第四章 信仰の都カルナボラス その7
俺たちはチュリルの言うアジトとやらに招かれた。
アジトと言っても運河に建物の半分が突き出て今にも崩落しそうなボロ宿の一室なのだが。どうやらここの主人が真正ゾア神教に元から反感を抱いていて、チュリルはそのことを知っていたらしい。既に事情を承知しているようで、チュリルが帰ってくるなり人数分の部屋を用意してくれた。
俺たちはひとまずマグノリアをベッドに寝かせ、足の火傷を治療する。いざ明るい場所で直視してみると肉がただれて骨まで見えそうなひどい傷だった。
こちらまで足が痛くなってきそうで、あまり見たくない傷口だが、この男がいないと地下から出られなかった手前、絶対に不平は口に出さんと決め込み、東方で買った軟膏を何重にもすり込んだ。
「マグノリアさんはしばらく安静にした方が良さそうだ」
チュリルは軟膏でベタベタになった足に包帯を巻きながら皆を見回した。セチアもスレインも心配そうにマグノリアに目を向けている。
「心配するなって。東方の薬はよく効くから、すぐに傷口も塞がって歩けるようになるさ」
この軟膏は東方の商人から直接買った物で、様々な薬草と動物の油とを混ぜ合わせて作ったらしい。胡散臭く思ったがちょうど薬を切らしていたので一袋だけ買ってやった。
だが実際に足を擦りむいた時に使ってみると翌日には傷が塞がっていたので仰天し、大量に買って西の国に持って帰って売れば良かったと後悔した。
俺は薬の入っていた袋をスレインの目の前に突き出したが、スレインはそんなものまるで見ていないかのようにチュリルを向いて尋ねた。
「チュリル、一体教団はどうなってしまったの?」
「それはこっちが聞きたいくらいさ。マグノリアさんだけ逃がそうと思ったら、あんたたちがいるんだもん、びっくりしたよ。どういう成り行きでカルナボラスまで戻って来たんだい? どっか遠い所へ連れて行かれたってのは聞いていたんだけど」
「俺がセチアを拾ったからだ」
薬の袋をポケットにぐしゃぐしゃに詰め込んで、俺は自分に親指を突き刺した。
「オーカスの旦那、教えてくれよ。今まで何があったんだい?」
チュリルはどかっと椅子に座り込み、鋭い目つきで俺を睨みつけた。
「俺は東方諸国で五年ほど商売をしていて、その帰りにシシカの手前で倒れているセチアを拾った。その時には既に記憶を無くしていたわけなんだが。その後、シシカでオーランダーに殺されかけたようで、スレインとここまで戻ってきたんだ。そうしたら、プラートに捕まっちまった。どういうわけかオーランダーも戻ってやがったぜ」
「オーランダー様もプラート様も……何があってあんなに変わってしまったのかしら?」
スレインが頭を抱えてうずくまる。かつて従っていた者に二度も命を狙われたせいか、すっかり消沈している。
一方のチュリルはそんな様子から目を反らし、力なく言った。
「変わっていないよ、真正ゾア神教はずっとあんなもんさ」
言葉を失いチュリルを見上げるスレイン。チュリルはスレインと目を合わせないようにしながら続けた。
「悪いことは言わない。この街を離れてどこかでひっそりと暮らすのがいい。奴らの目も届かないどこか遠くへ。じゃないとあいつらは全員の命を奪うまで追いかけてくるよ」
「それじゃあ私は今まで一体何のためにこの身を捧げてきたというの?」
スレインが激しく床板を蹴り上げて立ち上がり、水瓶を抱きしめて声を張り上げた。
「お父様も言っていたわ、神は必ず我が身を助けてくれると。でも、そんなことは無かった。お父様は借金を残して病死し、お母様も私を残して男の所へ逃げていった。そんな中でも、プラート様だけが私の心を救ってくれた。それなのに……私は何を信じればいいの?」
スレインは目に涙を蓄えたまま叫び続けた。過去の悲劇の記憶を何もかも思い出し、その重みに耐え切れないでいるように思えた。
