第四章 信仰の都カルナボラス その5
「本当に大丈夫なのか?」
大聖堂前の広場。その中心に俺とチュリルはいた。
「安心しなよ、今のあたいらの姿は誰にも見えてないよ」
俺はチュリルの小さな頭に手を載せ、二人で歩調を合わせながらゆっくりと進んでいた。
このチュリルの力は実に便利で、自身の身体だけでなく触れている人間や物も透明にすることができるのだ。ただし見た目が透明になるだけで壁をすり抜けるといった芸当はできず、人にぶつかればすぐばれてしまう。
俺たちは行き交う人々に注意しながらカニのような歩き方でジグザグに広場を突き抜けた。大聖堂にたどり着くにはどうしてもこの広場を越えなければならない。
噴水を横切り、ようやく門の脇にたどり着くと、ちょうど信徒の女が三人ほど、一斉に扉を押していた。女一人ではとても重い巨大な扉は、ゆっくりと人の通れるほどの口を開ける。
今だ!
俺とチュリルは示し合わせてもいないのに同じタイミングで速足になり、扉の隙間に滑り込んだ。
相も変わらず悪趣味なプラートの肖像画に見下ろされながら俺たちは礼拝堂を慎重に進んだ。
誰もが口を閉ざした静かな空間で、あちこちで信者が椅子に腰かけ祈りを捧げている。内装は変わってしまったが、この静寂と信仰心は5年前と変わっていない。
「あっちに地下へ通じる通路がある。きっと二人はそこだよ」
俺とチュリルは音をたてぬよう気を配りながら礼拝堂の奥へと向かった。一般信徒立ち入り禁止なのだろう、立ったままうつらうつらと頭を動かしている教団兵の横をすり抜けて薄暗い通路に入る。
この奥には先ほど俺の招かれた食堂があるが、途中いくつか別の通路につながっていた。僧たちの寝床でもあるのだろうと思っていたが、そのうちの一本は昼間なのに一条の光も差し込まない暗さで、突き当りには鍵のかかった扉が設けられていた。
「壊したら入れるけど、騒ぎになると厄介だ。誰かが出入りするまでじっと待つよ」
俺はチュリルの腕をつかんだまま背を壁に当てた。
チュリルの姿は今触れている俺にしか見えないが、不意に誰かにぶつかればせっかくここまで来たのが水の泡だ。
「へっへっへ、旦那もなかなかやるじゃないか。盗人の才能あるんじゃないかい?」
お前らと一緒にすんな。俺はぎろっとにらみつけるだけで返した。
こんな状況だというのに笑っていられるなぞ肝の座ったチュリルだが、この娘の出自について俺は尋ねることができなかった。
タルメゼ帝国のチュリルといえば、セリム商会会長が真正ゾア神教と協力するに当たって人質として差し出した一人娘のことではないか(第二章その9参照)。まさかこんなところで行方知れずの娘と巡り合うことになるとは思ってもいなかった。
商売に詳しいのは豪商としての才覚を受け継ぎ、幼いころから親の仕事ぶりを見てきたからだ。
会長は娘のことをひどく悔やんでいたが、俺はまだそのことを伝えていない。それどころかカシア・セリム会長に出会ったことすら黙っていた。
あの会長に頼まれたことだからいつかは伝えるべきであろうが、そのタイミングがまだつかめない。無事セチアたちを救い出して落ち着いたら、話してやろう。
そんなことを考えているといくばくかの時間が過ぎ、礼拝堂から誰かがコツコツと足音を立てて近付いてきたのだった。
俺たちは息を殺して壁より背中を押し付けていた。だがその人物が姿を見せると俺は声を上げそうになり、慌てて片手で自分の口元を押さえたのだった。
オーランダーだった。シシカの都でセチアを殺そうとした張本人が、トドーマを始末した時と同じ殺気立った形相でずんずんと歩いていたのだ。
赤い髪の毛はすべて逆立ち、まるで火柱のように揺らめいている。
こいつ、俺たちがカルナボラスへ向かったすぐ後に追いかけてきたのか?
