第三章 海運の都シシカ その8
「パスタリア帝国カルナボラス行きの船が間もなく出るぞー」
船着場でゾア神教の紋章を胸につけた若い船乗りが叫ぶと、港のあちこちから急ぎ足で船に向かう乗客が集まってきた。
「すまねえがこの荷物も載せてくれ」
船の出る直前、俺は樽を人力荷車に三つ載せて駆け寄った。
「何だこれは?」
「ラク(ブドウから作る蒸留酒)だ、友人に好きな奴がいてな……あんたも一杯どうだい?」
そう言いながら懐から木製の杯を取り出すと、船乗りは喉を鳴らした。
「本当かい? それなら一杯……」
樽の蓋を少しずらすと、とけるような甘い香りが鼻についた。杯の三分の一ほどに無色透明の酒を汲むと、すかさず土製の水筒からこれまた無色透明な水を注ぐ。
するとどうだろう、今まで透き通っていた酒が瞬く間にヤギの乳を思わせるような白に濁り、船乗りを「おお」と驚かせる。
以前セチアにも話していたが、これが色の変わる不思議な酒だ。いつまでも残る甘味に、誰もが病みつきになる。
コップを手渡すと、船乗りは白くなった酒を喉に流し込んだ。
「うーん、シシカのラクは絶品だねえ。この都に来て本当に良かったよ。あ、いいよ、遠慮なく積んでいきなよ」
「また飲みたくなったら俺の船室に来な。いつでも振舞うぜ」
「おお、じゃあ是非ご馳走させてもらうよ」
俺は荷車を引いたまま船に乗り込むと、三つの樽を個室に運び入れた。この船は珍しいことに客ごとに狭いながらも個室が用意される。荷物の盗難を防ぐためだろうか。
やがて船は繋留ロープをボラードから解き、ゆっくりと動き始めた。
俺は樽をこんこんと叩き、ぼそぼそと呟いた。
「もう出てきていいぞ」
すぐさま樽の二つががたがたと揺れ、内側から蓋が吹き飛ぶ。
「ぷはあ、苦しかった!」
「まさか本物のお酒まで買っちゃうなんてね」
樽から出てきたのはセチアとスレインだった。もうお分かりかと思うが、疑いもなく密航である。
二人はゆっくり伸びをすると、背骨や腕がばきばきと鳴る。あの狭苦しい樽の中でずっと屈んでいたのだから、解放感たるや至上のものだろう。
そんな二人を前に、俺はベッドに腰掛けて得意げに笑った。
「船員一人でも味方に付けとけば後で色々と便利だからな。さてお二人さん、これから俺はカルナボラスに向かうけど、あんたたちはどうするつもりだい?」
「オーランダー様がなぜ乱心されたのかはわかりかねますが、とりあえずプラート様にお会いしに行こうと思います。あのお方は常に正しい神の言葉をお聞きになられますので」
スレインが淡々と答える。この娘は樽の中でもずっと水瓶を抱えていた。
「そのプラート様って開祖を随分と信頼しているんだな」
「プラート様は腐敗しきったゾア神教をあるべき方向に導いた偉大なお方です。私たちはプラート様のおかげで生き長らえたようなものですから」
「ほう、そうだったのか」
セチアが他人事のように言い放ったので、スレインは口をつまらせた。
「そうだったのか、てセチア、あなただって似たようなものでしょう!」
「ほうそうか、昔の私は随分と苦労していたのだなあ」
「そうよ、あなたは身売りされそうになっていたところをプラート様に助けられたのよ」
「そりゃあびっくりだ、プラート様に感謝しなくちゃな」
あまりにもあっけない物言い。こいつはどうも言動に重みがない。祈り始めたセチアに、スレインは呆れた様子でうなだれたが、すぐに俺を向き直り、また話し始めた。
「プラート様は神に選ばれた預言者で、神の言葉と祝福を我々に与えてくださるのです。私の力もプラート様を通してゾア神から与えられたものですから」
「そういやあんた、水でトドーマを縛り上げていたな。あれがあんたの力かい?」
「ええ、私は液体を思ったように変形させる力を授けられました」