きっとこの娘は名家のお嬢様なのだろう。言葉遣いや振る舞いに気品が感じられるのは家庭環境の賜物か。だが、その家庭は今聞いた通り、現在は影形も残っていないようだ。
そんなスレインを救ってくれたのが真正ゾア神教だったのだろう。きっとこの娘は教団に出会ったことで孤独から抜け出せたのだ。友人であるセチアのことをやたらと気にかけるのも、その孤独な過去に由来しているように思えた。
常に抱えている白磁の水瓶は数少ない手元に残された家財で、悲劇の起こる以前の楽しかった過去を思い出させてくれる唯一の支えなのかもしれない。
そう考えてみると、初めて水瓶を見たときに売値を考えてしまった自分はスレインに対し随分と失礼なことをしたものだと妙に恥ずかしくなる。俺は心の中で彼女に詫びた。
だが必死に訴えるスレインを、チュリルは軽くあしらうのだった。
「そんな考えだからあんたはお嬢様なんだよ。いつも誰かからの答えを待ってばかりで自分から動こうとはしない」
スレインの顔が一瞬にして真っ赤になった。
「チュリル、あなた!」
スレインはチュリルに掴みかかったが、簡単に払われ、瞬く間もなく後ろから締めつけられる。実に素早く流れるような身のこなし。一朝一夕で身に付くような動きではなかった。セチアも俺も思わず「おお」と驚きの声を漏らしたほどだ。
「神様なんか人間が都合の良いように作り出した信仰の対象さ。ゾア神もアラミア神も、精霊信仰だってみんな神様がいる体で崇拝しているけれど、誰が神様を見たことがあるんだい? 誰が神様の声を聞いたんだい?」
凄みを効かせた声のチュリルを、スレインは歯を食いしばりながら睨み返した。
「それは、プラート様が」
「まーたそうやってプラート様にすがる。あんたはついさっきプラート様を信じられないと言ったばかりのに、もうぶれちゃっているよ。プラート様が言っていることが正しいなんて保証、今の私たちには無いんだよ」
「もうそのくらいにしておけ」
振り返るとベッドの中からマグノリアが腕を伸ばしている。チュリルは即座にスレインの拘束を解いてベッドに駆け寄った。スレインは咳き込んでいたが、すぐにベッド脇まで歩いてきた。
「マグノリアさん! 傷がひどいんだから、ゆっくり寝ていないと」
「兵士として戦っていた頃のものに比べればかすり傷みたいなものだ。それよりもチュリル、神はいないなどと絶対に言ってはならぬ。神に支えられて日々を生きる民も大勢いる」
諫められ、チュリルは歯ぎしりしながらばつが悪そうに尋ねた。
「マグノリアさんはどうお考えですか? 尽くしていた教団にこんな仕打ちをされたというのに、まだ真正ゾア神教を信じられるのですか?」
「チュリル、勘違いしていないか?」
「何が勘違いですか、だってマグノリアさんは――」
「私は聖堂から金を盗んだだけだ」
その場にいた全員が固まった。そう言えばどうしてこの男は牢に入れられていたのだ?
これほどの男が金を理由に捕まったのか? 俺にはとても信じられなかった。
「マグノリア様、嘘ですよね? あなたほどの方がそんな不徳、犯すわけありませんよね?」
スレインが震えながらマグノリアの手を握り締める。マグノリアは反対方向に顔を向けて、しばし間を置いてから答えた。
「嘘ではない。私はただ単に罪を犯しただけだ」
スレインの血の気が引いていた。そしてマグノリアの手をさらに強く握り締め、前後に激しく揺らし始めた。
「どうしてですか、あなたは誰もが憧れる歴戦の勇士のはず! どうしてそんなつまらない理由で神に背いたのですか?」
「つい出来心だ」
聞いた途端、スレインはマグノリアの手を突き放し、目を真っ赤にしながら部屋の外へと駆け出していった。
それを追いかけてセチアも部屋の外へ出て行き、部屋には立ち尽くす俺とベッドのマグノリア、そして不貞腐れた様子で椅子に座るチュリルが残されたのだった。




