第四章 信仰の都カルナボラス その1
来る日も来る日も背中を丸めて寝ていたせいか、背骨が曲がったまま固まってしまいそうだったが、七日目にしてようやく陸が見えたので俺はなんとか一生猫背にならないで済みそうだ。
カルナボラスは内陸の都だが海と運河で繋がっており、船は湾の奥の運河を遡上し、市内に発展した港へと停泊する。運河に一度に入れる船舶の数は決まっているため、しばらく湾内で順番待ちをしてから運河を昇る。
運河の幅は巨大な帆船でもすんなり通れる広さで、狭い場所でも幅50メートルは確保されている。この地に古代パスタリア帝国が誕生した1500年以上前から、少しずつ拡張を重ね発展してきた人類の遺産だ。
港は運河の奥にあることも相まってさほど大きくはないが、それでも数艘の帆船が並べられるだけのスペースは十分にある。俺たちの乗った帆船はゆっくり船着場へ近づくと、紐をかけ、桟橋へと板を架けた。停泊完了だ。
「カルナボラスに着いたぞ。さっさと降りろ」
何度か酒をねだりに来た船員が乗客を誘導している。俺は二つになった樽を転がしながら甲板を横切った。
「オーカス、ありがとうよ。縁があったらまた飲もうぜ。それと女の子は丁寧に扱えよ」
俺は苦笑いするしかなかった。最初の夜にこの船員が酒を無心に来た時、セチアとスレインが船室でパンをかじっているのを目撃されているのだが、客の酒を飲みに来ているなどバレたら自分もこの船を降ろされかねない。
俺とこいつは無言の了解を得て、酒の代わりに密航を見逃してもらったのだった。
船員に手を振って別れ、船着場に降り、久しぶりに陸の風をその身に感じた。
倉庫だろうか、港の一角にある古い小屋の裏にそそくさと回った俺は、そこで樽を立てて蓋を外した。
「おーい、もう出てきていいぞ」
樽の中から頭を抱えて顔を真っ青にしたスレインと、いつも以上に髪の毛をはねさせながら口を押さえているセチアがゆっくりと這いずり出した。
「うう、頭が痛い」
「転がすのはやめてくれ、オーカス」
口々に不満を言う二人。特にセチアはゲーゲーと汚い声を吐き散らしている。年頃の娘からこんな下品な音が出ているの、聞きたくない。
「すまん、一人で荷車無しじゃあこの樽を運ぶのは大変でな」
俺はセチアを引っ張り出して運河の岸まで運ぶとその細い背中をさすった。直後セチアの腹の中から決して言い表したくない物体が出てきて、運河にどぼどぼと滴っていく。
要らないものを吐き出してすっきりしたのか、俺が一旦船に戻って絨毯やら大きな荷物を縛り付けたアコーンを連れてくる間に、セチアたちは元気を取り戻していた。
「シシカとは雰囲気が全然違うな。どの家の屋根も三角形だ」
船着場に出て街並みを見渡す余裕も出来たようだ。セチアは目をきらきらと輝かせ、瓦の一つ一つまで観察している。
どの建物も低くとも三階建ての石造りで、白だけでなく黄色や赤など彩色の施されているものも目に付く。三角形の屋根に敷き詰められている瓦も赤や黒とバリエーションに富み、二つとて同じ建物はない。そんな建物が四方八方あらゆる方向を取り囲んでいる。
古代パスタリア帝国の首都に始まり、ゾア神教の総本山と周辺諸国の中心であり続けた都だ。歴史の重みと人の営みが街並みのひとつひとつに濃縮されている。
「セチア、やっぱり思い出せないの? ここは何百回も来ている場所なのに」
スレインは憐れむようにセチアを見つめるが、当のセチアには耳にも届いていないようだ。もしかしたら聞こえているがもう片方へと筒抜けになっているのかもしれない。
だが、どうも違和感がある。この風景、前に来た時と何かが違う。
「港が5年前と違うような」
街並みを見渡しながら、俺はつぶやいた。
「浮浪者がだいぶ減りましたからね。以前はスリで溢れていましたから」
