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絶望の商人と奇跡の娘  作者: 悠聡
第一部 救済の神託
3/106

第一章 砂漠の交易路 その3(挿絵あり)

 岩山で一晩を過ごした俺たちは、陽が昇るとすぐに砂漠越えの旅を再開させた。


 リーフは疑う余地も無く、完全なる記憶喪失だった。盗賊が襲ってくる気配は一切ないし、パン一切れ勝手に取り出すことも無かった。その上器量も良く、野外でも簡単な料理ならぱっぱと作ってしまう。いつの間にやらどうやって捕まえたのか、気絶した鳥を血抜きして捌いて、オリーブオイルで見事に炙ったりもした。


 羊肉に飽き飽きしていた俺にとって、鳥のあっさりした風味は絶品だった。


 日中の移動はアコーンに二人で跨り、俺が手綱を、リーフが俺の背中を掴んでずっと揺られている。アコーンが荷物を積んでさらに人間二人を背負えるかが心配だったが、俺の相棒は頼りになる、全くの無問題だった。


 その途中で交わした会話はほとんどが俺の長い旅の漫遊記だ。記憶が無いのだから無理もないが、リーフから振れる話は俺への質問くらいだった。


「で、俺がその金持ちの親父に一か月かけて運んだ酒をようやく売りつけたわけよ。そしたら奥さんが出てきて、酒なぞいらん、持って帰ってくれって。召使の前だっていうのに親父は急に萎んじまって、酒はいらないとか抜かしやがる。せっかくの苦労が全部水の泡だ」


「その奥さん、旦那が酒を飲むことよりも、旦那の性格の方が気に入らないんじゃないのか?」


「違いねえ、あの家にはそこら中に古今東西の石像だの家具だのが陳列されていたぜ。商人が売りつけに来たら断り切れないでどんな物でも買ってしまう性分なんだろうよ」


 こんな取り留めの無い会話でも、あるか無いかでは全く違う。俺の帰路が一気に色付いた。カッポカッポと一人で歩いていた頃に比べて、時間の流れが何倍にも早くなったようだ。


 またリーフの記憶喪失の程度についてもわかってきた。知識は残っているが、今まで体験してきたエピソードだけがすっぽり抜け落ちているという奇妙な状態で、例えば国の名前や地図は覚えているが、そこに行ったことはあるか、そこで何をしたかはまるで覚えていない。


 そしてやはり自分の情報、名前はもちろん出身地や親の顔などに関しては綺麗に欠落していた。赤ん坊が知識だけを持って生まれてきた、それが今のリーフだった。


「オーカス、次の町はどんな所だ?」


「ロクム村。湧き水にできた小さな村さ。街道沿いで隊商宿がある以外は何の変哲も無い集落だよ」


「変哲も無いことは無いだろう。強いて言うならどうだ?」


「強いて言うなら放牧が盛んだ。昼になれば村の男は羊を連れて山に登り、女は家で子供の世話と編み物に励む。夜は男はぐーすか寝て、女は家事と編み物に励む。農閑期になれば男は英気を養うと言って一日中ごろごろして、女は夫の世話と編み物に励む」


「男、あんまり働いてないな」


「ここらの村はどこもそういう感じだよ。大昔はここも西と東をつなぐ交易路で、ひっきりなしに人が行き来して栄えていたそうだが、航海技術が発達して船を使えば一度で大量に運べるようになっちまったから、この街道を利用するのは物好きか、俺みたいな零細の個人商人だけになっちまったんだ。隊商宿だってもう1000年近く前の建物を修繕しながら使い続けてるんだぜ」


 そんな話をしていると、あっという間に件のロクム村に着いた。昨日の夕方には到着の予定が途中で野宿に変更になったので、今の時刻はまだ正午も迎えていない。


 空と地平線の隙間から日干しレンガ造りの家屋が見えた時には、リーフは体を揺らして興奮していた。二人分の重みでもびくともしなかったアコーンも、首を回して背中の人間を睨みつけた。