高速のガレー船(手こぎの船)を乗り継げばもっと短縮はできるだろうが、それにしても俺たちが着いた同日にカルナボラスに到着するとは、危うく先回りされるところだった。
そのオーランダーは壁に貼り付いた俺たちに気付くことは無く、懐から鍵を取り出すと扉を乱暴に開け、さらに暗い奥へと消えていったのだった。
「こいつの後ろは使いたくねえなあ」
「何言ってんだい、行くよ!」
俺とチュリルは開け放たれた扉を急いでくぐった。間一髪、その先の部屋で番をしていた兵士が扉を閉め、入念に鍵をかけたので、俺たちはほっと息を吐いた。
扉の先は階段で地下に通じている。壁に掛けられた蝋燭を頼りに、先を進むオーランダーに続いた。
「セチアが見つかったとは本当か?」
しばらく降りたところでオーランダーが立ち止まり、暗闇に向かって叫んだ。
この先はちょっとした部屋になっているようで、オーランダーの頭に遮られているが、わずかに机と蝋燭が見え、誰かが座っているのも分かる。
「本当のようです。ですがオーランダーさん、そのような重要な話、なぜ私には知らされなかったのでしょう?」
返って来たのはどこかで聞き覚えのある男の声だった。柔和で心安らぐ、それでいて芯の通った力強い印象。
「それは……マホニア殿には負担をかけさせたくないというプラート様の心配りだ」
「心配りですと? そんなものは不要です、私はそのセチアという少女と会っていたのに!」
部屋にいたのはマホニアだった。サルマの町の司教でありタルメゼ帝国に真正ゾア神教を伝えたあのマホニアだ。
この男も急いでここまで来たようだ。ローブは薄汚れ、頬もげっそりと疲れ果てている。ノンストップで早馬と高速船を乗り継いで来たのだろう。
「確かに私はまだ修行中の身ではありますが司教です。本部とはいえ司祭であるあなたが重大な秘密を知っているというのに、司教である私が知らないというのは道理にそぐわないのではありませんか?」
オーランダーは俯きながら小さく頷くばかりだった。
この真正ゾア神教も一枚岩ではないようだ。プラートという絶対的な存在がいなくなったらどうなることやら。
暗く狭い部屋を俺たちは慎重にかつ素早く通り過ぎ、さらにその先へと進んだ。
ここから先は地下牢だった。元々教義を冒した者や異端者を入れておくためか、鉄格子で区切られた牢屋がかなりの面積を占めている。
蝋燭の炎に照らされた暗闇の空間では地下水が石壁の隙間から滲み出しており、夏だというのに重苦しい冷気と湿気に満たされていた。
「聖堂の地下に牢屋とは、世も末だねえ」
「昔の魔女狩りの時代にはここでも牢が足りなかったそうじゃないか。表向きは清楚なゾア神教も、裏には物騒な顔があるってもんさ。きっとあの二人もここに連れ込まれたはずさ」
俺は周囲を見回した。セチアとスレインはどこにいる?