そうだ、前は船の積荷や商人の手荷物を狙ってみすぼらしい姿の浮浪者たちがそこら中をうろついていた。
物陰に隠れたり、座り込んでじっと船を見つめていたり、群衆に紛れつつちらちらとこちらを窺っていたり。だからこの港を歩くときは砂漠の盗賊よりも用心しろ、とはよく言われたものだ。だが今はそんな連中がすっかりいなくって、港は漁師や商人も気兼ねなく荷物をやり取りしている。
「すべて」
「すべてプラート様のおかげ、てのもな」
スレインの言葉を遮って先に言ってやった。にやっと笑いながら目を向けると、スレインは頬を膨らましている。
プラート様の偉業は船の中で耳が痛くなるほど聞いていた。統治した街はあらゆる身分の人間の救済のため、最低限度の生活は保障すると。スリに走っていた貧民にも金を分け与えたことで、彼らが犯罪に手を染めなくなったのだ。
「さあ、プラート様に会いに行こう!」
ルンルンスキップを踏みながらセチアが話しかける。さっさと記憶を取り戻したいのか、単に都の風景にテンションが上がっているのかはわからないが、いつも以上に機嫌が良い。
「プラート様はカルナボラス大聖堂におられるわ。少し歩くけど急ぎましょう」
スレインがセチアの手を引いて歩き始めるが、俺は二人の前に出て道を塞いだ。
「待て待て、たしか港の近くにも聖堂があったな。おい、船旅の無事を感謝しに祈りに行くのも悪くないんじゃないか?」
この港の近くには航海の無事を祈って作られた聖堂がある。元々は船乗りのための聖堂だったが、いつしかカルナボラスの住民すべてが船に乗る時には礼拝に来るようになったのだ。
そこでお祈りをした者は船旅の途中、決して嵐に遭ったり遭難したりしないという。そして無事に帰ってきた時には神に感謝するのを忘れないこと。それはカルナボラス港を利用する者にとっては常識になっていた。
セチアは浮かれたまま「そうだな、祈りに行こう!」と今来た道とは逆に方向を切り替えた。スレインは何も言わずセチアに続いた。
5年前の記憶を頼りに、俺は港から一本だけ路地に入る。そこには急峻な三角屋根と青っぽい壁が特徴的な聖堂があった。高さは周りの建物より頭一つ飛び抜けている程度だが、礼拝堂への扉は巨木を何本もつなぎ合わせて作ったのだろう、普通の家の二階の窓の高さよりも上まで伸びている。扉の上にはゾア神教のシンボルである太陽の紋章が輝いている。
ここが件の船乗りの聖堂だ。
「わあ、大きな聖堂だな」
いっそう目の輝きを増すセチア。ここまで楽しんでもらえるのなら、こちらも嬉しい。
「これでもこの都の中では小さい方さ。元々は船旅の無事を祈るために建てられたんだが、ここには海賊から僧侶になったと伝えられる聖人ルトーの像が素晴らしく……て、あれ?」
得意げに解説している俺だったが、聖堂を見て異変に気付く。
「ルトーの像が無い?」
五年前、ここに来た時には聖堂の屋根に太い腕を晒して教典を開いた聖人ルトーの像がこの街を見下ろしていた。しかし今、ルトーの猛々しい姿はそこに無かった。ただぽっかりと奇妙な空白だけが乗っかっていた。
「この聖堂のルトー像は4年前に撤去されました」
スレインがさらりと言いのけ、俺は掴みかかりそうになったが、ぐっと堪えた。しかし口は耐えられなかった。
「何でだよ! 500年以上前に彫られたっていう聖人像だぞ。カルナボラスの船乗りたちのシンボルなんだぞ!」
「聖人とは旧来のゾア神教を広めた僧侶のこと。我々にしてみれば間違った教義を広めた罪人に外なりません。そんな者たちの偶像を残すわけにはいきませんから」
スレインはまたも冷ややかに告げる。
ふと、ここにはルトーの像以外にも何点か見事な絵画が飾られていたことを思い出した。いずれもゾア神教を広めた聖人や開祖セラタを描いたもので、古いものでは800年前の聖堂建立の頃から残されているものもある。