「騒ぐな騒ぐな。アコーン、全速力だ」


 言うが早いか、アコーンの歩調は倍速になり、家々はぐんぐん俺たちに近付いてくる。


「村に着いたらいいもの食わせてやろう。ここの宿の食事はすごく美味いんだ。特にゴマを練りこんだスィミットとかいうパンがな、あれは絶品だった」


 プチプチとしたゴマの食感を思い出すと涎が溢れそうになる。


「へぇー、ゴマねぇ……」


 耳元でじゅるりと舌なめずりする音が聞こえる。食べた記憶は無いくせに、リーフも俺と同じ想像をしているようだ。


「おいおい、涎かけるんじゃないぞ。あ、そうだ、これを頭に巻いておけ」


 俺は荷物から赤いスカーフを取り出し、後ろ手でリーフに渡した。


「何だこれは? 綺麗な模様だな」


 リーフはスカーフを広げてしげしげと眺めた。男っぽい言葉遣いでも、女らしいところはあるようだ。


「アラベスク模様って言って、東の国じゃあ伝統的な図柄さ。ここらの人間は宗教的な理由で、女が髪の毛を出していると怒る。郷に入れば郷に従え、相手を怒らせないためにも相手の慣習にはできるだけ従っておこうぜ」


「宗教的な理由? ゾア神教ではそんな風習無いな。ここの民は何という宗教を信じているのだ?」


「アラミア教さ。唯一神アラミアとかいう神様に毎日朝昼晩、祈りを捧げるんだよ。ここはそうでもないが、地域によっては酒も飲んじゃいけない、女は夫以外の男と口を聞いてはいけないとか、随分と戒律の厳しい神様だぜ」


「アラミアとはどんな神なのだ? 東方の精霊みたいに像はあるのか?」


 リーフは自分の信じるゾア神教に関してはかなり詳しいところまで精通しているが、異教に関しては無知も同然だった。そもそもゾア神以外を信ずる者がいること自体を実感できていないようだ。


「いんや、アラミア教では偶像崇拝は禁じられている。アラミア神もゾア神と同じように姿を知ることはできないからな」


 アラミア教はゾア神教よりもその戒律が厳しい。ゾア神教では認められている聖人の像や絵画の創作すらも認められていない。


 ゆえにこの地域では人間の肖像を作ろうという土壌が育たず、どんな金持ちや王族でも肖像画を残すことは無いのだと聞く。


 逆に信仰の象徴は神の言葉に向けられた。


 アラミア教はおよそ1200年前、預言者ダクティラがアラミア神の声を聴いたことから始まる。その後幾度となく下された啓示をダクティラとその弟子の僧侶たちがまとめた書物が「アラミア白書」であり、信者にとって唯一の教典になっている。


 その一節を書き記したパネルを高々と礼拝堂や町中に掲げ、それに向かって祈りを捧げるのが俺の見てきた一般的なアラミア教の風習だ。


 そうこうしている間に、俺たちは村の中に入っていた。


 レンガを組んで作った簡素な家々の間を、地面が水分を含んでいるためかぽつぽつと雑草が顔を出す狭い道が貫いている。


 踏みならされた土の上を子供が駆け回り、長い木の杖を持った男が「ハイハイ」と掛け声を上げると、その後ろから何十頭もの羊が塊になってついていく。その羊の群れのせいで通せんぼされて、頭の上に籠を乗せた女が怪訝な目を向ける。


 その様子を軒先で見ていた老人が、笑いながら水タバコをふかしている。そんな彼らは皆一様に、男ならターバン、女なら頭巾やら布やらで髪の毛が見えぬよう頭を隠していた。


 実にここらの地域で普遍的に見られる、のどかな村の光景だった。アラミア教圏最大の国力を誇り、何度もゾア神教を脅かした強国タルメゼ帝国の一般庶民の暮らしぶりだ。


「楽しそうな村じゃないか」


 見るものすべてが奇異に映るようで、アコーンに揺られながらリーフは目を輝かせて辺りをきょろきょろ見回していた。


 特に水タバコはリーフの関心を強く引き寄せたようで、じっと熱い視線を送ったのを感じ取ったのか、爺さんはにかっと笑ってぼろぼろになった歯を見せつけると、さっきまで咥えていたパイプを「吸うか?」とでも言いたげにリーフに突き出したのだった。


「やめとけ、癖になってやめられなくなるぞ」


 俺はアコーンの歩調を早め、リーフをさっさと爺さんから離れさせ、隊商宿に向かった。


 この小さな村の中では隊商宿は砦のように大きい。外からは高い塀に囲まれているようにも見えるこの建物は、陽の上っている間だけ門を開き、街道を行く旅人を迎え入れる。門の中は中庭を備えた二階建ての城壁のような構造で、中庭には見張り台を兼ねた小さな建物があり、管理者の住まいになっている。


 かつては一晩に何百人もの旅人を収容する必要があったため、この辺りの隊商宿は実に大きく、設備も充実している。人間の寝床はもちろん、厩、食堂、取引所、何ヶ月分もの食糧を貯蔵できる倉庫と、寝泊りには申し分ない。