「ここは男と女で牢を分けている。男は右手、女は左手さ」
「そうか、それじゃあ急いで……ておい、そっちは逆だぞ」
左に進もうとする俺とは逆に、チュリルは俺の手を引っ張り右へ連れて行こうとしていた。
「あたいの用事が先だよ。本当はこっちに用があるんでね」
確かに、チュリルの仕事に協力するという契約だったな。セチアとスレインに申し訳ないと思いながらも、俺はチュリルについて行った。
通路の左右の牢屋には決して少なくない人数が収容されていた。皆全員、生気を抜かれたように真っ暗な天井をぼーっと見つめているか無言のままうずくまっている。
食事はちゃんと出されているようだが、太陽の光を失った人間は生きる希望すら失うのだろうか。
いくつもの牢屋を覗き込んだチュリル。その顔もどんどん焦りの色が浮かび始める。
そして最奥の石材が積み上げられ、鉄製の扉にわずかな覗き込み口だけがある牢屋の前に来たところで、ぱあっと顔に光が戻り、鉄格子を掴んで呼びかけたのだった。
「マグノリアさん!」
俺もチュリルの後ろから牢を覗き込む。
扉の向こうでは上半身裸の大男が石壁に埋め込まれた手枷に吊り上げられていた。脚を床についているにもかかわらず、一目見て分かるほど男の身体は巨大だった。
少なくとも俺よりもさらにひと回りはでかい。それだけでも十二分に恵まれた体だというのに、この大男は腕、胸、肩とあらゆる筋肉が隆起している。
これほどの人間は故郷の村でもそう滅多にいない。俺自身、自分よりも身長の高い人間を見たのは数年ぶりだ。絶対にこの男とだけは力比べしたくない。
「チュリル……どうしてここに」
ギロリと眼光を飛ばし、マグノリアと呼ばれた大男が途切れ途切れに尋ねた。
「助けに来たんだよ。あたいだけ逃げるなんてとてもできないからさ」
この男の救出がチュリルの潜入の目的だったようだ。
しかしマグノリアという名前、どこかで……そうだ、思い出した。スレインが話していた真正ゾア神教の戦士だ。たしかセチアの直属の上司で、圧倒的な力で敵を蹴散らしたという元隣国ムサカの猛将。
先祖代々で受け継がれてきた戦士としての血がたぎる。国や所属はどうであれ、これほどの英雄に出会えたことに感激していた。
だが、今はそう喜んでいる場合ではない。何せここは大聖堂の牢屋だ。
「助けると言っても、この扉はどうやって?」
俺は牢の扉の取っ手に手をかけながら尋ねた。ここにも鍵が掛けられている。
「ふふん、あたいを誰だと思っているんだい? その辺は抜かりないよ」
チュリルは懐から鍵の束を取り出した。先ほどの扉の番をしていた兵士からくすね取ったのだろう。
こいつだけは敵に回したらダメだな。
チュリルは牢の鍵を開け、マグノリアの手枷も外した。マグノリアは手を床につき、ハアハアと息を切らしている。脚を見てみると皮がめくれてひどく膿んでいた。火にでも炙られ拷問にかけられたのだろう。急いで処置しないと腐り落ちてしまう。
「ひどい怪我だ。おい、俺につかまりな」
俺は背中を向けてしゃがむと、マグノリアは這いながら俺の背中にゆっくりともたれかかった。
「ありがとう、名は?」
「オーカス。旅の商人さ」
さすがは筋肉ダルマの大男、背負ったまま立ち上がるだけで全身にずしりと重みがかかるが、この程度なら持ち上げられないことはない。故郷ではガキの頃から剣術の訓練のために自分の体重よりも重い岩石や丸太を運ばされていたのだから。
「マグノリアさん、すぐに脱出と言いたいんだけど、実はセチアとスレインも捕まったんだ。助けに行きますよ!」
マグノリアがぼそりと「セチア……」とつぶやいた。だが俺は何も返さなかった。
大男を背負った俺の服の裾をチュリルがつかみ、俺たち三人は姿を闇に溶かす。
今来た道を戻り、まだマホニアとオーランダーが何か言い争いをしている部屋の前を通過して女用の牢屋へと向かう。
ここは男ほど多くはないようだが、いくらかの女たちが収監されていた。やはり皆、明日のことなどどうでもよいとでも言いたげに虚ろな眼をしている。
美しい金髪の女は元は貴婦人だったのだろう、ふくよかな体つきとシミひとつない肌で外に出れば男たちの注目の的だろうが、ここでは壁にもたれかかったままただブツブツと何事か呟いているだけだ。
そして肝心の二人の入っている牢屋だが、すぐにわかった。
「ところで看守、どうしてお前はそんなに背が低いのだ?」
「ほっとけ、これでも十歳までは人並みには大きかったわい!」
男子牢が破られているなど露も知らず、セチアは相も変わらず看守と他愛もない会話を繰り広げていた。ここは牢屋だというのに、図太い。奴の心臓に毛は何本生えているのか。