液体を変形させる力。昨日見た通り、水を粘土のように自由に形を変える力のことだろう。形を変えた水は物を持ち上げることもでき、また宙に浮かせることもできる。実に人知を超えた能力だ。
「どうしてその力を?」
俺は興味本位で尋ねていた。真正ゾア神教が極端な連中であることは重々承知していたが、実際に目の前で立て続けに奇跡を起こされてしまっては、単なる奇術師集団には思えない。東方にもシャーマンや巫女が神と交信の儀式を行う風習はあるが、ここまで露骨に奇跡を演じられたことは無かった。
真正ゾア神教が正しいと断言するのは抵抗があるが、奇跡を起こすその力だけは少なくとも人間の理解を超えた存在であることは理解している。この質問は真性ゾア神教そのものより、神より授けられるという能力自体に向けられた興味から発していた。
「ゾア神の意思です。我々の知るところではありません。我々は祝福を受けて初めて、自分にはどのような力が与えられたかのをプラート様から告げられるのです」
スレインは一切表情を崩さずに述べた。この娘は普段は冷静を装っているが、一方で突然泣き出した取り乱したりと感情の起伏の激しい面があるようだ。
「ほうほう、それが私は雷の力だったのか。それならいっそのこと空を飛べる力が良かったなあ、楽しそうなのに」
「何を呑気な。その奇跡の力を受けたオーランダー様に殺されかけたのよ!」
「そういやオーランダーはどんな力を貰ったんだ?」
「オーランダー様が授けられた力は炎です」
「炎を出せるのか?」
なるほど、トドーマの気管を焼き切って窒息死させたのか。スレインが喉に水を突っ込ませたときに湯気が出たのも納得だ。
「いえ、正しくは身体を火の玉に変えることができるのです」
「火の玉? 体自体が炎になるってことかい?」
「その通りです。変化している間は斬られても叩かれても、一切の攻撃を受け付けないのだそうです」
斬られても斬れないなんて、それは驚いた。確かに、燃え盛る炎に刃を入れても炎は二つには分かれない。つまり俺が剣で斬りつけたとしても、あのオーランダーの身体は炎に包まれ、俺の剣をスッと透過させてしまうのだろう。それだけじゃない、剣がダメなら槍も棍棒も、どんな武器も奴には効かない。
凄まじく羨ましい力ではないか。俺にもそんな力があれば、盗賊なんて恐れずに旅を続けられるのに。
だが、一方で気になることもある。どうして神から授かる奇跡はそのような戦いに適したものばかりなのだろう。
スレインの力はまだよしとして、セチアの雷の力やオーランダーの炎の力、そしてトドーマの氷の力などはいずれも戦いの場において活躍する。白兵戦になれば使い方次第で一騎当千の働きを見せるだろう。
従来、預言者が起こした神の奇跡というものは嵐を起こして敵国の侵攻を食い止めたり、数年間ろくに雨の降らない地域に三日三晩雨を降らせ続けたり、枯れた井戸に手をかざすだけで水が噴き出たりといったものが多い。
世界各地に神の力を持った人間の伝承は伝わっているが、それらもほとんど同じで、個人の力に限ればせいぜい何百年も生きながらえたといった眉唾な伝説が加えられている程度だ。
個人に特定の能力、奇跡を起こす力が授けられるなど、どこの伝承にも聞いたことが無い。しかも預言者本人だけでなく、多くの人間が力を授けられるのも初耳だ。
そういった疑問から、俺にはどうしても真正ゾア神教の連中が聖職者というよりも現政権の転覆を狙う反逆者、良く言えば一種の革命家集団にしか思えなかった。
「しかしそんな力で皆を救おうなんて、俺からしたら随分と好戦的な教団に思えるんだが」
スレインの目つきが一変して鋭くなった。口もぎゅっと噤んでいる。