 まだ昼の早い時間なので、俺たち以外に旅人はいない。シシカの都も近いというのにこの利用状況じゃ経営ものっぴきならないだろうが、今のタルメゼ帝国では仕方ない。


 20年ほど前に新航路の開拓によって西の国々が直接東方へと進出できるようになって以降、陸路で東西の橋渡しをしていたタルメゼ帝国はその優位性を一気に失った。


 さらに同時期に沿岸部の諸侯が内乱を起こし、次々と国家を独立させたのだ。当然沿岸部の通行料はそれらの国々に入るため、タルメゼは長らく保持していた制海権をも喪失した。


 結局残ったのは東西に長い内陸の砂漠と、西端にある首都シシカだけだった。かつて栄華を極めた大帝国も、もはや風前の灯火に成り下がっていた。


 宿の管理者の中年男に宿泊料の銀貨二枚を払い寝床の番号札を貰う。ここを出るときにはこの木製の札を返却するのがここのルールらしい。


 俺たちはアコーンを藁の敷かれた厩につなぎ、言われた通りの番号の寝床を探した。それは二階の小さな部屋で、石造りの床に二枚、人の寝られる大きさのの絨毯が敷かれ、その脇の壁に俺たちの札と同じ番号が彫られている。


 今まで一人だと他の連中といっしょに大部屋で寝かされていたが、女を連れているのを見た管理者がサービスしてくれたのだろう。最も、この様子なら夜になっても部屋は余りそうだが。


 さて、荷物を置いて身軽になった後、俺たちがすることと言ったら一つだけだ。


「さあ飯だ飯だ、今日はもう歩かねえからパーッと食うぞ!」


 俺とリーフは食堂に駆け込んだ。案の定誰もいないが、わざとらしく大机の真ん中の席に乱暴に腰掛ける。


 すぐに厨房から皿を持ってきた管理者の女房が二人前の料理が盛られた盆を持ってきた。白い湯気を上げたリング状のパン。その表面は黄金色のゴマがびっしりと張りつき、豪華な金細工のようにも見える。


 これこそこの宿自慢の料理、スィミットだ。この地域名産のゴマをふんだんに使ったこの料理は、東方での長い旅の疲れを温かく癒してくれる。


 二つのスィミットが盛られた皿が一枚ずつ、俺とリーフの前に静かに並べられた。できたてのホカホカ、美味くないわけがない。


 俺は「いただきます」と簡単に言うと、すぐさまアツアツのスィミットに手を伸ばし、そのまま口に運んだ。


 薄く硬い表面がパリパリ音を立てて崩れ、中からもちもちと柔らかい生地が現れる。そのギャップが俺の舌を楽しませ、同時にこねる前に糖蜜を練り込んでおいた生地からほのかな甘みが滲み出す。その甘みが焦げかけのゴマの苦みと調和して、口の中いっぱいに広がるのだ。


「うん、やっぱここのスィミットは絶品だぜ!」


 勢いよくパンを噛み切り、何度も咀嚼した。


 ふと横に座ったリーフを見てみると、意外なことにリーフはまだ皿に手を付けていなかった。


「全能なるゾアの神よ、今日の糧に感謝します」


 じっと手を組んでブツブツと食前の祈りを唱えている。記憶は失ってもなお、神への感謝は忘れないということか。やっぱこいつは元は修道女だったんじゃないか?




「ふう、食べた食べた。いやあ、美味かったなあ」


「な、言った通りだろ。ここのスィミットを食ったらもう他の店じゃあ食えねえ」


 俺たちは食事を済ませ中庭に出た。まさにその時、町中に奇妙な男の声が響き始めたのだった。


 韻を踏んでいるものの、歌というには一本調子過ぎる。何度も同じフレーズを繰り返す男の声が、どこからともなく俺たちの耳に届いたのだ。


「な、なんだこの声は。火事か?」


 リーフは慌てて周囲を見回した。だが、驚くことは無い。これはこの地域では日常の光景なのだ。


「安心しな、これは礼拝の時間を知らせる合図だ。古代アラミア語だから聞きなれないのは当然だ」


「礼拝の合図? 鐘のようなものか?」


「そうだ。アラミア教徒は毎日日の出と正午、日没の時刻に祈りをささげる。太陽の恵みをアラミア神から授かっている感謝を示すためにな。今はちょうど正午で、これからモスクで皆集まって一斉に礼拝を行うんだよ」