言いようのない不安が頭をよぎり、俺は急いで扉に手をかけて引いた。細かい花模様の彫刻を施した木製の扉がゆっくりと開かれ、人一人分の隙間ができるとすぐに中へと飛び込んだ。
礼拝堂に入った途端、俺は言葉を失った。そしてようやく「ああ、何だこいつは」と喉の奥からつまりながら音が出てきたのだった。
ここにはゾア神教開祖セラタが山頂で神から預言を授かる場面の祭壇画があった。しかし、今その祭壇は完全に形を失い、代わりにまだ新しい木製の祭壇と、そこに金色に照り輝く長い髪の人物の肖像画が飾られていた。
ゾア神教にまつわる聖人は数多くいるが、こんな金髪で、一見しただけでは男か女かよくわからない顔立ちの聖人は知らない。
「あのお方が真正ゾア神教の開祖プラート様です」
後から入ってきたスレインがそっと耳打ちした。セチアはスレインの後ろで祭壇をしげしげと眺めていた。
「おい、真正ゾア神教ってのは随分と独善的な教団なんだな」
俺はスレインを横目で睨みつけていたのだろう。腹の虫が相当騒いでいた。
「そんなことはありません。私たちは正しい教えに民を導いているだけです」
「その押し付けが独善的だというのがわからないのか?」
スレインはぎりぎりと歯を噛み締めて「な、なんと……」とぶつぶつ言っていたが、よく聞こえなかった。
俺は湧き上がる感情に任せて続けた。
「アラミア教だけに飽き足らず、元のゾア神教の遺産まで壊すなんてどうにかしているぜ。ゾア神教がなければ真正ゾア神教なんて成立すらできねえだろうに」
「プラート様の御前でそのような口の利き方、いくらオーカスさんでも怒りますよ!」
俺の悪態にはスレインもさすがに我慢ならなかったようだ。今にも俺の首を絞めんと鬼気迫る表情を浮かべて詰め寄る。それをセチアが背中から押さえていると、礼拝に来ていた信徒だろうか、白い服を着た連中がこちらを見てヒソヒソと話し始めた。
「御前? あれはプラートの肖像画であってここに祀られるのは本来ゾア神だ!」
セチアに固められて動けないスレインは俺を無言で睨み返していた。
「あんたはどう思っているんだ? 今まで多くの民が想いを寄せてきた偶像を破壊して、何が救済だ。あの聖人画に救われてきた人がどれだけいると思っている。あんたらのやっていることは、つけあがったエゴ以外の何ものでもない」
ゾア神教も偶像崇拝は禁じられている。だがそれは神の偶像を作ってはならないという意味で、神の教えを伝導した預言者や聖人は対象ではない。
カルナボラスの船乗りたちは聖人ルトーの逞しい彫像を通して神の偉大さを知り、帰依するのである。そして苦難が立ちはだかった時には勇ましく美しい聖人の姿を思い出し、神の意のままに身を任せる。
偶像は心の支えであり、拠り所なのだ。俺の故郷の聖堂にも木彫りの粗末なセラタ像があったが、俺も辛い時にはあのひょろっちい聖人の姿を思い出している。
その偶像を破壊するなど、人の心をへし折るような愚行だ。
「救済のために……」
スレインは言葉をごにょごにょと続けていたが、目をそらした。
「そうだ、大聖堂。カルナボラス大聖堂はどうなったんだ?」
しばし黙り込んだスレインだったが、ようやく重い口を開き、バカ丁寧に答えた。
「……お話しました通り、大聖堂は我々の本部として利用しています。最も多くの信者が集まりますので。プラート様も普段はそこにおられますし」
「絵は? 三大聖人のフレスコ画はどうなったんだ? それにセラタの立像は?」
スレインは返事をためらっていた。その様子から大方の予想は付いたが、居ても立ってもいられなくなった俺はすぐに駆け出した。
「あ、オーカス、もうちょっと見物でも……」
セチアの声が聞こえたような気がしたが、もう止められない。セチアもスレインも、アコーンすらもほっぽり出して俺は敷き詰められた石畳の上を駆けだした。