「この力は決して無力な民には振るいません。私利私欲のために民を虐げる支配者と戦うためのものです」
「その力で色んな国を落としたのかい?」
「ええ。シシカの場合は王家から我々を迎え入れてくれましたが、頑なに拒む者には強硬手段も取ります。屋敷に潜入の得意な教団員を忍ばせ、王族だけを捕らえて我々に従わせてもいます」
「なるほど、普通の人間なら王宮なんて近付こうとすら思わないだろうにな。あんたらの教団にはそういう力を持っている奴が何人もいるのかい?」
「ええ、私が知っているだけでも数十人。実際のところ祝福を受けた者は合計で何人いるのかはわかりません。統治のために西の国の各地へと散らばっておりますから」
西の国と聞いて、ふと故郷アイトープ国のことが頭に浮かぶ。長いこと帰っていないあのひなびた地の現状を俺はほとんど知らない。
「そういや、俺はアイトープ国の出身なんだが、あっちの方は今どうなっている? ずっと東方に商売に出ていたから何も知らねえんだ」
「アイトープですか、あちらは今でも悲惨です。十年前の大飢饉の後もずっと麦の不作が続いて、最近は鉄鉱山も枯渇気味です」
「そうか、全然変わっていないな」
聞くなり俺はため息をついた。あそこの生活は一切良くなっていないようだ。
「教団もアイトープには今年から布教に向かっています」
そのことはトドーマとの会話から承知済みだ。ただ、あそこの連中は思った以上に頑固なんで、奴らの信教を覆すのはなかなかに骨が折れるだろう。
かつて古代パスタリア帝国の一部だった時代にも当時の領主によりゾア神教への改宗が奨められたそうだが、古くから地元に伝わる土着信仰が根強く残り、全領民が聖堂に通うようになったのは改宗令が出されてから百年ほど経ってからだという。
今でも大々的にではないにせよ、土着神を祀る祝祭がほぼ全ての地域に伝わっている。
「支配はうまくいっているのか?」
そう言うとスレインがむっと頬を膨らませた。この娘は感情がすぐ顔に出る。
「支配なんて言い方やめてください。でも布教は今ひとつのようで、今なお旧来のゾア神教にすがっている民も多いようです」
「そりゃアイトープの奴らは信心深いもんよ」
「そうでしょうか。あんな過酷な環境でよく生きていられますよね。アイトープの民は救済を望んでおられないとしか考えられません」
スレインは顔を逸らしてさらりと言い放った。同時に、俺の中で何かが湧き起こった。怒りにも似たこの感情、俺はその衝動を抑えられなかった。
「そんなもの振りかざしたってあいつらは信用しねえよ」
気がつけば語気を強めて叫んでいた。
「あいつらは信心深いからあそこでしか生きていけないんだよ」
スレインもセチアも、微動だにせずきょとんと目を丸くしていた。スレインに至っては握り締めた拳がびくっと大きく跳ね上がったのも見えた。
「作物もろくに育たねえ痩せた土壌に、冬の寒さで毎年村の誰かが凍死する。しかもここ十年は不作続きときたもんで、領主でさえも食いつなぐのが精一杯だ。当然みんな生きるためには作物が要るし、天候も良くなって欲しい。毎朝毎晩、俺たちはゾア神に祈ったさ。でも、祈ったところで神は俺たちを助けてはくれなかった。ゾア神の祝祭日に突風で村がめちゃくちゃになり、備蓄していた小麦が全滅した。俺たちは神を恨んださ、なぜここまでに自分たちを痛め付けるのかと。それでも神に逆らうことはできない、土地を捨てて農耕をやめるなんて神の教えに背くことはできないからだ。だから俺たち次男坊どもは土地を継がず、地獄に堕ちる覚悟で商売を始めたんだ。死後の安寧よりも村の負担を減らすためにな。こんな仕打ちばかりの神を信じている連中に、現世での救いなんて言っても虚言にしか思えないだろう。あんたらの言う真正ゾア神教もアイトープの民が信じるゾア神も、結局あいつらにとっては同じ、残酷で不条理な神にしか思えないんだよ!」