「モスクって何だ?」


「礼拝堂のことだ。そうだ、せっかくだしちょっと覗いていこうぜ」


 俺はリーフを引き連れて隊商宿の外に出た。村人が皆、同じ方向にぞろぞろと歩いて向かっていく。俺たちはその流れに乗って、群集についていくことにした。


 しばらく歩くと屋根の隙間から細長い石造りの塔が見え、男の声が一段と大きくなる。どのような小さいモスクにも、必ず高さ30メートル以上の尖塔が建てられており、アラミア教の僧侶はこのてっぺんに登って先ほどの呼びかけを行うのだ。そうやって礼拝の時刻を周囲の信者に知らせている。


 ここは小さな村なので人ひとりがやっと上に乗れるような代物が一本建っているだけだが、これはアラミア教の権威の象徴であり、大都市のモスクでは60メートル近い高さのより荘厳な塔が最大6本もそびえ立っているのだ。その圧倒的な威圧感と神々しさには、異教の旅人と言えど畏敬の念を抱かざるを得ない。


 こんな小さな村のどこにこれだけの人数が隠れていたのか、子どもも大人も男も女も、皆が皆モスクを目指して静かに歩いていた。やせ細ったみすぼらしい男の脇を、従者を引き連れ豪華な装飾で着飾った男が通り過ぎ、縫製の作業場から出てきた女と酒樽を転がしていた男が並んで歩いている。


 そんな人々が狭い道を歩いていると、その脇道から、家の中からさらに人が飛び出しては合流し、村人は巨大な生き物のように一体となって同じ方向に向かうのだった。


 そんな彼らの目的地は同じ、村の中央広場に鎮座するモスクだ。白色の石灰石で覆われたドーム状の天井の傍らに、これまた真っ白な尖塔が伸びている。モスクとしては小さいながらも周りの家々に比べたらはるかに大きく、趣のある外観となっている。


 そのモスクの巨大な門めがけて集まった人々の様子は、遠目に見れば砂糖に群がるアリのようだ。だが、浅ましく慌ただしい様子はまるでなく、皆穏やかに、道を譲り合いながら門をくぐっていった。


「俺たちは異教徒だからモスクには入れねえ。中の様子を見るだけにしとこうぜ」


 人の流れに沿いながら少しずつ移動し、俺たちはモスクの巨大な扉にたどり着いた。そこの近くの壁に背中を押し付けるようにして、二人一緒に中を覗き込む。


 モスクの中は床一面に絨毯が敷かれ、人々は裸足になって建物の奥へと入っていく。そして奥に入った者から順に正面に設けられた祭壇を向いて跪き、床に着きそうなくらいにまで深々と頭を下げた。


 一人が跪けばその隣の人間も同じく床に伏し、その隣もと続く。終いにはモスクの中の全員が頭を深々と下げ、祭壇脇の壇上で教典を広げた僧侶が祈りの言葉を唱える。モスクに響く祈りの声に合わせて、伏した全員が一斉に立ち上がり、また伏してを繰り返す。


 ここの祭壇は蛇の這ったような金文字のパネルが飾られているだけの素朴なもので、聖人像も肖像も無い。


 神の造形は作ってはならないものの、高僧や預言者の彫像や絵画を祀ることは可能なゾア神教とはここで異なる。ゾア神教のしみ付いた西方の人間にとっては多少物足りないだろう。


 しかしそのような不満も、リーフには浮かんでこないようだ。目をキラキラさせて、一つの心臓のように拍動を続ける人々に見入っていた。


「どうだすごいだろ。これがアラミア流の祈りだ。毎日これを三回やるんだから、よくやるよな」


「すごいなこれは。こんな習慣、私はまったく知らなかった。世界は広いんだな!」


 素直に感心していた。ゾア神教以外の異教について全く無知なリーフが何か無礼を働かないかと少しばかり不安だったが、杞憂だったようだ。偏見よりも好奇心が勝るタイプなのだろう。


 ふとモスクの中に目を戻すと、あの水タバコを楽しんでいた爺さんも座り込んでいる。足腰も弱っているだろうに、何度も立ち上がっては伏せてを繰り返していた。



挿絵(By みてみん)



 夕方が近付くにつれ、俺たち以外利用者のいなかった隊商宿にも続々と旅人が入ってきた。ほとんどがアラミア教徒の商人で、多くても四人程度で旅をする小規模な集団だった。


 彼らは宿に着くとすぐに食堂に向かい、喉を潤し胃を満たす。過酷な砂漠の旅ではまず食べることが大事だ。丈夫な体でないとこの砂漠は越えられない。皆それがわかっているようで、出された料理をがつがつと貪っている。


