は違えど同じ、神から見放されて死後の救済を諦めた者同士だ。俺にはこのマグノリアの苦悩が手に取るように分かった。
さっき俺の中で湧いたはずの殺意もどこかに消え去ってしまった。残ったのは同情と哀れみ、そしてかつて同じようなことで悩み苦しんだ俺の姿への回想だった。
「それでセチアとあんたは教団に捕まってしまったのか。プラートやオーランダーは秘密を知っちまった人間をことごとく抹殺するつもりなのか?」
「そのつもりだろう。カルナボラスに帰ってきた私はすぐに捕まり、拷問にかけられた。書物の内容を知ってしまった私は真正ゾア神教にとって不都合この上ない人間。セチアとチュリルは死んだと思われていたようで安心したが、どういう導きかまたここに戻ってきた」
マグノリアの声から力が完全に抜けている。おもむろに布団をばっとかぶったマグノリアは、中で静かに涙ぐんでいたのだろう。
「あんた、これからどうするつもりなんだ?」
「わからない。このまま神に反逆した罪人として死ぬつもりだったが、二人を残して死ぬわけにはいかない。だが皆で逃げて生きていくにも、傷を負った私がいては難しい。やはりいっそこのまま……」
「そんなことはない、あなたは死ぬべき人間ではないぞ!」
突然部屋の扉が勢いよく開け放たれる。
入ってきたのはセチアだった。扉から差し込んだ光が細長いシルエットを際立たせている。
力強く言い切ったセチアを前にマグノリアは上半身を起こし、口をあんぐりと開けていた。