思いつく限りにとめどなく口から言葉があふれ、すべてを吐露して俺はようやく息を切らした。
これほどまでに感情をそのままに口に出したのは久しぶりだ。商人になって愛想笑いばかりしてからは初めてかもしれない。
「そんな、オーカス、お前……」
今までほとんど聞くだけだったセチアが恐る恐ると俺の肩に手をかけた。ちょっと照れくさくなったので、セチアの手を握り返して笑ってやった。
スレインは目を赤くして黙りこくっていたが、やがて深々と頭を下げた。
「オーカスさん、そんな事情があったなんて知りませんでした。ごめんなさい」
丁寧にゆっくりとそう話したが、スレインはすぐに再び背を伸ばし、俺の目をまっすぐに向きなおし、再び話し始めたのだった。
「でも、これだけはわかっていてください。私も、そしてセチアも、皆信仰に裏切られ、そして真正ゾア神教に救われた者であることを」
海の上は陸以上に外部からの明かりが少ないので、夜になると三六〇度見渡す限りの満天の星空になる。
しかし窓一つ無い船室からはそんな絶景に気付く訳もなく、蝋燭の明かり一つの中で奇妙な攻防戦が繰り広げられていた。
「どうしてベッドがひとつだけなのですか?」
「迂闊だった、一人用の個室であることをすっかり忘れていた」
狭い個室にベッドは小さなものがひとつ。それをじっと見つめる大男と少女二人。どうやってこの狭い密室でこの三人が夜を過ごそうか?
「私たち密航者だから見つかったらきっと船から放り出されるな」
セチアがあっけらかんと言ってのける。
「そりゃあ俺が予約したんだし、ベッドはまず俺が使うだろ」
俺がドサッとベッドに腰を下ろすと、スレインは冷めた目で俺を見下ろした。
「私とセチアはどうするんですか、床で寝ろと?」
「おいおいおい、誰がそんなこと言ったよ。ほら、俺の右手と左手が空いているだろ、ここに一人ずつ……」
「オーカスさん、不潔です!」
「でも私は荒野を歩いているときはオーカスと一緒に毛布にくるまったりしていたぞ?」
セチアがそう言った瞬間、スレインの顔が引きつった。
「ぬ、ぬわんですってぇ? オーカスさん、セチアに何したんですか?」
抱えていた水瓶の蓋が外れ、水でできた巨大な腕が飛び出す。水の腕は俺の首を今にもぽっきり折ってしまおうとばかりにつかみかかってきたので、さすがに慌てた。
「おいおい、何もしてないって。勝手に想像して俺を悪者にするなよ!」
激しい舌戦の末、ベッドは女性ふたりが互いに丸まって使い、俺は酒樽を背に床で寝ることになった。しかも一週間ずっと。おかしいな、俺が個室を借りたはずなのに。
この話でタルメゼ帝国編は終わりです。次からはパスタリア王国へと話が移ります。
さて、この作品を読んでくれたリアル友人(非なろう会員)から「この国ってモデルあるの?」と質問されました。
答えは「めっちゃあります」。
お気づきの方も多いかと思いますが、この作品の時代設定は西暦1500年前後のヨーロッパであり、ちょうどルネサンスの花開いた時期と被ります。
タルメゼ帝国のモデルはオスマン帝国、現在のトルコであり、作者自身も
ロクム村&奇岩の谷→カッパドキア
サルマ→コンヤ
シシカ→イスタンブール
をイメージしています。
史実ではこの後からオスマン帝国は繁栄を迎えますが、この作品では既に衰退しているといった相違がありますが、あくまでフィクションですのでお気になさらずお読みください。
これからオーカスたちの向かうパスタリアは……名前からモデルが丸わかりですね。
今後とも精進して参りますので、読者の皆様ももうしばらくオーカス一行の旅にお付き合いください。
ここまで読んでくださりありがとうございました。