 何もやることも無かった俺たちはしばらく昼寝をした後、アイランというヨーグルトで作る飲み物を頼んでずっと食堂で談笑をしていた。話題は相も変わらず俺の旅の思い出だが、今日は特に各地の風習についてリーフにバンバン質問された。今日の祈りの風景が印象に強く残ったのだろう。


「はるか東のカリヤ国では街中を流れる河が生命の生まれ還る場所なんだと。その河の水に浸かった者は清められると言われてるから、沐浴も洗濯もそこで済ますんだ。さらに、死者を焼いた灰もその河に流して、生前の罪を全て洗い流すらしい」


「死者の灰? 死体を焼くのか?」


「ああ、東の国はここと違ってよく雨が降るから、人間の死体がすぐに腐っちまう。放っとくとすぐ虫が湧いて見れたもんじゃねえから、さっさと焼くに限るんだ」


 そんなときだった。


「あのバカ野郎、よりによってこんな時に!」


 突然、男の怒鳴り声が食堂を駆け抜ける。俺たちは話をやめ、声のした方に顔を向けた。


「俺たちには時間が無いんだぞ、間に合わなかったら親方の顔に泥を塗ることになっちまうだろ!」


「そんなこと言われても、あいつの病気はかなり重い。これ以上動かしたら本当に死んでしまう」


 食堂の入り口付近で、黒いターバンと髭もじゃの男が顔を真っ赤にしていた。それを後ろから小太りの男が宥めていたが、髭もじゃ男の怒りは収まりそうにない。


 ただ事ならぬその雰囲気に、近くに座っていたいた男が「どうした?」と尋ねた。


「どうしたもこうしたも、俺たちどうしても明後日までに荷物をサルマまで届けなきゃならないのに、仲間が一人病気で倒れちまったんだ!」


 髭もじゃが唾を飛ばしながら凄い剣幕で言い放つと、尋ねた男は「ひいっ」と小さくなってしまった。


 小太りの男が食堂の人々を見回して、済まなさそうに眉をしかめると、髭もじゃ男の腕をつかんだまま全員に聞こえるように話し始めた。


「私たちは旅の商人です。荷物はたくさんあるのに仲間が倒れてしまって、すべての荷物が運べなくなってしまいました。どなたかサルマの街まで、御者でもラクダの先導でも、手を貸してくれる方はおられませんか?」


 なるほど、よくある話だ。旅先での病気は本当に困る。宿に何日も寝込むことになったら仲間にも宿の主人にも迷惑をかけてしまうからな。


 しかもこの男たちはどうも急ぎの用があるみたいで、仲間を一旦置いてでも目的地に向かわねばならないらしい。


「荷物は何だ?」


「東方の珍しい酒です。実は明後日の夜に親方が宴を開くので、それにはどうしても間に合わせないといけません」


 誰かが訊いたので、小太りの男は丁寧に返した。


「明後日か…サルマの街までは普通なら三日はかかるぞ。夜通し歩けば何とかなるかもしれんが」


 誰かがため息をつきながら言い放つと、二人の商人は項垂れてしまった。


「ええ、それはわかっております。ですが今度の宴は我らがセリム商会の威信をかけた盛大なもので、失敗すればサルマだけでなく国全体の経済にも影響が出ます」


 食堂がどよめいた。セリム商会と言えばタルメゼ帝国有数の大商人だ。民衆の日々の食料品から高官の宝飾品まで、あらゆる品物を取り扱っている。近隣諸国にもタルメゼ名産のオリーブや絨毯を売り歩いているため、国力の落ちた現在の帝国にとっては外貨を稼ぐ貴重な手段となっている。


 もしここが潰れるようなことになれば、それに関わる商工業者が軒並み取引先を失うわけで、国家の危機をも招きかねない。


「おい、その話もう少し詳しく聞かせてくれないか?」


 俺は立ち上がった。食堂の皆の視線が俺に注がれる。


「オーカス、どうしたんだ?」


「リーフすまねえ。シシカに着くのが何日か遅れるかもしれねえ」


 ピンチは最大のチャンスと、誰かが暑苦しいことを言っていたがこの国家のピンチは今の俺にとってまさしくチャンスなのだ。


 これ以上の一攫千金のチャンス、滅多に巡ってくるものではない。

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